(第7話)最初の落札:水利権(波紋と訂正)
朝いちばんの鐘は、工匠街の屋根瓦を一枚ずつ磨くように鳴った。昨日、工匠連合が落札した王都上水の水利権は、判子の朱が乾いた瞬間から“仕事”になった。署名は花だが、配水は根だ。根は土の中で音を立てない。
私とセドリックは、工匠街の詰所へ向かった。入口には新しい掲示――〈料金表(絵)改訂版/事故時の連絡先/夜間当番〉。紙釘の位置が揃っている。揃っている掲示は、それだけで人を落ち着かせる。
「令嬢!」
代表の中年工匠が飛び出してきて、手の甲についた青いペンキを慌てて拭いた。
「昨夜から“最初の一本”に取り掛かってまして――ほら、あの通りの老朽管、今日中に仮復旧を」
通りの角、石畳の下に半世紀ものの鉛管が寝ている。継ぎ目は鉛の汗をかき、周囲の土は黒ずんで柔らかい。工匠たちが木枠を組み、通行人の足を避けるための橋を架ける。遠見塔の若者が通行の矢印板を並べ、塔の鐘が半時おきに作業の注意を鳴らす。
「仮復旧の材料は?」
「修道院の井戸枠の余り鋼管を、寄進で。祈りより錆に強いって言いやして」
「良い“親戚関係”です」私は頷いた。「祈りと鋼は、喧嘩しません」
セドリックは現場全体に視線を走らせ、最後に私の肩越しで小さくうなずいた。
「護衛対象。今日は足場が多い。足元を三度見ること」
「承知しました。二度では足りませんね」
配水の中断は半刻に限られている。掲示板の“砂時計の絵”が砂を落としきる前に、仮の鋼管が繋がれた。蛇口がひとつ、二つ、遠くで三つ――息を吐くように水が戻る。拍手は起きない。起きないのがいい。街が、少しだけ当然の顔をした。
「料金、上がるのか」
背後で、洗濯籠を抱えた女がぽつりと言う。
私は絵の料金表を指でなぞった。「“上げたら、上げた理由を絵で書く”。約束は、裏切る前に可視化して自分の首を絞めるのが礼儀です」
女は小さく笑い、籠の中の石鹸をぎゅっと握った。「首を絞める礼儀、嫌いじゃないよ」
午前の終わり、王都新聞がまた号外を撒いた。〈訂正②:寄付箱“白”の管理費計上なし/“青”の運営費公開中〉。囲みの隅に、さらに小さな行――〈“一割”表記は誤りでした〉。紙面の態度が、一歩ずつ現実に歩み寄っている。足取りは重いが、重いからこそ信じられる。
「“誤りでした”、出ましたね」
セドリックが号外を二つ折りにして私に渡す。
「誤りの訂正は、人を賢くします。訂正しない誤りは、剣より人を鈍らせます」
「剣への当てこすりは控えめに」
「では今のは、刃こぼれへの感想です」
工匠詰所の奥で、代表が小声で呼んだ。「令嬢、これを見てくだせえ」
差し出された帳面には、昨夜のうちに作られた“巡回票”が挟まれている。〈蓋盗難〉〈漏水〉〈不正分岐〉の三つの欄、そして〈歌〉の欄。
「歌?」
「塔の若いのが言いやして。“歌があると、夜でも覚えられる”って」
そこには拙い字でこうあった。
――蓋は重いが命はもっと/盗んだ先には買い手いる/買い手を止めれば道が残る/道が残れば水が笑う
いい歌だ。私は朱で小さな花丸をつけた。朱は花であり、止血でもある。
午後、監査院から通達が届いた。〈北門“藍印”供給の件、後援会給費係に事情聴取〉。端に添え書き――〈黒鹿毛同盟=後援会“機動連絡班”の別名〉。名義の仮面が、一枚剥がれた。仮面は剥がすほど、人の顔が普通に戻る。
「反撃は来る」
バルト院長が詰所に入ってきて、帳場の椅子に勝手に腰を下ろした。「王太子が“復興基金”をぶち上げる。名前は良い。中身は――」
「“箱”ですね。白でも青でもない、第三の色」
「“金の箱”だとさ。色も名前も悪趣味だが、響きは良い。響きに人は弱い」
私は頭の中の棚から、用語の引き出しを一つ抜いた。「“基金”は“箱”ではありません。“規約と基準”です。――なら、基準を早めに出しましょう。寄付は白、祭は青、復興は“灰”。灰は冷めた熱。焼け跡を均す色」
「灰箱。色の取り合わせは悪くない」
「灰の箱からは、“労働と資材”にしか出さない。人物の名誉や旗に出すのは青。祈りは白。――混ぜたら、また鳴ります。鐘が」
セドリックが肩で笑った。「鐘屋が儲かる」
「鐘屋は経済の指標です。良い鐘がよく鳴る国は、だいたい強い」
夕刻、最初の“波紋”が届いた。王都北の貧民街――水桶屋の若い男が走ってきて、吐く息で喋った。
「おかみさんが言ってた。蛇口が直るのはうれしいけど、桶の稼ぎが減るって。俺ら、どうなるのさ」
“正しい”は、いつだって誰かの“飯”を脅かす。私は男の肩の位置を視線で量り、ぽんと軽く叩いた。
「桶は要らなくなりません。形が変わるだけ。――“蓄水と運搬”から“清掃と保守”へ。工匠連合と共同で“清掃班”を組みましょう。桶を“道具”にする。水路の泥を上げ、蓋を洗い、溝を開ける。昼の仕事が夜に移るかもしれないけれど、その分“夜間手当”を灰の箱から出す」
男は目を白くした。「手当?」
「働きには、手当。祈りには、礼。祭には、飾り。――どれも箱が違います」
「箱箱うるせえ、と言われませんか」
「言われます。けれど、箱を分けるのは、喧嘩を減らすためです。混ぜると、喧嘩の理由が見えなくなる」
男はしばらく目を泳がせ、それから笑った。「混ぜるとまずい、は、水と酒で知ってます」
「それはそれで有益な経験です」
セドリックが横で喉の奥を鳴らした。笑いを我慢する騎士の喉は、時々良い鐘の音がする。
“訂正”はもう一つ来た。王宮祭典局の掲示――〈昨日の承認板無断外し、再発防止策の提出および点検表の導入〉。下段に小さく、“実行責任者:ローレンス”。彼は扇を腰に差したまま、広場の端で塔番に頭を下げている。扇は風を作る道具だが、今日は風向きを読む道具に見えた。
私は工匠連合の机で“灰の箱”の仕様を走り書きした。
〈灰箱〉
――対象:労働・資材・安全備品。
――不可:礼・名誉・旗・楽隊費。
――支払いの優先順位:危険→必須→便益→快。
――掲示:日毎・図形式。
――歌:灰は冷えても火は種/種は明日へ渡すもの/名は旗へ、祈り白/祭は青へと戻すもの
歌は短いほどいい。子どもが覚えるからだ。子どもが覚える規則は、大人に効く。
陽が傾き、仮復旧の通りに水が走る音が広がった。私の内側でも何かがほどけ、同時に締まる。ほどけるのは怒り、締まるのは決意。二つは同居できる。実務はいつも二人部屋だ。
「護衛対象」
セドリックが声を落とした。「北門の“藍印”、刻印台は押さえたが、彫り師が一人逃げた。明日、追う」
「追いましょう。逃げる人を追うのは嫌いですが、“型”を追うのは好きです」
「型?」
「彫りの癖。数字の癖。箱の癖。癖は、嘘より律儀です」
彼は眉をわずかに上げ、それからすぐ戻した。騎士は眉も倹約する。
夜、工匠街の角で小さな騒ぎが起きた。下水路の蓋が二枚、持ち去られかけたのだ。工匠と塔番が追い、角で挟み、泥だらけの若者を押さえ込んだ。若者の目は飢えの色で、手は震えている。震えは寒さではなく、“仕事の新陳代謝”の痛みだ。
私は若者の手首の具合を見て、静かに言った。「買い取り屋の名を」
「知らねえ。顔だけ」
「顔は描けますか。――描けないなら、歌で」
「歌?」
「買い取り屋の癖。声の高さ、歩き方、好きな酒。――それを韻にして」
若者は目を瞬かせ、やがておっかなびっくり口ずさんだ。
――背は門より低いのに/帽子は塔より高くする/左の靴だけ泥が濃い/酒は薄めを嫌う癖
「十分です」
私は塔番に合図し、明日の“夜回り歌”にこの節を混ぜるよう頼んだ。歌は網だ。網は穴を小さくするほど、捕るのが上手くなる。
広場に戻ると、掲示柱の前に王都新聞の記者が立っていた。若い、しかし目の下に紙焼けの影を持つ目。彼女は私を見ると、ためらいなく頭を下げた。
「“一割”の件、急ぎすぎました。――取材の詫びは、紙面でやります。よければ、あなたの言葉で“訂正の歌”を」
「歌で?」
「嘘が入りにくいので」
私は少し笑ってから、短く作った。
――速い紙には風が入る/遅い紙には手が入る/風は嘘を連れてきて/手は嘘を追い出すよ
記者は頷き、「いただきます」と真面目に言った。真面目に“いただきます”と言う人は、だいたい信用できる。
夜更け、詰所を出た私に、セドリックが外套をかけた。
「延びた一日だ」
「延びた日は、眠りも延びますか」
「延びるべきだが、明日の“鍵”が待っている」
「鍵の前に、もうひとつ“訂正”を」
私は足を止め、彼の横顔に向かって言った。「――私は、強がりではありません。強がる設計をしているだけです」
彼は少しだけ顔をこちらに向け、細く笑った。
「設計は、あなたの剣だ」
「剣は抜かない方が好きです」
「知っている」
工匠街の屋根を渡る夜風が、掲示の紙を柔らかく揺らした。朱の判の花は暗がりで見えにくいが、確かにそこにある。花は昼間だけのものではない。夜の間に、根が伸びる。
――第8話「王都新聞、見出しは踊る」へ続く。