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(第6話)聖女の奇跡と手数料

 翌朝の広場は、昨日よりも静かだった。太鼓がないからではない。人々が紙を読むために、意図的に沈黙しているからだ。掲示柱の脇に新しい図が二つ増えた。


 〈寄付箱の標準仕様〉

 ――白は祝福口。青は後援口。

 ――箱板の厚みは指二本。紐は右撚り。封蝋は箱の正面、矢印は手前。

 ――混ぜたら鐘が鳴る(ほんとうに鳴る)。


 〈領収の流れ〉

 ――受けたら書く。書いたら貼る。貼ったら歌う。

 ――“歌えない人は鐘を鳴らす”。鐘は恥ではない。嘘の虫除けだ。


 セドリックが柱の影で私に水を渡した。「噂は半分、図は全部。今日は図が勝つといい」


 「図は退屈です。退屈は強い」


 「あなたは退屈を褒めるのが得意だ」


 「退屈に褒められる方が難しいですよ」


 祭典局は今朝も饗応を開く構えだったが、箱は昨夜の審理通達どおり二つに分けられている。白い箱と、青い箱。箱の上には、私たちが用意した見本の領収書が一枚ずつ張られた。白は〈祈りのための支出〉、青は〈祭のための支出〉。同じ銀貨が、別々の道を行く。


 私たちの“労働者休憩所”も、椅子の数が増えた。遠見塔の若者たちが夜のうちに直した承認板は、朝一番で試運転を済ませ、運用ログの絵が柱に貼られている。薄い石灰の白が、夜勤の誇りに見えた。


 「始めよう」


 私は卓上の箱から、厚紙の束を取り出した。素朴な表紙に、赤い小さな印。「領収帳(白)」。隣には青い印の「領収帳(青)」。祭典局に二冊ずつ手渡す。ローレンスが受け取り、扇を閉じた手で表紙の角を撫でる。


 「書くのは嫌いではないと言ったが、面倒だな」


「面倒は、未来の時短です」



 「未来が長いのは苦手だ」


 「だから、今日だけ頑張るのです」


 セドリックが咳払いをひとつ。「鐘はいつでも鳴らせる」


 ローレンスは肩をすくめ、白と青の箱の前にそれぞれ書記を立たせた。聖女リリアは昨夜より少し顔が明るい。目の下の影は残っているが、視線は迷子ではない。彼女は壇に上がる前に、私の前で小さく会釈した。


 「昨日、ありがとうございました。――順番のこと。私、わかっていたのに、言えませんでした」


 「言うより、仕組みを置く方が楽です。仕組みは、人より鈍くて誠実なので」


 「鈍い……」


 彼女はその言葉を味わうように反芻し、掌を胸に当てた。「鈍い強さ、好きです。私も、そうありたい」


 「では、鈍い道具をひとつ――」私は小さな帳面を渡した。灰色の罫、厚めの紙。「“奇跡の記録”。治癒の前と後、症状、処置、祈りの時間。文字がつらければ印でもいい。印は絵より長持ちします」


 リリアは目を丸くした。「祈りを、記録に?」


 「祈りも労働です。労働には労賃が要り、労賃には記録が要る。祈りを“取り引き”にしないために、逆に記録する。――祈りを、お金から守るために」


 彼女は強く頷いた。人を利用する仕組みの方が、いつだって素早い。だからこちらは、遅く正確に、追いつく。


 鐘。予鈴。本鈴。今日の“奇跡”は、最初から順番が守られた。唱和する祈りの合間、箱に落ちる銀貨は白か青かを選び、書記が素早く紙に線を刻む。領収書の控えは掲示柱の脇に貼られ、風に揺れる。紙が増えるほど、噂は小さくなる。


 午前の最後、青い箱の横で、金の指輪を多くはめた男が書記に食ってかかった。


 「青に入れた金で“祝福の列”を前に進ませろ。祭壇の布代などどうでもよい!」


 書記がひるむ。私はすぐ横に入り、男の目線を受け止めた。


 「青は祭の費用。白は祈りの費用。今、あなたが白に入れれば、祈りはひとつ分、早くなる。青に入れれば、布が一枚、汚れずに済む。選ぶのは、あなたです」


 「どちらも必要だと?」


 「国は、いつも“どちらも”です。片方を選べば、もう片方が泣く。だから線を引く。線が嫌なら、歌で覚える」


 私は指を鳴らし、昨日の旋律に続けて短い節を唱えた。


 ――白は祈りで手が温い/青は祭で風が涼しい/温いを今ほしければ白/涼しい明日なら青もよい


 群衆から笑いが漏れ、男の肩の張りが少し落ちる。「……白だ」彼は指輪の一本を回し、銀貨を白い箱へ落とした。音は軽く、しかし真ん中に落ちた。


 昼下がり、王都新聞の臨時号外が広場に撒かれた。大きな見出し――〈悪役令嬢、寄付箱から“管理費”徴収〉。私の名前と一緒に、数字が踊る。〈一割〉の太字。根拠は――不明。だが、太字は脳に入る。小字は脳の外で泣く。


 「来たな」


 セドリックが紙面を手早く折り、要点だけを残して私に見せる。私は深呼吸をひとつ。「“管理費”の定義を、向こうは知りません。定義から、奪い返す」


 私は柱の前に立ち、合図笛を一本。遠見塔の若者が木枠を運び、工匠が板を渡す。即席の“公開会計台”ができる。上に紙束を重ね、朱の印を準備した。バルト院長が人垣を割って現われ、無言で立会いの札を掲げる。


 「管理費の定義を読み上げます」私は声を張った。「〈白の箱〉からの“管理費”は認めません。〈青の箱〉からのみ、“祭の運営費”として一定割合を計上可能。ただし割合は“掲示・周知・事後報告”の三点を満たしてはじめて適法。――昨日からの私個人の受領はゼロです。受ける予定も、今はありません」


 「今は?」紙の向こうから、誰かが冷ややかに叫ぶ。


 「ええ。今は。将来、公共事業の監理手数料を“青”から受ける可能性はあります。受けるなら、四半期ごとに全件を掲示し、金額を“歌”にもします」


 「歌?」人垣がざわめく。


 「紙を読める人は多くない。歌は読めない人に届く。歌にすると、嘘が混ざりにくい」


 私は台に広げた白と青の領収帳の“見本ページ”を指さした。項目、金額、日付、内容。白には〈老女の膝の治癒/聖堂薬草庫からの支出〉、青には〈祭壇布の洗濯代/香の購入〉。そして右端に空欄――〈歌の節〉。書記がその空欄に、今日の節を短く書き込む。「白は掌、青は幕」。子どもの字で良い。子どもの字は嘘に弱い。


 王都新聞の売り子が、台の下で声を張る。「号外! 一割!」 ローレンスはその横で扇をたたみ、淡々と言った。「一割取るなら、先に私が反対する。舞台に“止血止め”は要るが、“血抜き”は要らない」


 「うまいことを」


「面倒な敵に習った」



 私は売り子から一部の号外を買い取り、台上で墨を走らせた。〈訂正のお願い〉。見出しの下に、白と青の図をそのまま描き込み、右下に〈本日の受領:零〉の印。印を押す音は、小さい剣の音に似ている。


 「これを裏面に刷りなさい。代金は青から。――すみません、青からです。白からは出せません」


 売り子は目を白黒させ、ローレンスとバルトが同時に頷いた。三人の同意は、風より速い署名だ。


 午後、もうひとつの波が来た。王太子後援会の若者たちが、青い箱の前で〈協賛札〉を配り始めた。札を持っている者は、饗応の列で先に通される。札の裏には小さな藍印。昨日の“雛形”の匂いが、紙に残っている。


 「札は“広告”です」


 私は札を一枚受け取り、台に置いた。「広告は悪くありません。悪いのは“広告の利益を白に寄せること”。協賛の利益の使い道を掲げましょう。“鍋三杯分を増量”とか、“椅子十脚を追加”とか」


 若者は反発しかけたが、後ろからローレンスが肩を叩いた。「そうしろ。そうすれば、札は“役に立つ紙”になる」


 「役に立つ紙」若者は呟き、札束を引っ込めた。代わりに祭典局の書記が〈協賛の使い道〉の図を描き、札の束の横に貼る。〈鍋+三〉の絵は子どもにもわかる。列の苛立ちが少しずつ溶ける。歌は短く、鍋は長い。


 夕方、リリアの祈りは静かに終わった。彼女は壇から降りると、青い箱の前で立ち止まり、書記に向き直った。


 「今日、青から“私の謝礼”は出ましたか」


 「いえ。――出しておりません」


 「明日も、出しません。私の謝礼は、王宮の“聖務口”から。祭の箱からは、祭の費用だけ。――そうしてください」


 ざわめきが、今度は敬意に変わる。敬意の音は、拍手にならず、呼吸を揃える。私は胸の奥で、静かに頷いた。彼女は“利用される人”から、少しだけ“仕組みを選ぶ人”になった。


 セドリックが耳元で囁く。「世論の風、南から北へ」


 「では、北門の件も早めに図にしましょう。七百七十七の、汗のない数字」


 「汗のない数字は、歌に乗らない」


 「乗りません」


 その時、王都新聞の新しい版が回ってきた。〈訂正〉の小さな囲み。〈“管理費”は誤り。領収帳の公開を確認〉。小さい、しかし確かな後退。踊っていた見出しが、一歩だけ足を引いた。


 日が落ちる直前、工匠連合の代表が駆け込んできた。油と鉄の匂いで、言葉より先に内容が伝わる。


 「下水路第七枝、蓋の盗難が増えた! 落札したばかりで、管理の目が足りない。夜の見回りを増やしたいが、人手が……」


 「塔の若者と交代に」私は即答した。「見回りの歌を一本作ります。“蓋は重くて命は軽くない”。――あと、盗難品の買い取り屋の摘発を。バルト殿」


 「名簿はある」院長が唇で笑う。「あるのに、なぜか使われない名簿だ。――今日は使う」


 私は工匠の掌に短い紙片を押し込み、セドリックに目配せした。「あなたは北門へ。札の裏の“藍印”の供給源、抑えましょう」


 「了解」


 「剣は?」


 「抜かないで走る」


 彼が駆け、ローレンスが扇で風を作り、リリアが箱の白と青を確かめる。誰も主人公ではない。誰も脇役ではない。役は、手順が決める。


 夜。広場は昨日よりさらに静かに、しかし満たされていた。貼られた領収書は風に鳴り、鐘は一度も怒らなかった。怒らない鐘は、眠りのための鐘になる。


 私は台の上で深く息を吸い、吐いた。「明日の出品――“転送陣の鍵”。談合の匂いは……まだ残っている」


 セドリックが戻ってきた。鎧は埃でくすみ、目は冴えている。「北門、藍印の刻印台を押さえた。刻んだのは“黒鹿毛”の連中。後援会の会計室と出入りが一致」


 「明日、公開で“紐解き審理”。――“鍵”の前に、紐をほどく」


 星がひとつ、塔の先にかかった。薄い光は、退屈で、強い。


 ざまぁは怒鳴り声ではない。領収書の厚みであり、歌の長さだ。今日の厚みは十分。明日の歌は、もう少しだけ長くなる。


 ――第7話「最初の落札:水利権(波紋と訂正)」へ続く。

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