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(第5話)騎士は戦場を選ぶ

 南塔の路地は、夕餉の匂いと鉄の匂いが半々だった。魚のスープが湯気を上げ、鎖のこすれる音が石壁に移る。転送陣の踊り場へ上がる細い階段は、遠見塔の若い番人たちが簡易封鎖をしている。板の棒に縄、手書きの札――〈さわるな 承認板欠落中〉。字は拙いが、意味は強い。


 「令嬢、足元」

 セドリックが私の肘を軽く支えた。段差の縁が欠け、雨で黒く磨かれている。彼の手は温く、鎧の継ぎ目の皮はよく油が回っていた。良い盾は、大体いい油を使う。


 踊り場に上がると、塔番の少女――白い粉が髪に残る、昨日の“落札者代表”が走り寄ってきた。

 「承認板が――ここから外されてました。釘は抜かれてなくて、魔封の方だけ切られて。誰かが“正規の手順で外したように見せかけた”んです」


 私は膝をつき、承認板の痕を指でなぞる。木の縁に、薄い、しかし確かな刃の跡。刃は新しい。脂がまだ浮く。


 「バルト院長に連絡。現場審理、開始の鐘を」

 「了解」


 塔番の少年が鐘紐を引いた。高い音が路地に降り、住民が窓から顔を出す。審理官の灰色の制服が階段を上がってくるのと、祭典局の派手な衣装の一団が下から押し上がってくるのとが、ほとんど同時だった。


 「ここを通さぬとは何事だ」

 祭典局の男が扇を打つ。銀の刺繍。頬はよく剃られていて、笑うと刃の光が見えた。

 「“祝勝の饗応”の装置を運ぶのだ。広場北の演出が遅れる」


 セドリックが半歩進み、盾ではなく掌を見せた。掌は“止まれ”の形。剣に触れる気配はない。

 「臨時審理中。転送陣関連の通行は、承認印が下りるまで待機していただきます」


 「奇跡の妨害か」男が高く笑った。「騎士が、歌に負けた女の手下をするとは」


 セドリックは笑わない。騎士の笑いは、必要なときにしか外へ出ない。

 「私は剣よりも手順を信じているだけです。剣は、手順の後で十分だ」


 私は承認板の枠に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。木屑、松脂、微かな香。薫香の残り――沈香ではない、芝香に近い。演目の装置に焚く、比較的安いほうの香り。

 「祭典局の倉に使う香……ですね」

 男の扇が止まった。


 審理官の灰が、私に目で促す。私は指で、切断の角度と深さを示した。

 「魔封糸の切断――〈祭典局舞台部〉の支給刃物と同じ幅。塔の内、〈装置搬入〉の経路を通った痕があります。転送陣の停止理由は“安全対策”。ならば、停止の告知と代替経路の表示が必要。――表示はどこです?」


 祭典局の男は顎を上げ、扇の骨を鳴らした。「奇跡に必要な演出だ。聖女の周囲は静謐でなくてはならない。お前たちの“取引の歌”が邪魔をした」


 「静謐は美徳です」私は頷いた。「けれど、静謐は喉の渇きに勝てません。承認板を外すには“十分前の掲示+三分置き告知”。あなた方は鐘を一度も鳴らしていない。――鳴らせば、止まるものを」


 審理官の灰が短く言った。「承認板の無断外しは“公設物の不法改変”。現場確保。祭典局に出頭要請」


 祭典局の男が扇を閉じ、扇子袋をもてあそんだ。指に薄い墨の筋。墨は演目の台本に触れた跡。

 「誰の指示か。名を」

 私が問うと、男は肩をすくめた。「名は、物語の最後に出すものだ」


 「現実では、最初に出すのが作法です」


 空気が固くなる前に、セドリックが前へ出た。

 「策を弄するなら、広場でやれ。塔は、人を運ぶ場所だ。運ぶ場所に刃を入れたなら、誰であれ敵だ」


 祭典局の一団がざわめく。男は扇を持つ手を下げ、それから逆に扇を差し出した。

 「名乗ろう。祭典局第二課、演出係、ローレンス。――剣は抜かないのか、騎士殿」


 「抜く必要がない。ここは私の戦場ではない」


 「ふん、どこが“戦場”だと」


 セドリックは顎で、承認板の空白を示した。

 「私は、令嬢の背中が“戦場”だ」


 笑いが出るかと思ったが、誰も笑わなかった。路地の風が、少しだけ向きを変えた。私の背の皮膚が、薄く強くなった気がする。


 私は塔番たちに指示を出した。

 「板を仮復旧。告知絵を二枚。『止めるときの手順』と『動かすときの手順』。子どもが読める絵で。――ローレンス殿、あなたには“再発防止策”の提出をお願いします。香を焚く位置も、図で」


 「我々に命じる立場か」


 「“命じる”のではなく“求める”。求めに応じないなら、鐘が鳴るだけです。鐘は耳に悪い」


 審理官の灰が“鳴る”の印を手で作る。ローレンスは舌打ちしたが、部下に目配せし、香と布と小道具の立て札を引き上げた。

 「書けばいいのだろう。書くのは嫌いではない」


 「書いたら、歌います。読み書きが嫌いでも、歌は嫌いじゃないでしょう」


 ローレンスは、今度は口角をわずかに上げた。「なるほど。お前たちの武器は面倒だ」


 私は承認板の枠に新しい魔封糸を通し、封を結んだ。塔番の少女が、息を詰めて見守る。

 「これで、動かせます。――セドリック殿、広場へ戻しましょう。饗応と歌の“衝突”が、たぶん始まりかけです」


 ◇


 広場北の“祝勝の饗応”は、鍋と太鼓と笑い声で溢れていた。無料のスープは薄いが湯気は厚く、器を持つ手の行列は終わりが見えない。祭典局の旗が翻り、リリアの小さな姿が台上で祈っている。祈りの声は澄んでいる。澄んだ声は、財布ではなく涙腺を緩める。上手だ。


 私たちの“労働者の休憩所”は、椅子と水と、壁に貼った料金表の絵だけ。地味で、列は短い。短い列は、横並びで話しやすい。話しやすさは、武器になる。


 セドリックが耳を傾け、私に低く囁く。

「“無料なら水も税も要らない”という文句が、肘から肘へ伝わっている」


 「無料は最初のひと匙だけ。次の鍋には、香辛料の代金が入る。香辛料は高い。――それに、『無料の奇跡』には、だいたい“手数料”がつきます」


 「手数料?」

 「さっきのローレンス殿が、台の上でうろうろしているでしょう? あの人たちの給金は税か寄付か広告収入。今日の“無料”の穴埋めは、どこかで生じる」


 セドリックは首だけで台周辺を観察し、視線の端で何かを捉えた。

 「箱」


 台の裏手に、札の箱があった。〈聖女の祝福に感謝を〉。投げ込まれる銀貨の音。箱の横に、さっきの藍の封蝋。

 「“寄付”は悪くない」私は言った。「けれど“寄付口”と“後援会口”が混ざると、急に悪くなる」


 「昨夜の帳と同じ匂いだ」


 私は料金表の絵の横に、もう一枚紙を貼った。〈寄付の仕組み――“祝福口”と“後援口”は別〉。矢印を二本。色を変え、箱に貼る位置まで描く。絵の矢印は、言葉より強いときがある。

 「読めない人のために……」

 私は息を吸って、昨日の“数字の歌”の旋律に乗せて新しい節を挟んだ。


 ――祝福はここ、銀貨はこっち/後援こっちは旗の方/混ぜたら濁る、濁ったら/水はまずくて喉が泣く


 子どもが面白がって合いの手を入れ、老人が笑い、職人が肩で拍を取る。歌は、喧嘩より速く広がる。ローレンスが台の上からこちらを見、わずかに眉を上げた。


 その時だった。広場の東から、騒ぎが転がってきた。

 「“奇跡の候補者”が優先だ。脇を開けろ!」

 白手袋の若者が、小さな担架を押してくる。担架の上には、顔色の悪い老人。家族とおぼしき者の目は赤く、しかしよく乾いている。乾いた涙は、時に舞台の照明になる。


 セドリックが前へ出て、担架の進路に立った。

 「優先の定義を示せ。誰が、いつ、どう選んだ」

 若者は勢いで進もうとして、セドリックの鎧の縁に押し返された。

 「聖女の奇跡にケチをつけるのか!」


 「奇跡にはケチをつけない。手順に、つける」

 セドリックの声は低く、硬く、よく通った。「順番待ちの列を“寄付”の額で抜かすなら、それは奇跡じゃない。取引だ」


 周囲の空気が張り詰め、誰かの喉が鳴る音がした。私は担架の老人の手を取り、指先の冷たさを確かめた。

 「今、必要なのは祈りと、医術と、水。順番は、譲ってもらいましょう。――ローレンス殿」


 台の上のローレンスが扇を閉じ、声をあげる。

 「列は守れ。“候補者”票は無効。祭典局が勝手に作った。――聖女殿、よろしいか」


 リリアが頷いた。瞳は揺れていない。疲れの下で、真面目さが硬く光っている。

 「順番で、診ます」


 「ありがとうございます」

 私は深く礼をした。嘘を嫌う礼の角度は、いつも決まっている。リリアは小さく目を伏せ、祈りを続けた。彼女の祈りは、悪ではなく、時々“利用されるだけ”だ。利用される人ほど、声は澄むから厄介だ。


 担架が列に入り、列が少しだけ膨らむ。セドリックが肩で息を吐いた。

 「盾で十分だった」


 「剣が要る場面は、だいたい設計の負けです」

「設計の勝ち負け?」

 「順番の設計、告知の設計、箱の置き方の設計。騎士の位置の設計」


 セドリックは横目で私を見た。「私の位置は、設計に入るのか」

 「最優先。あなたがいないと、私は“強がっているだけの女”になります」


 彼はほんの少しだけ、視線を落とした。「……それでいいときもある」

 「あります。けれど、今日ではない」


 彼は頷き、視線で広場全体をまた走査した。屋根、門、台、箱、人の流れ。盾が戦場を選ぶとき、何を見るか。私は彼の視線の軌跡を頭の中でなぞる。ゆっくり、無駄なく、戻るべき場所に戻る線。――美しい線だった。


 ◇


 日が落ち、鍋が空になったころ、審理鐘がもう一度だけ鳴った。臨時審理の結果告知――〈承認板無断外し・祭典局第二課に注意処分および再発防止策の提出命令〉。広場に短いどよめき。短いどよめきは、長い溜息の余白だ。


 バルト院長が、いつの間にか背後に立っていた。灰色の目が鍋の縁を見て、口の端がわずかに上がる。

「“無料”は続かん。――報告書を受け取った。“候補者票”の出所は祭典局の会計室。箱の横の藍印は、王太子後援会の給費係。ひとつの箱で二つの口座だ。汚い混色だな」


 「色は混ぜると濁ります。――明日、〈寄付箱の標準仕様〉を出します。紐の結び方、印の位置、箱板の厚みまで決める。『祝福口』は白、『後援口』は青。混ぜたら鐘が鳴る」


 「鐘ばかり鳴らして、耳が悪くならんか」


 「少しだけ悪くして、嘘の声が聞こえないくらいでちょうどいい」


 バルトは鼻を鳴らし、私の肩を一度だけ叩いた。

 「王宮から、もう一通。王太子の“親書その二”。今度は“話し合いの場を設けたい”と。場所の指定は“王城西翼謁見室”。……人を見下ろす作りの部屋だ」


 「では、場所を変えましょう。広場中央、掲示柱の下で」


 「通ると思うか」

 「通らなくていい。『通らなかった』という記録があればいい」


 ローレンスが近づいてきた。扇は腰に差している。

「再発防止策、書き終えた。絵もうまく描けた。子どもに笑われたから、たぶん大丈夫だ」

彼は少しだけ目を伏せ、続けた。「……騎士殿。さっきの言葉――“ここは私の戦場ではない”――覚えておく」


 セドリックは頷く。「あなたの戦場は、台の上だ。台の上で刃を出すな。扇で十分だ」


 「扇は、風次第だ」


 「風は、歌で向きを変えられる」


 ローレンスは笑い、扇を一度だけ開いて見せた。「面倒な敵だ。――敵であってくれ、できれば長く」


 「長く敵なら、いつか味方になるかもしれない」

 私が言うと、二人は同時に私を見て、同時に視線をそらした。こういうとき、私が喋るのは得策ではない。沈黙は、ときに最高の説得術だ。


 ◇


 夜の帳が降りるころ、広場は静かになった。椅子だけが整然と並び、料金表の絵が夜風に少し揺れる。私は板の端を撫で、指先の粉を払った。粉は石灰、少しの炭、わずかな朱――署名の乾きかけの粉。


 セドリックが横に立った。肩の鎧を外し、胸当てに残った細い傷を指でなぞる。

 「今日、剣は抜かなかった」


 「ええ。抜かなかった剣は、明日も抜かなくて済む確率を上げます」


 「確率の話は、好きだ」


 「私も。確率は、恋と違って、裏切りが少ない」


 彼は喉の奥で小さく笑った。笑いは短く、余韻は長い。

 「明日は何を抜く」


 「条文。――あと、領収書」


 「領収書?」


 「“奇跡の手数料”の。寄付箱と後援箱、香辛料代、祭壇布の洗濯代。全部、領収して“足りない分”を見えるようにする。見えるものは、少しだけ正しくなる」


 セドリックは頷き、夜の空を見上げた。星は薄く、塔の影が濃い。

 「戦場は、どこだ」


 「明日は“世論”。――『聖女の奇跡と手数料』。歌と図と、少しの数字で、舞台の奥に手を入れます」


 「剣は」


 「要らない、とは言いません。危険な言葉ですから」


 「いい設計だ」


 私たちは並んで椅子を畳んだ。木が小さく軋み、夜が少し広くなった。

 ざまぁは、相手を土に叩きつける技ではない。土を平らに均す作業だ。転ぶ人が少し減るように。走りたい人が少し走れるように。そこへ明日、また料金表を立てる。


 「帰りましょう、セドリック殿」


 「護衛対象。今日はよく生きた」


 「延びました、です」


 「延びた生の先に、続きがある」


 「続けます。――明日の鐘まで」


 石畳が冷え、風が角を丸めて通り過ぎる。私たちは広場を離れ、塔の影の切れ目を縫って歩いた。背中に、盾。指先に、条文。胸の奥には、数字の歌。

 明日、歌はもう少し長くなる。聴きやすく、覚えやすく、嘘の入る隙間を狭めるために。


 ――第6話「聖女の奇跡と手数料」へ続く。

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