(第30話)紙の後日談/空欄の値打ち
翌朝。広場の石は祭の匂いをすっかり吐き、ただの石に戻っていた。黒板の左上には、昨日の〈踊らない〉が外され、小さな紙片だけが残る。〈未定(小)――未来用〉。番人は役を終えると、見回りに出る。
“杖欄”の見出しは歩幅をそろえる。
〈9月某日 王都広場 “再契”の翌日 訂正欄=空〉
植字工の古株が“空”の活字を指で撫で、「空は字ではない。だが、印刷はできる」と笑った。印刷された空欄は、街に「何も起きなかった」という最大のニュースを運ぶ。
私は黒板の中央に、新しい枠を立てた。
〈空欄勘定(案)〉
――【訂正欄の空】が一日続くごとに、“灰の前倒し枠”へ小一。
――“空”の根拠は図と数(声欄の底・旗影・鈴の使用回数)。
――“空”の分配は椅子の数と同じだけ細かく。
――“空”の悪用(隠蔽)は三打停止・恥は短く太字。
――名は旗の影、数は柱の下。
――空はただでは空でない
――空は数でやっと空
セドリックが外縁を扇形に一巡し、戻ると盾の縁で朝の光をひとかけ跳ね返した。「護衛対象。今日、“薄い危険”――無し。……代わりに“薄い誇り”が歩いている」
「薄い誇りは、厚い図に変換できます」
ローレンスは扇を腰で眠らせ、長い棒尺を肩に。「舞台でも“翌日の静けさ”は難しい。きのうの余白係、今日も残して拍を整えよう」
◇
“声欄”の朝一番は、三枚の短い紙。
――“式の翌日、何を片づければ?”(灰・男)
【改め】〈白線の油拭き/手置き台の点検/笑い鈴の紐交換〉
――“空欄はサボりと違うの?”(市場・女)
【改め歌】
――騒がぬために手を入れる
――手を入れたら何も起きない
――何も起きない紙が一番重い
――重さは数で見せなさい
――“未定(小)はいつ使う?”(北区・子)
【改め】〈未来のため/焦りが来たら図で遅らせる〉
若い記者は“空欄勘定”の枠に数字を入れ始める。〈鈴=小:五/中:二/大:零/笑い:一/旗影訂正:一〉。
古株は“訂正”の活字を磨きながら、今日は使わなかった箱に目玉を休ませる。「使わない刀ほど、研ぎたくなる。……だが研ぎすぎるな」
◇
王太子が柱の下に来た。外套は地面の高さ。
「――“空欄勘定”、いい。……空を現金化せよ、ではなく“時間化”せよ」
「“空欄=余剰の時間”。――灰へ“前倒し枠”に振り、白へ“静かな訓練”を回します」
私は板に二つの矢印を足す。〈空→灰:石畳の目地/空→白:低二連の稽古〉。
王太子は短く頷き、「青は“余白係・常設”だな。金は“空欄報告”の図保存を」と言い添えた。退屈の後日談は、部門に餌を配る。
◇
山から旗。〈銀87→87――変化なし。坑口“笑い鈴”の乱打なし/“手袋章”の破損ゼロ〉。
私は“山欄”に太字で写し、隣に小さな詩。
――笑い一打で列が戻る
――戻った列で山が進む
“紙を守る会(元)”の古株が活字箱を抱え、照れくさそうに咳払いした。
「“空欄の監査”をやらせろ。……誤植拾いの延長で、“空の根拠”を拾う」
「任せます。――“空の証拠”は薄くて重い」
彼は満足げに頷き、“薄重”という聞き慣れない言葉を口の中で転がした。新しい単語は、市場を少しだけ賢くする。
◇
午前の後半、小さな乱反射。市場の角で“藍地金縁”の小旗が、規程ぎりぎりの高さで揺れる。旗布の中央には“空欄最高!”の手書き。
私は小鈴を二打。
「――“空欄”は炊き出しではない。……旗の面積縮小、図を添えて」
灰の係が手置き台を滑り込ませ、持ち手は白墨で“空欄勘定”の簡易図――鈴・影・声の数え方――を旗の下に貼る。
笑い鈴、一打。
――空欄は踊らない
――踊らぬ旗は低くてよい
旗は低くなり、面は小さくなった。抑えなければならないのは熱ではなく、比率だ。
◇
昼の鐘。一度。私は“杖欄・昼報”の余白に、〈空欄勘定・初日〉を掲げる。
――【空欄】:訂正欄=空(1日)
――【鈴】:小5/中2/大0/笑1
――【旗】:影訂正1
――【声】:底=浅(未採録10→採録6)
――【配分】:灰+小、白+小(訓練)/青=余白係・常設/金=図保存
ルカ――黒帽の投資家――がいつの間にか背後に立っていた。襟は今日も完璧に乾いている。
「“空欄”を資本に換えるなら、“変動抑制の配当”だ。……市場は波が小さい日に配当を出すと、翌日の波も小さくなる」
「“空欄配当”、灰と白へ。青は“笑いの譜面”の改訂費、金は保存。――旗は小さく」
「旗は小さく。……よし。退屈の利回りは、長生きする」
◇
午後、王門から灰の封蝋。〈“扇の柄”の一座、“余白係”として正式登録。『舞台の“間”を街へ貸与』〉。
ローレンスが扇を開かずに胸でひと振り、「舞台が街に謝意を返すと、舞台が良くなる」と満足げだ。
私は青の欄に“余白係・常設”の枠を描き、袖の目印糸と“手の上の鈴”の図を再掲した。
同時に、監査からもう一通。〈三角版木の残滓、回収完了。“三角”の持ち込み=欄外→直送、徹底〉。
――合図は欄外 声は欄内
――欄外の合図は監査へ
◇
午後半ば、白の列に小さな相談。聖女リリアが“静かな水”の担ぎ手表を示す。
「“低二連”の稽古を“空欄配当”で、もう一度」
「承認。――白の歌は短く低く」
白の歌が短いほど、街の呼吸は長くなった。短い歌は、長い静けさを呼ぶ。
◇
夕刻前、“空欄勘定”の板が人だかりを作りはじめた。数字は踊らないが、見る者の背筋を揃える。
――“空欄=1日”
――“鈴=小5・中2・大0・笑1”
――“旗=影訂正1”
――“声=底・浅”
――“配分=灰+小・白+小・青常設・金保存”
若い記者が「“空欄”はニュースか?」と訊き、私は頷く。「“空欄”はニュースです。――『失敗が発生しなかった理由』が可視化されるから」
古株が“空欄の由来”の小文を版下に差し込む。
〈“空は偶然ではない。鈴・椅子・影・譜面――退屈の装置の総和が“空”である〉
装置という言い方は冷たいが、冷たい言葉は熱を吸ってくれる。
◇
ここで一件、やや面倒な“空の商い”。市場の若手が、“空欄記念”と称して空白の紙を売ろうとしていた。紙には大きく〈空〉とだけ。
私は小鈴を二打。
「――“空欄”は報告であって、商品ではない。……売るなら“空の作り方”を図で」
青の係が滑るように“空の作り方・初学者版”の小図を持ってくる。
――鈴=三本(役割)
――椅子=数と向き
――旗=高さ/影=帯
――声欄=採録と改め歌
若手は観念して、空白紙を裏返し、図を刷った。売るべきは空ではなく手順だ。手順は薄利だが、再現性がある。
ルカが帽子を浅くして横を通り、「“空白先物”はやめておけ」とだけ囁いた。猫の助言は短く刺さる。
◇
王太子が柱の下に現れた。視線は紙の高さ、声は耳の高さ。
「――“空欄勘定”、正式に本則へ入れよう。“空の時間”を灰と白へ、青は譜面、金は保存。……『空の悪用』条も忘れず」
「“空の悪用=隠蔽”は、三打停止。恥は短く太字。――図で再掲」
私は金の欄に【本則追補】の板を出し、条文をやさしい言葉に詰め替えた。
〈“空欄は働いた時間のかたち。働かず作るな。作ったら、数で示せ”〉
法規課の若造が小さく拍手した。条文が短い日、国の骨はしなやかだ。
◇
夕刻。“杖欄・夕報”が戻る。
〈9月某日 王都広場 “空欄勘定・初日” 訂正欄=空/空→灰白〉
――鈴:小5・中2・大0・笑1
――旗:影訂正1
――声:底・浅
――本則追補:“空欄は働いた時間のかたち”
裏面に〈空の作り方・初学者版〉。矢印が多く、数字は少ない。矢印は踊らない。
配布の列で、老人が小さく笑った。「“空欄”が紙になるとはね」
「空を紙にするのが、街の技術です」
私は答え、黒板の隅に四行を置いた。
――退屈は、空の値札
――退屈は、空を数える秤
――退屈は、未定を未来に運ぶ台車
――退屈は、剣のあくびを記録する帳面
セドリックが椅子の脚から布を外し、丁寧に畳む。「護衛対象。今日も剣は白の後ろで欠伸。……記録しておくと良い」
「“剣の欠伸・日次”。――空欄勘定の隅に」
ローレンスが扇の骨を一度だけ鳴らし、「舞台の“翌日”は、だいたい怪我をする。……今日は無傷だ」と満足げだ。
“紙を守る会(元)”の古株が、空欄の上をそっと指で撫でる。「この“空”は、明日の誤植を減らす」
若い記者は胸の前で版下を抱きしめる癖を出し、「“空を自慢しない規程”も作りたい」と笑った。
「自慢は青。――踊るなら“笑い一打”の長さだけ」
◇
王門から遅い旗。〈王門:祝辞欄を“数字のみ”の常設へ〉。旗は高いが、言葉は低い。
ルカが肩をすくめ、「市場は今日もあくびだ」と言い、猫の背を伸ばして去った。良い市場は退屈だ。退屈は高利回り。
私は棒の鈴を一本ずつ布で拭き、横向きに寝かせる。音は鳴らない。鳴らない音は、明日の安心だ。
――ざまぁは、派手な失敗を待ち構えて嘲る作業ではない。嘲る暇が生まれないように手順を前に出し、旗を影で折り、笑いを一打に整え、“訂正欄の空”を翌日の投資に換える技だ。空欄は贅沢品ではない。毎日の労でしか買えない。
遠見塔の小鈴が夜に一度だけ、乾いて低く。紙は棚で冷え、“空欄勘定”の数字は小さく眠る。
――第31話「空欄配当/鈍器の研究室」へ続く。