(第23話)最後の札/二脚の椅子
朝の黒板は、数字のために空けた広い余白をひとつ抱いていた。〈入札・最終日〉。下には、箱の色で区切られた四本の細線。白――医療供給、灰――石畳と配水、青――祭器と掲示具、金――旗印と規約印刷。最後の札は、たいてい静かな顔をしている。賢い商人は、最後の五分で大声を出さない。大声は舞台のもので、入札は椅子のものだ。
私は手順板を柱に並べる。
〈入札・最終手順〉
――“投函”は昼鐘まで(鈴帯・二重)。
――“開札”は耳の高さ、図と数、読み上げは箱順。
――“同価”は“図勝ち”(図面の明瞭さ)→“履歴勝ち”(恥の短さ)。
――“三角”印は欄外(監査へ直送)。
――“異議”は一人一節、椅子の上で。
――結論は太字ではなく“棒の鈴・小”の二打。
――札は紙 鈴は骨
――骨で立てば紙は倒れぬ
セドリックは広場の周縁を扇形に一巡し、鈴帯と雨蓋の留め具を確認する。ローレンスは扇を腰で眠らせ、代わりに定規を持って椅子の間隔を測る。椅子は人の理屈をまっすぐにする道具だ。曲がった椅子は、言葉まで曲げる。
王太子は柱の下に立ち、短くうなずいた。「――最後の札を、退屈に」
「退屈の腕前で」
◇
昼鐘まで、広場の音は低く続いた。札は静かに箱へ落ち、落ちるたびに鈴帯がわずかにきらめく。若い記者は“杖欄・号外”の空白欄を押さえ、植字工の古株は“太字”の活字を指で磨く。磨きすぎはよくないが、“訂正”だけは何度磨いても減らない。
鐘が一度。投函箱の雨蓋が閉まる。私は棒の鈴・小を二打――採択にも使う音だが、今日は“締切”の合図でもある。灰の審理官が封蝋を外し、箱順に場が整う。白→灰→青→金。箱の順番は、街の順番でもある。
開札。白から。修道女の会計係が読み上げを担い、薬屋の女主が“代替品の図”を拡げる。
「白・札一――包帯“百巻”、単価は同額。図は“湿気対策・巻き留め孔”あり。……“図勝ち”により採用」
棒の鈴・小、二打。短い音が広場の骨に入る。恨みを育てない音は、国の栄養だ。
灰。工匠連合と外土木組の札が、数字ではほぼ横並び。
「“灯の油”は前倒し枠の範囲内、“見回り灯”の“芯の規格”を図で。――外土木組は図が粗い。……“図勝ち”で工匠連合」
ここで、外土木組の親方が肩をすくめて立ち、「次回から図面の“触り印”を足す」と言って座る。座る親方は、次回強い。
青。迅速会を含む二社。片方の札に、細い三角の小印が“載せられて”いた。印自体には何も書かれていない。ただ、“合図”の癖を街に持ち込む指だ。
ローレンスが無言で鑷子を差し入れ、札から三角を剥いだ。灰の審理官が即座に別の封へ。
「“三角”は欄外。札は有効。――ただし“恥の歌”を一節、次号で」
迅速会の代表が立って、頭を下げる。「『間違えた→直した』を青で踊る。――恥は短く」
青の採用は、迅速会。棒の鈴・小、二打。青の鈴は他の鈴より気持ち軽い。軽さは祭の義務だ。
金。ここは“旗印・規約印刷”。“鈍い金”の歯触りを覚えたところで、札は静かに並ぶ。
「“金”は旗。図の精密さと“訂正の履歴”――“恥の短さ”が勝負」
法規課の若造が札をめくり、出納官が履歴の紙を指でなぞる。古株の植字工が立候補した印刷所の欄には、昨日までの“訂正・太字”が小さく、しかし美しく並んでいる。
「“恥の短さ”で――採用」
棒の鈴・小、二打。古株は活字箱の角を一度だけ撫で、笑いは紙の裏でやめて、表ではただ会釈した。紙の礼儀は、だいたいそうだ。
号外の見出しが歩幅を揃えて出てくる。
〈9月某日 王都広場 入札・最終日 白=包帯孔/灰=見回り灯規格/青=祭具・迅速会/金=規約印刷〉
数字は踊らない。図が前に出て、太字は“訂正欄”にだけ力を貸す。
「護衛対象」
セドリックが低く囁く。「“薄い危険”――今日はない。人の血の温度が均一だ」
「均一な日は、鈴がよく通ります」
◇
開札が終わると、風がわずかに変わった。街の筋肉が、次の姿勢に移る音だ。私は黒板の片隅に、小さな四角を描いた。中は空。上に、細い字で〈席・二脚〉。
王太子が柱の下から半歩、私に寄る。距離は短く、重さは大きい。
「――最後の札は入った。約束どおり、今日。椅子は二脚、鈴は三本」
私はうなずく。「“私のやり直し”。――席はここ。耳の高さ。紙は短く。歌は、必要があれば」
ローレンスが扇を置き、椅子の脚を一度ひねって安定を見て、セドリックが“退路の幅”を指先で示す。灰の審理官が離れた位置で“恥の運用票”を伏せて置く。必要なら開くが、開かないのが理想だ。
人垣は自然に後ろへ下がり、“声欄”の投函箱が脇へ寄る。ルカは相変わらず立って見ている。猫は椅子に座らない。猫には猫の礼儀がある。
◇
椅子は二脚。間に、鈴が三本。大・中・小。私は先に座り、王太子が対面に座る。座る前に、彼は短く言った。
「――鈴の意味を合わせよう」
「小は“合意”――二打で採択。中は“訂正”――一打で言い直し。大は“停止”――一打で席を切る。止血用」
「異議なし」
彼は視線でセドリックとローレンスに“遠くの背”を頼み、灰の審理官は数字の机に戻る。席は、二人だけの高さになる。誰も耳を塞がない。誰も口を広げない。これが“やり直し”の手触りだ。
「――殿下」
私は先に口を開いた。「私の“やり直し”は、三点。ひとつ、“婚約の名”。ふたつ、“仕事の顔”。みっつ、“退屈の規約”。」
「聞く」
彼は椅子に深くは座らない。背に寄りかからず、足を地面に置いたまま。地面の高さにいる王は、だいたい強い。
「ひとつ目。“婚約の名”。――私は“悪役令嬢”と紙に書かれた過去を持ちます。書いたのは、半分は私の未熟、半分は“扇の柄”。名は変えられるが、消せない。ゆえに、婚約の名は“やり直し”の二文字付きで、柱の下に」
私は中鈴を一打。
「“訂正”です。“やり直し”ではなく、“再契”。――“やり直し”は過去に引かれる。私は“前に置く”が好きです」
王太子が口角をわずかに上げた。「“再契”。良い。紙に書くとき、“退屈”の字の隣に置ける」
「ふたつ目。“仕事の顔”。――婚約しても、私は杖を置きません。“杖欄”“声欄”“本則”――街の鈍器を持ち続ける。宮廷の“扇”に持ち替えはしない。扇は舞台。私は柱の下」
大鈴に触れかけて、やめる。停止ではない。
王太子は即座に中鈴を一打。「“訂正”。――“扇を捨てよ”ではない。“扇の柄を高く持たない”。舞台で使う道具を、街に流さない」
「了解。……みっつ目。“退屈の規約”――私の私事にも適用します。椅子の数、時間、太字、未定。『未定は未定と書く』。……私事が公に触れるとき、紙に“未定”を太字で」
王太子は小鈴を二打。合意の音が雨上がりの石に短く跳ねる。「――合意。“再契”は公表。ただし“未定”は太字のまま残す。……例えば“式の日取り”」
「例えば“式の形”。――青の箱で踊るのか、踊らないのか」
ここで、彼はわずかに息を吸い、椅子の前脚を一指分だけ進めた。「私の番をひとつ。三点しかける。ひとつ、剣の居場所。ふたつ、盾の距離。みっつ、鈴の数」
「聞きます」
「剣は眠らせたい。――だが、剣が要る日が来る。君は鈴でできる限りそれを遠ざけた。続けてほしい。剣は“白の後ろ”“灰の外縁”。“青と金”の前には出さない」
私は小鈴を二打。「合意。……“剣は白の後ろ、灰の外縁”。」
「盾の距離。――セドリックの言う『背中と鐘の間』を、式のあとも、君の一生の周りに置きたい」
セドリックの名が出た瞬間、広場の隅で鈴がひとつ、ほんの小さく鳴った。彼の癖だ。
私は小鈴を二打。「合意。盾は“私章”ではなく“公章”。――章の色は灰」
「鈴の数。――私事の席でも、鈴は三本。……多すぎると笑われるが、少ないと燃える」
「三本で固定。――大は停止、中は訂正、小は合意。祭の日だけ、小を“笑い”に転用可。青の許で」
彼は笑いを喉で止め、「退屈の恋、だな」と低く言った。恋を口にして、椅子が軋まないのは珍しい。軋まないのは、椅子の脚に布を巻いたからだ。午前中の自分に感謝する。
「殿下。――ひとつだけ、恥を置きます」
私は“恥の運用票”を半分だけ開く。「私の過去の“見出し”。『令嬢、舞台で笑う』『扇の柄で街を殴る』――……紙に恥を太字で載せ、図で訂正します。『柱の下でしか笑わない』『柄を降ろした』」
彼は中鈴を一打。「訂正。――『扇の柄を降ろした』ではなく『扇の柄を持つ者の手から、柄を取り上げない。ただし柄の高さを定めた』。……君は奪わない。位置を定める」
私は息を吐き、笑いを小さく置いた。「位置を定める。――退屈の学名です」
ここで、小さな影が白線の外から手を挙げる。山から下りてきた子――“章の歌”の伝令だ。
「“やり直しの席”、子どもの節を言っていいですか」
王太子が顎で促す。彼は息を吸って、きちんと三行。
――椅子は二つで話が立つ
――鈴は三つで喧嘩が寝る
――紙は太字で恥が軽い
広場が少しだけ笑い、少しだけ真面目になった。子どもは相変わらず、前置きを要らない。
私は小鈴を二打。
「――“再契”、仮合意。紙には“未定”を太字で添える。公表は杖欄・臨時。式は“青の箱”にて検討、踊るかどうかは未定。盾は灰、剣は白の後ろ。……以上」
王太子は立ち上がらず、座ったまま、ほんのわずかに頭を垂れた。その礼は、紙に移すと弱くなる類いの強さだ。だから、見た人の記憶に頼る。記憶は盗まれやすいが、盗まれても減らない。
◇
席がほどけ、私は“杖欄・臨時”の版下に“再契の要点”を四行で置いた。
〈再契・柱下〉
――“再契”は公表。“未定”は太字で残す。
――盾は灰、剣は白の後ろ。
――鈴は三本(大=停止/中=訂正/小=合意)。
――“扇の柄”は高くしない(位置の規定)。
植字工の古株が“太字・未定”を気持ちよさそうに拾い、若い記者は見出しの胸をまっすぐに立てる。
〈9月某日 王都広場 “再契”仮合意 鈴三本/未定は太字〉
そのとき――遠見塔が山向きに旗を振った。〈山:銀78→80。“私章転用”の行列、青で完了/“手袋章”の型押し器、独立採算へ(灰)〉。
ローレンスが扇の骨を二度、乾いた手で撫でる。「舞台の道具が自分で歩きはじめた」
「道具が歩けば、人が転ばない」
私は“山欄”に太字で足す。
――石は道へ戻る/章は胸へ残る
――残った章で恥は短い
◇
夕刻、広場の端で、投資家ルカが手袋を片方だけ外して寄ってきた。
「祝辞を。……“再契”を“市場の言葉”に翻訳すると、“ボラティリティの制御”だ。感情の価格変動を鈴で止める。……退屈は高利回り」
「利回りは灰で、踊りは青で」
「旗は金で、剣は白の後ろ。――覚えたとも」
彼は肩をすくめ、目を細め、笑う代わりに帽子の端を人差し指で弾いた。「明日の見出しはつまらないが、強い」
「“訂正”が太字ですから」
◇
片付けの前、セドリックが私の椅子を持ち上げ、脚の布を外し、きれいに干した。
「護衛対象。今日、剣は場所を教えられた」
「良い場所です」
「盾の距離は、変えない」
「変えないでください。――背中と、鐘の間」
彼は喉の奥で短く笑い、それから真面目に戻った。「明日、“再契”の紙を貼る。恥の欄は、短く」
「短く。……そして美しく」
◇
夜。“杖欄・臨時”が広場に戻る。紙はまだ温かい。
〈9月某日 王都広場 “再契”仮合意 鈴三本/未定は太字〉
――椅子は二脚、耳の高さ。
――剣は白の後ろ、盾は灰。
――“扇の柄”の位置、規定。
――“式”と“日取り”、未定(太字)。
裏面は“席の図”――二脚、三鈴、白線、退路。図は踊らない。踊らない図は、翌朝も役に立つ。
私は黒板の隅に、短い四行を置いた。
――退屈は、恋に鈴をつける
――退屈は、約束に椅子を置く
――退屈は、未定を太字で守る
――退屈は、剣の居場所を決める
王太子はその四行を読み、今度はほんのすこしだけ笑った。笑いは薄い金箔で、過剰に貼ると剥げる。薄いほうが長持ちする。
「――明日、“仮合意”のまま一日置こう。紙が冷える時間が要る」
「紙が冷える間に、街が温まります」
遠見塔の小鈴が夜に一度だけ、乾いて短く。広場の椅子は重ねられ、鈴は布で包まれ、算盤は棚に戻る。剣は白の後ろで眠り、盾は灰の色で壁に立つ。青は波を畳み、金は旗を巻いて――全部、混ぜない。
ざまぁは、誰かの恋路を炎上させることではない。感情の値札を取り替え、鈴で値動きを抑え、椅子で約束を座らせることだ。値崩れしない退屈は、だいたい幸福の別名だ。
――第24話「再契・告示/鈴の婚礼(準備)」へ続く。