(第21話)やり直しの席(前)
朝の黒板に、いつもはない“空白の四角”が一つだけ置かれていた。四角の上には細い字で〈席〉。中は敢えて何も書かない。何もない四角は、街にとっていちばん緊張する図だ。
王都新聞“杖欄”の見出しは歩幅を揃える。
〈9月某日 王都広場 “やり直しの席” 本日午後〉
紙は踊らない。鈍く歩く。鈍いのに、胸が早い。今日はそれでいい。
私は柱の下に低い台を二つ、椅子を十八。椅子の背には小さな札――〈白〉〈灰〉〈青〉〈金〉の四色が均等に刺さっている。端に“声欄”用の投函箱、隣に“訂正”用の赤い箱。鈴は大・中・小を一本ずつ。
セドリックが歩幅を測り、盾の角度で“退路の幅”を確定する。退路は広く、誤解は狭く。
ローレンスは扇を腰で寝かせ、代わりに椅子のガタつきを指で押さえ歩く。椅子の足音は小さく、国の骨は静かに鳴る。
王太子は、地面の高さに降りた外套で来た。
「――約束どおり、ここで話そう。やり直しは、入札のあとに」
「椅子の数は十八。話す順は“箱順”」
私は黒板に“席の規定”を出す。
〈やり直しの席・規定(前)〉
――場所:掲示柱の下。耳の高さ。
――椅子:18。白・灰・青・金 各4+“声”2。
――順序:箱順(白→灰→青→金→声)。
――時間:一人“短歌一節分”(概ね一分)。二巡まで。
――記録:紙(杖欄・臨時)+図(要点)+鈴(違反時)。
――“未定”は未定と書く。
――“恥”は短く、場所限定(柱の下)。
――罵声は禁止。代わりに“改め歌”を置く。
――結論は“朱”ではなく“椅子の移動”(立ち位置の入換え)で示す。
――退屈は、椅子の数
――退屈は、時間の長さ
――退屈は、太字の厚み
――退屈は、やり直しの形
若い記者が「一分」の横に小さく砂時計の絵を添え、植字工の古株が“太字・未定”の活字を指で撫でる。活字は撫でると強くなる。紙は、撫でる前に折れる。
◇
午前の巡回は最短で切り上げ、私は“席”の予備審理を済ませた。白の椅子には修道女の会計係と薬屋の女主、灰には工匠代表と井戸守、青には迅速会の代表と“紙を守る会(元)”の古株、金には法規課の若造と王宮の出納官。
“声”の二席には“杖欄”をやる若い記者と、山から昨夜戻った子ども――“章の歌”を覚えたばかりの小さな伝令。
ルカは椅子に座らない。「今日は立って見る」と言った。猫は椅子を嫌うが、椅子が嫌いだからといって椅子が悪いわけではない。
昼の鐘が一度。私は小鈴を鳴らす。
「――“やり直しの席”、始めます。第一巡。“白”から」
修道女の会計係が立ち、掌の白章が光る。「“白は掌”。――仮倉の『白の支出』は公開で回っています。要望はひとつ、“夜の合図”の追加。白章の“音紋”を、もう少し低く」
私は図に「半音下げ(夜仕様)」を書き添える。夜の歌は、眠りを起こさない高さがよい。
薬屋の女主は短く。「“白から灰への振替”の申請図、簡略版を。現場は忙しい」
「図の“省略記号”を増やします」私は頷く。省略記号は退屈の味方だ。
次、灰。工匠代表は足で拍を取り、「“灰前倒し枠”一割、運用は堅く。だが“夜間の鋲”はもう少し太く」
井戸守は、柄の改良図を掲げる。
「子の指が冷たい“鎖”。――“柄”の試作品を。費用は灰、設置は塔番」
図に“柄ねじ二本・木口楕円”を足す。図は、恥の前で強い。
青。迅速会の代表は肩を竦め、「“杖賞”は青で続けたい。見出しの‘踊りたがり’を、週に一度だけ舞台へ隔離する。数字は灰で」
“紙を守る会(元)”の古株は、活字の箱を指で叩き、「“訂正”を太字のまま。……声欄の“誤植拾い”は俺がやる。恥を太字にする前に、拾う」
金。法規課の若造は立ち、戒告札を胸の奥へ押し入れた。「“本則”第1稿。『必要に応じて』の限定、“日次公開”、‘椅子の数’の条。……退屈にしました」
王宮の出納官は帳を開き、「“金箱”の中身、公表の図の雛形を。数字は鈍く、見出しは小さく」
“声”。若い記者が短く。「“声欄”は“悪口だけ”は載せない。改め歌が付いた声だけ採る」
山からの子は、息を吸って――
――右は顔 左は章
――顔は呼び込み 章は責任
――混ぜるな 混ぜれば鈴が鳴る
広場の空気が少しだけ笑い、少しだけ真面目になった。子どもは“前置き”を要らない。これは街の救いだ。
第一巡の終わりに、私は中鈴を一度。
「――ここで“恥の運用”の確認。『三日・場所限定・図で残す・個人印・学習振替』。――異論?」
異論は出ない。出ない沈黙は、鈍い合意。
◇
第二巡は“やり直し”の核心――私と王太子が話す番だ。私は立ち、椅子をずらす。椅子の脚が石を擦り、退屈な音で線を引く。
「――殿下。“やり直し”の中身は二つ。公と私。公のやり直しは、今日ここでやる。私のやり直し――あなたと私――は、入札の季節が終わってから」
王太子はうなずき、同じ高さで視線を返す。「約束する。私事は、入札のあとに。公は、今ここで」
「公のやり直しは、“扇の柄”の位置。――舞台から街へ降ろして、折れる前に置く」
ローレンスが深く頭を下げ、「第二課は『舞台の理屈で街をいじらない』を本則化する」と短く言う。扇は開かれない。柄も高くない。
王太子は続ける。「“金箱”は旗、支出は白・灰・青。中身は図で公表。……前倒し枠は灰の一割。――退屈だが、国の骨だ」
「骨は、面倒を支えるためにあります」
私は朱ではなく、椅子を一脚だけ動かした。王太子の椅子が半歩、柱に寄る。寄る距離は小さいが、紙より重い。
中鈴が一度鳴って、外縁の人垣がさざめく。さざめきの中に、金の粉の笑い――ルカ。
「祝辞を一つ、異議を一つ」
彼は立って、椅子から距離を取る。「祝辞――“金箱”の中身公開は市場にも良い。異議――“声欄”が“誘導”の巣になる。匿名で“青”を揺さぶる者が出る」
私は頷き、図を一枚貼る。
〈声欄・誘導対策〉
――“案内図”は認証制(青)/“比較表”は灰。
――日付・地域・図・“未定”は未定。
――匿名は可、ただし“改め歌”必須。
――“悪口だけ”は採録せず。
――“恥”は短く、太字で。
「――誘導は図で折る。図が折れない誘導は、鈴で止める」
ルカは肩をすくめ、猫の背の埃を払った。「退屈の壁、また一枚。……だが壁は登る者を育てる」
「登るのは『祭の箱』で」
迅速会の代表がすかさず笑わせる。「青で縄を出す。金は旗で応援しろ」
笑いが一枚流れて、席が軽くなる。軽くなった席は、落ちない。
◇
その時だ。静かな音――水晶の爪で硝子をひっかくような薄い音。鈴は鳴らない。私とセドリックの視線が同時に“投函箱”へ走る。
投函箱の底に、細い三角の小札。端に微細な“鈴殺し”の粉が塗られている。箱全体を黙らせる罠。
私は何も言わず、棒の鈴を一度、空の高い位置で鳴らした。響きは十分。セドリックは盾で投函箱の前に陰を落とし、ローレンスが鑷子で札を摘む。
灰の審理官が端に立ち、「臨時審理――“投函箱の鈴殺し未遂”。三角印。没収・個人科料・学習振替」を短く告げる。
小鈴が“二打”。二打は訂正。三打は停止。今日は二で足りる。
私は黒板の隅に一行足した。
――黙らせた箱は歌で開く/箱を開ければ椅子が座る
“席”は揺れない。揺れないのは、椅子の足が多いからだ。椅子の足が多いのは、退屈の技能だ。
◇
第三巡――“結論を紙ではなく、立ち位置で”。私は椅子の並びの前に、足幅で引いた白線を指した。
「――“本則・第1稿”に仮合意する者は、この線の左へ半歩。『未定』を残したい者は、右へ半歩」
白。修道女・薬屋は左へ半歩。
灰。工匠・井戸守も左へ。
青。迅速会・“紙を守る会(元)”も左へ、ただし“声欄の訂正の太字”の欄に赤丸。
金。法規課の若造は左へ、出納官は“前倒し枠”の注記に印。
“声”。記者は左へ、山の子はその場で足をそろえる。子の“未定”は、未来の余白だ。
線は、人の足で太くなった。
私は小鈴を一度鳴らす。「――“本則・第1稿”、仮合意。『未定』は欄外に明記。“椅子の数”“時間の長さ”“太字の厚み”は、固定」
固定は退屈の気圧。気圧が安定すると、嵐は来ない。
◇
席がお開きに向かう直前、王太子が小声で私に訊ねた。「“私のやり直し”の席は、いつだ」
「入札の最後の札が入った翌日。――ここで」
「椅子は、何脚いる」
「二脚で足ります。……ただ、鈴は三本」
彼は笑いを喉で止め、真面目に頷いた。「鈴は三本。――退屈の恋は、うるさすぎないのが難しい」
私は答えず、棒の鈴を指で転がす。音がしない転がりは、指の中でだけ鳴る。
◇
席を閉じる儀式は短い。椅子の背に刺した四色の札を外して束ね、太字で“本日の約束”を板に貼る。
〈本日の約束〉
――“本則・第1稿”仮合意。三日後“第2稿”。
――“声欄”運用を常設、訂正は太字。
――“鈴殺し”対策:投函箱に“鈴帯”追加。
――“章の色”実装を王都内80%へ(今週)。
――“水・人勘定”の速報欄を杖欄に固定化。
――“山の声欄”を同紙裏面に連載。
――約束は椅子に座らせろ
――紙に立たせず椅子に座れ
人垣がほどけ、雑音が戻る。雑音は街の血流だ。血流が戻れば、席は血管の弁になる。弁があるから、逆流は長く続かない。
ローレンスが扇を撫で、「舞台でも、ここまで静かに“帰り道”ができる日は少ない」と言った。
セドリックは盾の裏で一度だけ小鈴を鳴らし、「護衛対象。今日、剣は要らなかった」と短く足した。
「鈴が三本ありますから」
ルカが肩を竦め、金の舌を半分だけしまう。「敗けが多い日だ。だが、市場には“敗け方の美学”が要る。……君はそれを作る」
「美学は青。運用は灰。止血は白。旗は金。――混ぜない限り、火は来ません」
◇
夕刻、“杖欄・臨時号”が刷られる。
〈9月某日 王都広場 やり直しの席 “本則・第1稿”仮合意〉
――椅子18/箱順/一人一節/未定は未定/結論は“椅子の移動”
――“鈴殺し未遂”二打/“恥の運用”確認
――明日:“席(後)”に向けて“本則・第2稿”予告
裏面は図――椅子の配置、白線、投函箱、鈴の位置。図は踊らない。だから強い。
私は黒板の隅に、短い四行を添えた。
――退屈は、席のつづき
――退屈は、明日の余白
――退屈は、未定の太字
――退屈は、鈴の置き場所
王太子がその四行を読んで、軽く会釈した。会釈は王の剣より街に効く日がある。今日は、その日だ。
片付けの最後、椅子を重ね、鈴を布で包み、算盤に薄い紙を一枚かける。
「護衛対象」
セドリックが低く言う。「明日、“席(後))”。――剣は、たぶん要らない」
「要らない日を、要る可能性と同じだけ準備します」
彼は喉の奥で笑い、真面目に戻った。「背中と、鐘の間」
「はい。――鈴は三本」
遠見塔の小鈴が夜に一度だけ、乾いて短く。街は退屈に入った。退屈は眠りを呼び、眠りは明日の椅子を真っ直ぐにする。
ざまぁは、誰かを跪かせる見せ物ではない。椅子を揃え、時間を短く切り、太字で未定を残し、鈴で嘘を追い出す作法だ。作法が身につけば、剣は眠っていられる。
――第22話「やり直しの席(後)」へ続く。