(第20話)章巡回・山へ/“恥の運用”
朝の杖欄は“図が多い日”。見出しは歩幅を揃えている。
〈9月某日 王都広場 杖欄第3号 井戸45・停止0/“章の色”実装率62%〉
“山欄”には小さく、しかし効く線が一本。〈銀76/石票停止・二週目末〉。その下に赤い短冊――〈巡回:山・桶屋組/“私章”の是正〉。
「行ってきます。章の巡回」
私は棒の鈴と“章の標準”の布見本、“恥の運用票”を鞄に入れた。セドリックは盾を軽く叩き、半歩右後ろ。ローレンスは扇を置き、代わりに“町結び用の紐束”を持つ。紙で世界は動くが、山は紐でよく動く。
王太子は柱の下で短く言った。「“恥の運用”を、山でも」
「恥は熱です。冷やして、形を残します」
◇
峡谷の風は、王都より低い音で鳴る。鉱山町の広場に入ると、見覚えの顔――坑夫頭のダン、代官バルカ、鍛冶屋連合の代表――が“鈍い”笑いを浮かべた。鈍い笑いは、昨夜も働いた証拠だ。
「お嬢さん。『章』に色を塗りに来たのか」
ダンが指で帽子を押さえ、視線で坑口の方を示す。「桶屋組の若頭が、“商いの章”を勝手にこさえた。色は派手、意味は薄い」
広場の端に、その“私章”が吊られていた。真新しい藍地に金の縁取り、中央に“桶”の絵――悪くはない。悪いのは、場所だ。章は“公”、看板は“私”。混線は事故の母。
「今日は“章巡回”。標準を貼って、私章は“祭具”に転用します」
私は布見本を掲げ、子どもに触らせる。触り印の凹凸に指が集まり、笑いが低く弾む。
――章は目で読む それでも足りず
――指で読むなら夜に強い
――鈴で読めば群れに強い
若頭が出てきた。二十代半ば、顎の線が“勝つ”方へ傾きがち。肩に桶の焼印を入れた短外套、胸に“私章”。
「王都の“章”は遠目が効く。だが山の商いは顔で効く。顔章でいいだろ。俺の顔は、責任だ」
「顔は変わります。章は残ります」
私は淡々と返す。「――“顔章”は青の箱へ。『祭の呼び込み章』に転用。仕事の章は“手袋章”です。混ぜない」
「混ぜない」ダンが短く復唱した。復唱は味方の証。それでも若頭は肩を引かない。
「顔を消すのは“恥”だ」
「そこで今日の二つ目――“恥の運用”です」
私は“恥の運用票”を立てた。
〈恥の運用(山用)〉
――恥は“熱”。冷やす:期間を短く(原則三日)。
――恥は“面”。広げない:場所を限定(掲示柱の下のみ)。
――恥は“形”。残す:図と数で正誤を掲示(太字訂正)。
――恥は“個人”。吊さない:名は歌に入れ、罵声を禁ず。
――恥は“費”。科料は軽く、振替は学習(図を描く労)。
――恥は“歌”。歌は短く、二度で終わる。
――恥は熱でも氷でない
――冷やせ 短く 残せ 図で
「“吊し上げ”はしません」私は若頭を正面から見る。「――“私章”を『祭具』へ換える。あなたの名は“章の転換歌”に一節だけ残る。『間違えた→直した』。直した人間の方が強い」
若頭の顎がわずかに緩み、しかし引き際を探している。引き際を示すのが、制度の役目だ。
セドリックが視線で“退路”と“合意の位置”を示す。盾が道を指すと、人は理屈を見つけやすい。
「……三日だな」若頭が言った。「三日で“祭具”に全部付け替える。歌はお前が作れ」
「作ります。――青の箱から“紐・旗子”を支給。“町結び”で固定。祭の呼び込みはあなたの顔のままで、章は公に」
ローレンスが紐束を差し出し、鍛冶屋代表が小さな“型押し具”を持ってくる。凹凸は説得だ。説得は、指でやると早い。
◇
仮の台を立てて“章の付け替え式”。私は“私章”を「青・祭具」へ移す欄に置き、若頭と一緒に“手袋章”を肩ではなく胸の左へ。
「“顔”は右へ、“章”は左へ」
私は図を描く。「右は呼び込み、左は責任。――左右を混ぜると、事故が増える」
――右は顔 左は章
――顔は呼び込み 章は責任
――混ぜるな 混ぜれば鈴が鳴る
群衆の笑いが一枚剥がれ、仕事の顔に戻る。剥がれた笑いが悪いわけではない。剥がした後に残るのが“回る顔”だ。
式の途中、代官バルカが腕を組んで近づく。「王都の令嬢。恥を短くするのは、甘さか?」
「逆です。長い恥は、嘘と同じ匂いがします」
私は票の二行目を指で叩く。「“場所を限定”。――広場で長く晒すのは『見世物』。街は舞台ではない」
バルカは鼻で笑いかけて、やめた。やめることを覚えた代官は、もう半分味方だ。
◇
付け替えは昼までに八割進み、“祭具”へ移した私章は青の棚へ整然と並んだ。午後の最初に、鍛冶屋連合の代表が“足の速い型押し”を発明する。足踏み式。手袋章の凹凸が均一に付く。均一は早く、早い均一は事故を減らす。
「“声欄・山”も始めます」
私は投函箱を二つ据えた。〈山の声〉〈山の訂正〉。
――“石票停止の歌”の節の高さ(坑道Bは低く)
――“町結び”の水濡れ時のほどけ対策(布端の撚り方向)
――“灰箱”の“前倒し枠”の使い道(坑口の灯増設)
ダンが投函箱を覗き、「文字は子が書く。大人は口で言う」と笑った。
「紙に“口”を乗せるのは、子の仕事です」
私は子どもに“絵の欄”を指差し、「絵で書け」と歌う。
――字が踊れば絵で歩け
――絵が迷えば鈴で呼べ
◇
午後の半ば、“灰の封蝋”。王都からの早便。〈祭典局旧台帳の“控え”――山用木型の“影写し(かげうつし)”が見つかる。押収先:王都北・倉小屋。持込者:匿名紙“細い三角”のスタンプ〉。
ローレンスが息を呑む。「影写し……舞台で使う“代稽古台本”。本物が汚れぬよう、影を使う。……街では危険だ」
「“三角”は舞台の影を街へ運ぶ癖がある」
私は短く言い、章巡回の図に三角の印を小さく添えた。「――“三角”の符牒は“声欄”ではなく“監査欄”へ」
セドリックが低く告げる。「護衛対象。坑道Cの上、見張台に二。外套の裾、紙の匂い」
「鈴で行きます。――剣は眠らせて」
◇
見張台は風が早く、嘘が遅い。外套の二人は若く、手に薄紙。細い三角。
「“紙を守る会”の、山支部?」
私が問うと、一人が唇を噛んだ。「……俺たちは『見出しを先に走らせる会』だ。王都の遅い紙に勝つには、街を鳴らす前に紙を鳴らす」
「紙は鈴と喧嘩しない」
私は繰り返す。「――あなたたちの紙は“声欄・山”に入っていい。日付・坑道名・図。匿名可。“訂正”は太字。『勝つ』ではなく『合わせる』が街の速度です」
もう一人が肩を落とし、「“合わせる紙”は読まれない」と呟いた。
「だから“章”がある」
私は手袋章を示す。「――読まれなくても、触られる紙。触り印と図。“章の紙”は、読めない手を守る」
セドリックの視線が斜面の下へ落ち、盾が半歩だけ前へ。退路を塞ぐのではなく、転ぶ足を受ける位置。
若い二人は薄紙を私に渡し、灰の審理官のもとへ歩いた。歩く背中は、良い紙になる。
◇
夕刻前、広場で“恥の運用”の公開説明。私は“吊し上げ”ではないしるしに、わざと小さい台に立つ。
〈今日の恥(短)〉
――“私章”を“祭具”へ転用(青)/期間三日/図と数で正誤掲示/歌は二度
――【科料】:小(銀貨一)→【学習振替】:型押し具の整備一時間
――【名の歌】:桶屋組若頭――『顔は右に 章は左に』
――恥は熱でも氷でない
――冷やせ 短く 残せ 図で
――残った図で 同じ穴を塞げ
若頭は前に出て、「……三日後、祭の先頭で“私章・転用”の行列をやる。『間違いは踊って消す』」と短く言った。
青の箱から“旗子”が配られ、子どもたちが波の凹凸を指ではじく。音は小さく、しかし確か。
バルカ代官が最後尾で腕を解き、「王都の恥は、山では使える」とぼそり。
「王都の恥も山の恥も、温度は同じです」
私は笑いを置いた。「――長くしない。広げない。忘れない」
◇
夜の手前、ダンが私を呼んだ。坑口の影で、彼は照れ笑いを半分隠す。
「“銀ひとかけ”、七割を越えた。『三つ目過ぎたら石は止む』の歌を、子どもが先に覚えてな。……桶屋の連中が、清掃班で“手袋章”を自慢してる」
「章は“自慢”でいいんです。自慢は青ではなく灰へ寄せる」
「お嬢さん。王都の“やり直し”ってやつ、山でもできるのか」
「できます。――椅子と太字があれば」
「うちは椅子が少ない」
「椅子は板で作れます。太字は歌で」
ダンは喉の奥で笑い、頷いた。笑いは鈍器の油だ。
◇
帰路。峠に差しかかると、遠見塔の合図旗が夜の前を急いだ。〈王都――“声欄”に『やり直しの席』の下書き掲載/“扇の柄”の影、薄くなる〉。
ローレンスが肩で息をつき、扇の骨を一度撫でる。「舞台の柄は、舞台で使う。……街の柄は、椅子だ」
「椅子は鈍器にもなる」
セドリックが小さく笑う。「護衛対象。明日、“席”の話が始まる」
「始めます。――入札の季節の、最後の札が入り切ったら」
王都の灯が遠く金の粉になり、山の影が灰の布になる。私は鞄の鈴を一つ鳴らし、章の布を撫で、“恥の運用票”の端を指で折った。折り跡は、次の退屈の目印だ。
ざまぁは、誰かを晒すことではない。混線を止め、短い恥で熱を冷やし、図と歌で正誤を残すことだ。残った正誤は、次の人の“転び方”を軽くする。軽く転べば、早く立てる。早く立てば、鈴が鳴る。
遠見塔の小鈴が二度、ゆっくり。明日、王都の柱の下で“席”の枠を出す。椅子は既に磨かれている。
――第21話「やり直しの席(前)」へ続く。