(第2話)証拠は涙を待たない
開札の鐘は、予鈴と本鈴で二回鳴る。予鈴は来いの合図、本鈴は逃がさないの合図。どちらも、嘘が嫌いな金属の音だ。
王都の中央掲示板前に臨時で組まれた開札台は、背後に学院の転送陣、左右に透明の見物席、前面に二重の入札箱。外箱は鉛で重く、魔力を鈍らせる。内箱は魔封で軽いが、二本の鍵がなければ開かない。一本は私、一本は監査院長バルト。鍵穴は遠くからも見えるよう、銀箔で縁どっておく。ついでに“盗もうとすると目立つ”という心理効果も、銀はよくわかっている。
私は台に上がり、呼吸を整えた。セドリックは半歩下がって後背。視線は常に会場の外縁を舐める。騎士は視線で壁を築く。私は条文で壁を築く。
「第一次出品、王都上水管理の水利権。最低価格は旧年の維持費三年分。入札は一発、上書きなし。参加者は誓約書を提出済み――“談合と虚偽記載には供託金没収、王都勤労奉仕三十日”。では、予鈴」
鐘を一打。羽ペンがいっせいに走る。封蝋の色は各者で異なり、割って混ざればすぐわかる。色は証言する。涙より先に、証拠が喋る。
視界の端で、ひとりの若い商人が躊躇い、封筒を握り直した。手は震えていた。震える手で書かれた数字は、時に真実に近い。相談する余裕がないから。
「セドリック殿。北棟の会計室、昨夜の“証人”は確保されていますか」
「監査院詰所で保護。尋問立会人の準備も」
「よろしい。では本鈴」
本鈴が鳴る瞬間、空気が軽くなる。欲と恐れが、それぞれ自分の重心を選ぶからだ。私は二重箱の外鍵を回す。重い音。内箱の魔封鍵を、バルト院長に示す。彼はうなずき、私の鍵に重ねて回した。
「開札」
内箱を持ち上げると、封筒の匂いが立ちのぼった。蝋と紙と、わずかなインク。私は一枚ずつ封を割り、数字を読み上げる。
「王都水道組合、二百四十万。工匠連合、二百九十万。辺境水運ギルド、二百五十万。グレー商会、三百二十万――」
そこで、一枚の封筒の蝋が目に刺さる。色は薄い藍。昨夜、刺客の指先にこびりついていた、あの藍。私は封を割り、中の書式に目を走らせた。金額欄に、あり得ない書き文字の癖。震えではない、稽古のない子供字。仮名書きで“さんびゃくまん”。ふさわしい場所に数字がない。
「――失格」
私の声に、会場がざわりと揺れた。私は淡々と告げる。
「入札書は規定の数字で記入すること。仮名書きは無効です。次――」
「異議あり!」
人垣を割って一人が進み出た。薄藍の印章と同じ色の短外套。王太子後援会の給費係、顔は覚えている。彼は高く書類を掲げた。
「令嬢の入札規約は、昨日掲示だ。準備期間が不十分。仮名書きの許容は過去慣習に存在する!」
「過去慣習は慣習、規約は規約。掲示日は昨夜未刻、告知幅は“第一次に限り短期”と明記。読みましたね? それに――」
私は書類をひらりとめくり、裏面の薄墨に触れた。紙の目よりわずかに濃い、魔力転写の痕。封筒自体が会計室から転送された証拠。つまり、現場で書いていない。談合の痕は、影で動くときほど濃く残る。
「あなた方の“過去慣習”は、誰の利益でしたか」
男は口を開いたまま言葉を見失い、バルト院長が無言で男の書類を受け取った。不服申立ては受理される。ただし保証金は重い。私は次の封を割った。
「――四百二十万。落札、工匠連合」
二拍の沈黙ののち、拍手が弾けた。工匠たちの掌は固く、音がよく通る。私は落札者代表を呼び、壇上で署名手続きを始める。署名は剣より冷たいが、舞台の光を浴びると、少しだけ暖かく見える。
「維持費の上限と減免規定はここ。事故時の責任はここ。料金表は季ごと掲示、改定時は二週間のパブリックコメント。読めますか」
「読むだけなら。理解は……これから精進します」
代表は正直だった。正直は美徳であり、同時に危険でもある。私は一枚の短い紙片を渡した。
「“読める人の名簿”です。監査院の若い者、ギルドの簿記係、寺院学校の算術教師。数字で具合が悪くなったら、ここに頼ってください。報酬は出ます。出すのはあなた方」
会場の空気が、少しだけ笑った。笑いは助走になる。私は最後の署名を確認し、印章を押す。新しい所有者の名の上に、きれいな朱が咲いた。
「第一出品、完了。次――王都下水路利権」
鐘が鳴る。予鈴と本鈴。私は書類の束を片付けながら、横目でセドリックを見る。彼の視線は、出入口と屋根の縁と群衆の背中を一定のリズムで渡っていく。泳ぐような、巡回するような、無駄のない軌跡。
「セドリック殿、北棟の会計室へ行きます。十五分後、合図三つ」
「……今?」
「涙は待っても、証拠は待ってくれません」
私は壇をバルトに預け、裏口から学院棟へ走った。石畳に午前の光が白い。薄藍の印章の匂いは、まだ空気に残っている。北棟三階、会計室。昨夜の刺客が囁いた部屋。扉には封印が貼られ、その上から監査院の仮錠。鍵を回すと、紙の匂いの奥から、鉄の匂いがした。
「扉の内側に、第二の鍵穴。表からはわからないやつです」
セドリックの声が背中に届く。早い。私はうなずき、扉を開けた。部屋は狭く、机が三台、帳簿棚が二列。窓は北。光は弱い。弱い光は、嘘を好む。
私は棚の中段、背板の薄さを指で測る。指先は嘘に敏感だ。薄い背板は秘密の習慣。板を外すと、間に挟まれた薄葉紙が五十枚。すべて、入札書式の下書き。金額欄は空白、封筒宛名だけが整っている。宛名は、今日の会場で見かけた商会とギルドばかり。
「雛形配布。談合の王道」
私は薄葉紙の端を一枚だけ折り、二重の封筒に挟んだ。証拠の保全は、息みたいに自然でないといけない。作業の途中、机の脚に傷を見つける。引きずり痕が新しい。机を少し動かすと、床板に指一本分の隙間。引き上げて覗くと、黒い小袋。中は硬貨が数枚と、短い紙切れ。
〈明日、藍で。箱は外だけ〉
外だけ。つまり、内箱は使わない。外箱だけで差し替えが可能だ、という合図。内箱は魔封、外箱は鉛。昨夜の刺客は、鍵の所在を探るための目くらまし。本命は“外での差し替え”。私は小袋を閉じ、袋の縫い目に小さく印を付けた。印はインクではなく、蝋をほんの少し染み込ませて、指の跡で凹凸を残す。盗られても、戻ればわかる。
「戻りましょう。本鈴の刻です」
セドリックの言葉にうなずき、私は走る。階段の踊り場で、彼が足を止めた。
「先に」
「どうして?」
「背中を守るのは、盾の仕事です」
背を押された形で、私は階下に滑り降りる。会場のざわめきが近づき、鐘の予鈴が鳴った。息が体内のどこかで金属になって、鳴っている気がした。
壇に戻ると、バルトが短く顎で合図した。私は外箱を叩き、内箱を出す。封を割る。数字を読み上げる。演目は同じでも、景色はさっきより鮮明だ。裏で何が動き、どこが未遂に終わり、どこに手が届いていないか。数字の匂いは、嗅ぎ分けられる。
「――下水路利権、落札。辺境水運ギルド」
歓声は控えめだが、安堵が混じる。下水は地味だ。地味なものが地味に回る国は、だいたい強い。
第三の出品――学院転送陣・運用管理権――を掲げようとしたとき、壇下から書記官が駆け上がってきた。手には赤い紐の封筒。紐の結び方が、面倒くささを主張している。私は受け取り、蝋印と筆致を確認する。王都裁可局の“仮処分通知”。申立人、王太子後援会。申立ての趣旨――“公開入札の停止および既落札の効力停止”。
会場に風が立った。誰かの喉が鳴る音。誰かの羽ペンが落ちる音。私は封筒から紙を引き抜き、読み上げた。
「――“学園内資産の処分は王家監督に属す。監督範囲に疑義がある以上、処分は停止されるべき”」
なるほど。最後の抵抗にしては、筋がいい。私は視線だけでバルトを探り、彼は目に“やれ”と書いた。やれ。つまり、動け。
「異議の申立ては尊重します。よって、次の手順に移ります。――王国監査院の、呼び鈴を」
私が言い終えるより早く、セドリックが壇の下で合図笛を吹いた。短く三つ。会場の外縁から、鈍色の制服が滑り込む。監査院の臨時審理官だ。呼び鈴――携行型の審理板が彼らの胸に光る。場内の空気が一段締まった。笑いが逃げ、嘘が身じろぎする。
私は仮処分の紙を高く掲げ、宣言した。
「公開の場で、公開のまま、審理します。停止が正しければ従う。誤りなら――進めます」
鐘が鳴る。予鈴ではない。本鈴でもない。監査院の審理開始の鐘。音はどこにも逃げず、空の高いところで輪になった。
セドリックが私の後ろに立つ気配がした。背に、盾。手前に、条文。涙が来るなら、あとでいい。証拠は、いまがいい。
「審理官殿。まずは“学院資産の定義”から始めましょう」
私は最初の資料束を持ち上げ、朱の紐を解いた。帯の末端に小さな結び目――“もしここを解くなら、最後まで解け”。バルトの悪い癖だ。けれど今は、その癖に救われる。
「王都は、人の飲む水と、流れる下水と、歩く石畳でできている。どれも“誰のものでもない”とされてきました。だからこそ、誰かのものになった。今日は、その“ならではない”を“ならない”に戻す日です」
審理官の一人がすっと手を挙げた。質問の鋭さは、指の角度でわかる。
「令嬢、あなたの利得は?」
「公開します。四半期ごとに。いまは、国の利得を先に」
私は笑わなかった。笑うと嘘と同じ温度になるから。ここは、冷たい音で押す。
鐘が、二度鳴った。審理の時間が動き出した。
――第三話「王国監査院の呼び鈴」へ続く。