(第19話)“声欄”創刊/章の色
朝の黒板には、昨夜のうちに貼った新しい細長い枠がひとつ。〈声欄〉。枠の上には、植字工の古株が彫った小さな木口版――耳と紙と鈴が寄り添う図。耳は紙の上で寝転び、鈴は黙って見ている。うるさくない図は、よく響く。
〈声欄・第1号〉
――“北門の仮倉の乾きが遅い。乾き次第が知りたい”(北区・男)
――“水汲み鎖、子どもの指に冷たい。柄が欲しい”(南区・女)
――“章の布の色、夕暮れだと見えにくい”(工匠街・子)
――“夜回り歌、半音下げが歌いやすい”(東通り・老人)
――【訂正】“井戸稼働”の昨日の数、42→44(版下差し替え漏れ)。太字でお詫び。
私は枠の横に“運用の杖”を重ねる。
〈声欄運用〉
――日付・地域・用件(図歓迎)/匿名可。
――採録基準:白(掌)・灰(労)・青(祭)に直接関係する声を優先。
――【訂正】欄は常設、太字。
――“悪口だけ”は採録せず。“改め歌”が付く声を採る。
――悪口は風 歌は杖
――杖のない風は紙を破る
若い記者がペンの先で「太字」の三文字をぐっとなぞり、植字工の古株は活字箱の角を“愛しそうに叩く”。活字は叩かれても泣かない。代わりに、紙が泣く前に太字で詫びる。
◇
「今日は“章の色”を決めます」
私は黒板の右に四角い図を出す。肩章=“肩の名誉”、手袋章=“仕事の誇り”。どちらも必要だが、色は混ざると人が迷う。夕暮れや灯下でも読みやすい色で、色が見えにくい目にも届く“図案”が要る。
〈章の標準〉
――手袋章(灰):地は灰、白線二本、靴跡の型押し。
――肩章(青):地は藍、白点三つ、波の型押し(祭・案内)。
――白章(掌):地は白、黒の十字、一辺だけ朱(救急・衛生)。
――金章(旗):地は淡金、黒の縁、中央に空の丸(規約掲示・仮令持ち)。
――夜間は“反射糸”/音紋:手袋章は“チリ”、白章は“コト”。
ローレンスが扇を閉じたまま頷く。「舞台の“衣裳符丁”の流用、ただし街仕様。……“音紋”は良い。舞台裏では音で役を拾う」
セドリックは章の布をひとつずつ指で捻り、光の角度を変えて見せる。盾が布を扱うと、布のほうが緊張する。
「護衛対象。夕刻の狭い路地、色は死ぬ。形と触りを足すのは正解」
「紙と鈴と同じです。二つ以上で読む」
私は“色弱”の目に届く配色を板に図解し、章の布の端に“触り印”—細い凹凸—を指定した。手袋章は二筋、肩章は波、白章は十字の交点が盛り上がる。指で読める章は、灯が消えても嘘を嫌う。
――章は目で それでも足りず
――指で読むなら夜に強い
「“章の色”に異議――」
人垣から手が上がる。迅速会の代表だ。
「――“青”はうちの看板色だ。『肩章=青』だと、祭の日、同じに見える」
「祭の日は“青の中で図で分ける”。――肩章は“波”、看板は“貨”の字を白で抜く。波と字は喧嘩しません」
私は描いて見せる。代表は眉間の皺を伸ばし、口の端を上げた。「……字が波に勝つ日もあるな」
「勝ち負けではなく、混線をやめるだけです」
◇
午前の巡回は“章の標準”の実地合わせ。洗濯場に行けば白章の修道女が白線の幅を確認し、鍛冶場に行けば手袋章の若者が凹凸の深さを自分の掌で計る。
「深すぎると擦れて剥げる」
工匠の娘が言い、古株の植字工が「版木ならこのくらい」と指で示す。職人の指は説得力がある。指は論文より早い。
“声欄”の投函箱には、朝から紙片が溜まっている。子の字、老の字、描き込みの図。私は投函を三つに分ける。白/灰/青。紙に自分で歩かせるためだ。
――投函の歌:
――白は掌 命のこと
――灰は足袋 仕事のこと
――青は幕 祭のこと
――金は旗 約束のこと
◇
正午前、王都新聞が声欄の刷りを抱えて来た。
〈声欄・第1号(本紙)〉
――“仮倉の乾き”→【図】乾燥度計・矢印・日次
――“鎖に柄”→【図】簡易柄・費用見積(灰)・子の手の絵
――“章の色”→【図】章の仕様・“触り印”
――【訂正】井戸42→44(太字)
見出しは歩く。踊らない。
〈9月某日 王都広場 声欄創刊 “章の色”決定〉
若い記者が帽子を押さえ、「『訂正を太字に』は社内でも賛否。――でも、押し切りました」と小声で笑う。
「押すべき鈍器は、太字です」
植字工の古株は活字の箱を叩き、「“訂正”という活字を磨いておいた」と誇らしげに言った。今日いちばん美しい自慢だ。
◇
午下がり。声欄の“危ない来訪者”が一人。痩せた頬、目の下に読書の影。名乗りは「紙を守る会の……もう“元”だ」。昨日の古株の先輩筋らしい。
「声欄は“火薬庫”になる。匿名で悪意が流れる。――紙が燃える」
「“悪意”は採録しません。――“改め歌”が付かない声は載せない」
私は運用表を指で示し、彼の目の高さに合わせて読む。
「匿名は可。ただし“日付”と“地域”と“図”。図は嘘を嫌う。嘘は図で困り、歌で恥じる」
彼は乾いた喉で笑い、「……恥を“運用”に入れる女は初めてだ」と言った。
「恥は安価で強力な抑止です。――科料より効く場合がある」
セドリックが横で“見張りの歩幅”を保ちつつ、声だけ投げる。「恥を効かせるには、盾が必要だ」
「盾はいます」
私は頷いた。「紙を殴る手から、声の投函箱を守る人。夜は鈴で見回る人。……配達は子どもではなく、章のある大人」
元会員は息を吐き、肩を軽く落とした。「なら、俺は“声欄”の『誤植拾い』を引き受ける。恥を太字にする前に、拾える誤植は拾いたい」
「良い青です」
私は“青の章”を差し出した。波の凹凸、白点三つ。彼の指が触れて、少し震え、止まる。止まった指は、だいたいもう味方だ。
◇
夕刻近く、倉二の乾き具合の“図”を見に行く。石壁に貼った薄い紙が、湿りを吸うと色が濃くなる“湿度札”。子どもの背でも読めるよう、色ではなく模様で表示――縞が濃いほど湿り。
――縞が薄い 乾きが増す
――縞が濃い 待ての合図
「“待て”は灰、“急げ”は白」私は黒板に足す。
ローレンスが湿度札の端をめくり、舞台の経験から「札の隙間に風を」と提案する。工匠の娘が小さな木片で嵩をつけ、風が一枚通った。鈍い知恵は、長く効く。
そこへ、黒帽――ルカが“埃のない笑い”で現れた。
「章の色、見事。……ただ、声欄で“利害”が動く。『匿名で店の悪評を流してから、自分の店に誘導』の手口。王都では昔からある」
「“誘導”は図で折れます」
私は声欄の枠に“案内図の標準”を足した。
〈案内図=認証制(青)/“誘導矢印”は枠外/“比較表”は灰が作る〉
「比較表は“灰”。価格・品質・距離。“悪口”は白でも青でもないので載りません」
ルカは肩をすくめ、今日の敗北を軽く認めた。「退屈の壁、また一枚。……だが、壁は登る者も育てる」
「壁登りは“祭の箱”でやってください。道具と縄、青から出します」
「金は?」
「旗で応援します」
彼は笑い、去った。金の舌は今日、群衆の中でよく混ざる。混ざって薄まるのは、毒気だ。
◇
日が傾く。章歌の舞台――今日は色の歌。
――章の色には意味がある
――白は掌で命を抱く
――灰は手袋 道を運ぶ
――青は波打ち祭を導く
――金は旗でも中身は図
子どもが手袋章の凹凸を触ってまわり、老人が白章の十字にそっと触れる。触れると、みんな少しだけ真顔になる。真顔は街の正装だ。
そこへ、灰の封蝋。遠見塔の合図を追うように、監査院の使いが駆け込んだ。
〈山:二週目末・銀74→76。“石票停止”への抵抗一件――“桶屋組”の若頭が“章の色”を自分色に変更。……『商いの章』と称す。〉
私は短く息を吸い、吐いた。「――章は“公”。“私章”は紛らわしい。……山へ“章の巡回”を」
セドリックが頷く。「盾は――道と歌」
「お願いします。『章は目で、指で、鈴で読む』を持っていって」
私は黒板に“章巡回票”を立てた。
〈巡回:山・桶屋組〉
――“公章”の標準の図を貼る。
――“私章”は青の許で祭具へ転用(紐・旗子)。
――“転換歌”を渡す。
――【科料】は個人、【恥】は短く。
――勝ち負けではなく紛れを止める
――章は公の靴の跡
「声欄に“山の声”も載せますか」若い記者が問う。
「載せます。『山の欄』の隣。――紙で山道を延ばす」
◇
片付けにかかる前、王太子が柱の下に立った。白外套の肩に薄い粉――乾いた灰。
「“声欄”は、人を疲れさせるかと思った。……逆だ。疲れの“行き場”になっている」
「行き場があると、人は立ち止まれます」
「――“やり直し”の席の話を、今夜じゃないにせよ、紙に一度だけ書いておきたい。君の“退屈の定義”ごと」
私は頷いた。黒板の隅に、短い四行を置く。
――退屈は、派手でない強さ
――退屈は、鈍器と椅子と太字
――退屈は、明日の歌の余白
――退屈は、やり直しの席
王太子は静かに読み、静かに去った。椅子の背が夕陽で長く伸びる。椅子の影は、約束の影でもある。
◇
夜。“声欄”の投函箱をいったん閉め、植字工の古株と若い記者とで“採録会議”。紙の束は高くない。高くないのが正常だ。高いのは、火急の時だけ。
「これ、載せたい」
若い記者が一枚を差し出す。“章の色が泥でわからない”という子の声に、泥の指が描いた“線の上に線”――白線の上にもう一本、細い朱。
「採録。“朱の縁取り”は夜目に効く。――ただし朱は“白の印”。『白の許可』の注記を添える」
古株が頷き、活字を拾いはじめる。拾う速度が早いのは、誇りだ。誇りは青で配れる。
投函箱の底に、薄い紙片が一枚。細い三角の印。――“水殺し”の仲間の残り火か。
私は紙片を光にかざし、裏を見せて“声欄・採録外”の束へ滑らせた。
「三角は“声”ではなく“合図”。――合図は鈴で受ける」
セドリックが鈴を指で鳴らし、私の横に立つ。「護衛対象。今日は“剣の休暇届”を出しておく」
「承認します。事務印は私。……個人印はあなた」
彼は笑い、拇印を軽く押す。朱は花のように渦を描き、紙の隅で乾く。乾いた朱は、次の退屈を迎え入れる準備だ。
ざまぁは、声の上に石を置くことではない。声を紙に載せ、紙に太字の訂正を付け、章の色で夜を識別させることだ。色が混ざらなければ、人は迷いにくい。迷いが減れば、やり直しの席に座りやすい。座れば、剣は眠り、鈴は鳴る。
遠見塔の小鈴が、二度、ゆっくり。明日の声欄は、今日より少しだけ“図が多い”。図が多い日は、火が寄りつきにくい。
――第20話「章巡回・山へ/“恥の運用”」へ続く。