(第18話)水勘定と人勘定
朝の黒板の一段目は“水”。“杖欄”の二号目は、昨日より少しだけ字が太い。太いのは自信ではなく、植字工の指が力を覚えた証拠だ。
〈水の数・日次(第2号)〉
――井戸稼働:44/停止:0/要整備:2
――配水中断:0(本復旧完了:北通り1)
――漏水通報:3(仮止め2/原因調査中1)
――夜間見回り:塔番6便/工匠5便(歌あり)
数字は“退屈の筋肉”に油を差す。さぁ歩け、と言っている。
「今日は“水勘定”をやります」
私は黒板の右に新しい欄を立てた。〈水勘定=配る手順の勘定〉。
「ついでに“人勘定”も。――人にかかる手間の勘定です」
セドリックが半歩後ろで、盾の角度を午前仕様に微調整した。午前仕様は視界を広く、刃は眠らせ、鈴は表。盾の気分転換は、私よりささやかで役に立つ。
◇
最初の相談者は洗濯場の女衆だった。籠と棒と石鹸の匂い。先頭の年長女が腰に手を当て、遠慮のない声で言う。
「井戸が増えて助かるよ。けど“桶賃”が消えたから、若い衆の仕事が細る。昨日は“清掃班”に二人入ったが、まだ三人余ってる」
「“人勘定”の出番です」
私は布に二本の列を描いた。
〈前〉桶運び/待ち時間/行水の助っ人
〈後〉蓋清掃/溝さらい/漏水探し
「“前”を“後”に移す。日当は灰の箱から今だけ上乗せ。三ヶ月の“転換手当”。――歌で配ります」
――桶は肩から手へ移る
――手は溝へ 歌は蓋へ
――三つ月過ぎりゃ肩も歌う
年長女が口の端で笑い、「肩も歌う、がいいね」と言った。肩が歌えば、国家は伸びる。
そこへ、工匠の若頭が走り込む。「令嬢、北通り“本復旧”で数字の揉め事です。――“水勘定”の方」
◇
北通りの角。石畳の下で音が乾きはじめた配水管に、三軒の店から視線が刺さっている。乾きは良いが、刺さる視線はだいたい悪い。
「“基本水量”に“店割増”を足すのはわかる。だが隣の薬屋は“白の仕事”だから免除だって?」
吠えたのは酒場の主人。声は大きく、手も大きい。大きな手は、合意に向けて大きく振れるときがある。
薬屋の女主人は目を細くし、「命に関わる水は“白”だろう」と低く返す。
間に挟まれた小間物屋の爺さんは、両方に愛想笑いをしながら、足で逃げ道を探している。逃げ道は見つからないのが正常だ。
「“箱勘定”で解きます」
私は黒板代わりの板を立て、四角を三つ描いた。白・灰・青。
「“水”は“灰”。店の割増は“灰”。――ただし“白の目的に使う水”の一部は“白”に振り替え可能。『聖女の施療』『薬の仕込み』『火事の消火』。申請は図、承認は“個人印+灰”。」
さらに、板の右に“人勘定”の欄。
〈割増の使い道:漏水探しの賃・蓋補強の鋲・夜間見回り灯〉
「“店割増”は“青”には流れません。看板の提灯や祭の振る舞い酒は、別の箱。――混ぜない」
酒場主人の肩が少し落ち、「混ぜない」を口の中で転がす。「……提灯は青。灯油は灰。酒は青。水は灰。火事は白。――覚えた」
薬屋の女主人が短く頷く。「申請は図で。歌は短く」
私は節を足した。
――白は掌で命を守る
――灰は足袋で道を守る
――青は幕で顔を守る
――金は旗で約束守る
小間物屋の爺さんがぽんと手を打った。「覚えた。……しかし令嬢、“基本水量”は“家の人数”かい? “井戸端の噂”の回数じゃねえだろうね」
「噂回数制は廃案です」
私は笑いを小さく置いてから、板に二行書いた。
〈基本水量=世帯人数×基準/店は“用途”を加味〉
〈“用途”の嘘は“歌”が嫌う〉
「用途に嘘があれば、“夜回り歌”に乗ります。だいたい、嘘の蛇口は歌う前に錆びます」
酒場主人が渋面のまま頷き、薬屋の女主人が淡々と申請図を描き始め、小間物屋の爺さんが通りの子に菓子を配って“窓口”に並ばせる。窓口に子どもがいると、大人は嘘を小さくする。小さくなった嘘は風で飛ぶ。
「護衛対象」
セドリックが低く囁く。「屋根の上に“新手”ひとり。合図旗なし。視線は蛇口より“板”」
「板の字が嫌いな人は、歌も嫌いです。――嫌いなものは大切に」
屋根の影がするりと消え、路地へ沈む。盾は動かない。動かない盾は、歌より強いときがある。
◇
昼前、黒帽――投資家ルカが角から現れた。今日は帽子のつばがわずかに下がり、笑いが半音低い。
「“水勘定”、見事だ。だが“人勘定”が難所だ。――裏通りの“担ぎ屋組”が、まだ“清掃班”に片足しか入れていない。『肩の名誉が消える』と」
「“名誉”は青。仕事は灰」
私は短く返し、板に“肩章の図”を描いた。肩章の横に“手袋の章”。
「“名誉の付け替え”をします。肩章を“清掃班の手袋章”へ。――週一で“章の歌”を広場で」
――肩は歌った 今度は手
――手が歌えば道が笑う
――道が笑えば肩も笑う
ルカは肩をすくめ、「章で人が動くなら私の商売は半分いらない」と呟いた。「……半分しか、ね」
「半分いらない商売は、残り半分がきっと健やかです」
「やれやれ。退屈は人を賢くして、商売を痩せさせる」
「賢い国は長持ちします。長持ちする市場は、太り過ぎません」
彼は笑って、何か言いかけてやめた。猫が舌をしまう瞬間に似ている。金の舌は、今日は湿度が低い。
◇
昼の鐘。王都新聞の“杖欄”二号が刷り上がって広場に戻ってくる。
〈9月某日 王都広場 杖欄第2号 井戸44・停止0 漏水3〉
植字工の指はもう震えない。若い記者は見出しの“未定なし”に満足の頷きを一つ置き、配り始める。
配布の列の端に、法規課の若造。戒告札はまだ胸にあるが、目が昨日より乾いている。紙の仕事をした目だ。
「“本則”第1稿、課内の扇――いえ、先輩から“退屈だが読める”の判子をもらいました。……“やり直しの席”の規定も、付けておきました」
「席の規定?」
「“やり直しは掲示柱の下で/人数上限は椅子の数/言葉は耳の高さ/紙は日付入り”。」
私は笑った。「完璧です。――退屈の美学」
◇
午後は“漏水通報”の現場へ。北区の細い路地。足元の石が、音でかすかに柔らかい。柔らかい石は、水が通っている。
蓋を開けると、鉛の古継ぎが汗をかき、そこへ“細い三角”の印がチラと覗いた。新手だ。
「符牒は“水殺し”の亜種」ローレンスが顎で指す。「継ぎ目に“薄紙”. 濡れると縮んで隙間をつくる。――夜中に撒けば、朝の見出しが“渇き”になる」
「“水勘定”に“鈴”を足します」
私は合図し、塔番の少女が小さな器を取り出す。薄い鈴粉――水に溶くと鳴る粉。
――水は鈴でも鳴るものだ
――鳴ったらそこが漏れている
粉水を継ぎ目に垂らすと、かすかにチン、と鳴った。音は細いが確かだ。
「――記者さん、“杖欄”に“鈴粉の図”を」
若い記者が頷き、植字工が「版は午後には」と即答する。
セドリックが路地の奥へ視線を滑らせる。「護衛対象。“三角”の書き手は近い。あの角の影。足音が“軽すぎる”」
影が走る。盾が二歩で塞ぐ。走りは歌に勝てるが、盾には勝てない。
捕まえたのは、顔に若さ、指に紙痕。――昨日の植字工の先輩。“紙を守る会”の古株だ。
「紙を守るには、街を少しだけ黙らせる必要がある」
彼は言い切った。「“鈴の街”は紙を殺す」
私は首を振る。「紙は鈴と喧嘩しない。喧嘩するのは“嘘”。――あなたの紙は“杖欄”と隣に並べませんか。『声の集約・週報』。紙で“人勘定”を」
若い記者が横に出た。「“杖欄”の隣に“声欄”。匿名可。ただし日付と地域を入れる。……植字は、あなたの腕で」
古株の目が揺れ、やがて落ち着いた。「“声欄”。俺の紙は、風じゃなく手で読まれたいと思っていた。……条件が一つ。『訂正』の欄を大きく」
「大きく。太く。角を立てずに」
私は手を差し出した。紙と鈴は握手できる。できないのは、虚勢だ。
◇
夕刻、広場に戻る。黒板の“水勘定”の下に“人勘定”を書き加える。
〈人の数〉
――清掃班:今日+3(桶屋出身)/累計+17
――夜回り歌の隊:+2(子)
――“章”の付け替え:肩章→手袋章 7名
〈手当〉
――転換手当(灰):本日11/残27
――章歌の舞台(青):週1回・杖賞と同日
「章歌の舞台は夕刻がよい」年長女が提案する。「昼は洗濯、夜は眠り。夕刻なら、みんなの肩が空く」
「夕刻、決定。章歌は短く」
――肩は歌った 今度は手
――手が歌えば道が笑う
――章は布でも心に縫う
王太子が柱の下に立った。白外套は薄く灰色、顔には今日の数字の影。
「――“鈴粉”、良い。塔番に常備させよう。……“声欄”は、王宮でも読めるか」
「読めます。匿名でも、日付と地域は入ります。――紙で“人勘定”を」
「人の勘定を紙に乗せるのは、王家にとっても苦いが必要だ」
彼は少しだけ笑う。「退屈の薬だ」
ローレンスが扇を腰で叩き、「舞台の“声出し板”を街へ移植する」と言った。「書いて、貼って、訂正する。舞台は照明、街は日付」
◇
“杖欄”の夕刊が出来た。表に水と井戸、裏に“控えの控え”。今日はさらに細長い一枚が挟まっている。
〈声欄・創刊準備号〉
――“井戸の鎖を子が回せない”(南区・女)
――“夜回り歌の節が少し高い”(北区・男)
――“章の布の色が泥でわからぬ”(工匠街・子)
――“訂正”――“章の布、灰に白線追加。夜回り歌、半音下げの版を併記。鎖に簡易柄の導入検討(灰)”
植字工の古株が、紙束の端を指で整えながら、目だけで私に礼をした。紙は礼の仕方を知っている。鈴もそうだ。
◇
片付け前、遠見塔の合図旗。〈山・三報――“銀71→74”。“鍛冶屋連合”、価格掲示の誤りを太字訂正。『夜間手当の勘定を灰へ』〉。
私は黒板の“山欄”に訂正を写し、歌を一行足した。
――速い鉄には火が入る/遅い帳には手が入る
セドリックが盾を立て、声を落とす。「護衛対象。今日の“薄い危険”は消えた。明日は“厚い退屈”が来る」
「厚い退屈は、鈍器の稽古日です」
「鈍器は……算盤と、歌」
「それと、椅子」
彼は喉の奥で笑い、視線を黒板の“やり直しの席”に滑らせた。椅子の数は変わらない。増やすのは簡単だが、今日は増やさない。席は約束の形だからだ。
王太子が近づき、小さな声で言った。「“やり直し”の話を始めたい。だが、今ではない。……入札の最後の札が入ってから」
「札は“声欄”にも入ります。――退屈に、ゆっくり」
彼はうなずき、目を閉じ、すぐまた開いた。人は退屈の息継ぎを覚えると、政治の筋肉がつく。筋肉は派手ではないが、国を運ぶ。
◇
夜。章歌の初舞台。手袋章を受けた七人は、背を丸めずに立ち、短い歌を二度繰り返した。拍手は大きくない。だが、終わった後の沈黙が良い。沈黙が柔らかいのは、街が納得している証だ。
私は棒の鈴をひとつ鳴らし、日次公開の紙を貼り替え、算盤に布をかけた。
「護衛対象」
セドリックが低く言う。「今日の剣は、鈍器の影になった」
「影でいいです。影があるから、鈍器は誤解されにくい」
「誤解されにくい鈍器は……危険だ」
「だから、歌を付けます」
笑いは短い。短い笑いは、長い退屈の燃料だ。
ざまぁは、誰かの水を止めることではない。水を勘定に戻し、人を勘定に加えることだ。勘定に戻れば、怒りは歩幅になる。歩幅が揃えば、街は歩く。歩く街は、火に強く、紙と仲が良い。
遠見塔の小鈴が、夜を一度だけ撫でた。
――第19話「“声欄”創刊/章の色」へ続く。