(第15話)灰の算盤と金の舌
朝の空気は指に冷たく、紙に軽い。広場の黒板には“日次公開・第2日”の欄が空白で待っている。北門の仮倉は灰色の息をまだ少し吐いているが、燃える意志は失せた。燃やす側の意志も、昨夜の拘束で折れている。折れた意志は、紙の上でだけよく喋る。
私は黒板の前で算盤を置いた。桁は多くない。多いのは視線の数だ。工匠、修道女、塔番、記者、王宮の法規課の若造――戒告札を胸に下げ、今日は筆だけを持っている。そしてローレンス。扇は腰、手は空、目は働いている。
「始めます。“灰の算盤”――復興物資と労務の勘定。白・灰・青・金、四つの箱の“足の速さ”を合わせる」
私は板の左に四本の線を引き、“速・中・遅・鈍”と書いた。
「白(医療)は速。灰(労務・資材)は中。青(祭)は遅。金(基金)は“鈍”でなければならない。――鈍は悪口ではなく、約束です」
笑いが板の前で小さくうねった。セドリックが半歩うしろ、盾の縁が私の視界の隅で静かに光る。
「項目、一。――“火後”の補修。灰から板材百、釘二千、手袋二十、臨時ポンプ一。白から薬草十、包帯五十。青はゼロ。金は“認証のみ”」
算盤の珠を弾く音は、鐘より低く、歌より退屈で、だから強い。
――カチ。
「合計、銀貨三百四十。内訳は掲示。“必要に応じて票”の二日目、延長認証――あり」
灰の審理官が「あり」と短く復唱する。短い“あり”は長い同意だ。
「項目、二。――“仮倉結びの標準”を常設へ。祭典局・工匠連合・修道院・塔番が連名で署名。『舞台結びを町結びに』。――歌は短く」
――舞台は早結び 町は遅結び
――火は早いが嘘も早い
――遅い結びで命が残る
子どもが先に覚え、大人が遅れて笑う。遅れる笑いは、いい。
そこへ、金の舌が来た。旅装に上質の襟、声は蜂蜜、足取りは猫。辺境で会った“投資家”ルカだ。彼は人垣を押し分けもせず、隙間を“理解して”すり抜け、板の手前できれいに止まる。
「見事な算盤だ、令嬢」
彼は軽く頭を下げ、舌を湿らせる。「が、鈍い金は死ぬ。資本は呼吸だ。止めれば腐る。――“金箱”に少し、風を」
王太子の視線がわずかに動く。私は算盤を置き、黒板の右に小さな欄を新設した。
〈公開討論:金の箱と灰の算盤〉
――発言は一人三節まで。
――例えは二回まで(甘い言葉の制限)。
――数を一つ以上入れる。
――嘘は鐘。
「良い」ルカは指を一本立て、笑った。「第一節。“金箱”の運用――“柔軟”を。未使用分の三割を“機会投資”に回す。たとえば北門外の空き倉に“倉庫金融”。物資を担保に短期の資金を回し、災害の前に備蓄する。回転率は月二分。生き金だ」
彼は“生き金”と言うとき、喉の奥で金属を鳴らす。聞き慣れた音だ。聞き心地もいい。だが、算盤は鳴らない。
私は一呼吸だけ置く。「第一節、こちら。“金箱”は旗。旗には風、倉には泥。――三割の“機会投資”は、青に近い。幕の仕事。金は“鈍い”。鈍い金は、火に強い。数字は――“日次公開”と“基準表”。“月二分”は、火の速度の半分にもならない」
ざわめき。ルカは顎を少し上げ、第二の節を滑らせる。「第二節。“必要に応じて”の定義は認める。だが“起動の窓口”を増やすべきだ。王宮だけでなく“準備会”(改組後)や“商人同盟”にもソケットを。七十二時間のうち二十四を、現場の判断に任せる。数――“窓口二→四”」
「第二節、こちら。窓口は多いと音が濁る。――鍵の歌を思い出してください」
私は棒の鈴を一度鳴らし、子どもたちが反射的に一節歌う。
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
「鍵孔を増やすのは合鍵の文化を増やすのと同じ。窓口は二のまま――“監査院+運用”。ただし“現場報告線”を太くする。報告者名は歌になる。名は風に弱い。だから抑止になる」
ローレンスが小さく頷く。扇は閉じたまま、目が笑った。
ルカは舌に金粉をまぶしたような笑みを貼り、最後の節を出す。「第三節。倉の火は“見出し”になる。ならば――“見出し基金”を。事実に追随して紙を買う。正しい見出しを大きく、誤った見出しを太字で訂正。資金は“金箱”から三分。数――“紙面百枚/日”。市民の耳目を守る投資だ」
記者が息を呑み、法規課の若造が半歩引く。私は算盤の珠を一つ、わざとゆっくり弾いた。
「第三節、こちら。“耳目を守る”のは紙ではなく“杖”。紙を買う金は青――祭。金は旗。灰は地面。白は掌。――紙の自由は“金”より“日付と数”で守られる。だから“見出しの杖”を常設。資金はゼロ、歌は一」
――日付 主体 動作 数
――未定は未定と書く
王都新聞の若い記者が胸を張り、ペンの先を空に向けた。「資金ゼロで胸が強くなる方を、私は選ぶ」
拍手が短く響き、止む。短さは内容の重さだ。ルカは肩をすくめた。
「負けた。ただし、算盤は“利”しか弾かない。人の“欲”は弾かない。欲は、国の燃料だ」
「はい。だから“箱”を分けました」
私は黒板の四色を指でなぞる。「“欲”は青で磨けばいい。“利”は灰で回す。“痛み”は白で支える。“名”は金で立てかける。混ぜない限り、燃えにくい」
ルカは掌を上に向け、「退屈だ」と笑った。「退屈に負けた。……面白くないが、たぶん強い」
「退屈は筋トレですから」
◇
討論の後、算盤に戻る。北門“火後”の二日目。拾得物の整理、科料の納付、仮倉の撤去と再配置。
「“鐘殺し”の符牒――押収三十六。没収金、銀貨七十二。――“準備会残”の解体費は“金”ではなく“灰”から。理由:労務」
算盤の珠が進むたび、王太子の側近が右で同じ数字を紙に写し、左でローレンスが図に直す。図の矢印は、子どもの目に入る速度で伸びる。
セドリックは視線で広場を三分割し、扇形に巡回する。巡回は歌の裏打ちで、歌は巡回のおまけだ。盾は今日も剣を眠らせ、鈴を小さく鳴らす。
「仮倉再配置、位置は二箇所。――“水路近接・石造壁”の条件を満たす所へ。工匠、地図」
工匠の娘が走り、地図を広げる。私が朱で二箇所に丸を付け、王太子が「仮令」を短く読む。
「“鈍い金”の規約、仮令:〈中身は白・灰・青の図で常時公表〉〈位置は石壁〉〈結びは町結び〉。――三日後、本則へ」
法規課の若造が「本則」を口にした瞬間、胸の戒告札がわずかに揺れた。揺れは重しの証。彼は重しを飲み込み、「案文の草稿を今夜までに」と真面目に言った。
◇
午後、王宮から“聖務口”の使いが来た。聖女リリアの丁寧な字――“青からの謝礼を受けない旨、確認。白の規定のみ”。
「“白は掌”」彼女の追伸は短い。「“掌は強い”」
私は掲示の片隅に小さく貼った。短い文章は祈りに似る。祈りは規約に似る。似ているものは、近くに置くと喧嘩をしない。
そのとき、鐘でない音。銅の軽さ。商人同盟の使いが、赤い箱を運んでくる。箱の表に金の字――〈賞〉。
「“見出しの杖”に“賞金”を」使いが頭を下げる。「正しい見出しに銀貨五。週に一つ」
ルカが口の端で笑った。金の舌は、金の匂いに強い。私は箱の蓋を閉じ、鍵をかけ、黒板に書く。
〈“杖賞”――資金は青から。審査は公開。週一、歌で発表〉
「金ではなく、青。――祭です。踊ってよい」
記者たちがわっと笑い、若い記者が即席で手を上げた。「最初の“杖賞”候補――〈9月某日 王都広場 “鍵は鳴ってはじめて鍵”〉」
「いい見出しです。……ただし、日付を入れてください」
「入ってます!」
◇
夕刻、監査院から二報。〈T7周辺の工房、没収台三。供述““静かな鍵”の言葉は“準備会残”から〉。〈辺境鉱山――“石票停止”の移行、第一週報。購買部の価格掲示、図で実施〉。
私は黒板の隅に、山の歌をもう一度、小さく書いた。
――月の頭に銀ひとかけ/半ばに銀ふたかけ/三つ目過ぎたら石は止む
ダンの照れ笑いが遠くで見える気がした。紙は距離を縮める。距離が縮むと、金の舌より灰の算盤が効く。
◇
片付け前、王太子が柱の下に来た。今日も地面、耳の高さ。
「――やり直しの“席”はここだったな」
「はい。終わりの鐘は、まだ遠いですが」
彼は少し笑い、すぐ真面目に戻った。「“鈍い金”――受け入れる。君の退屈を、国の骨にしたい」
「骨は、面倒を支えるためにあります」
「面倒の話は……個々人のことにも及ぶか」
「ええ。ですが、私情は最後に。――入札の季節が終わるまで」
王太子はうなずき、今度は本当に笑った。人の笑いは、退屈の味を甘くする。
◇
夜。私は算盤を布で包み、棒の鈴をひとつ鳴らした。セドリックが隣で外套の紐を緩め、肩を落とす。
「護衛対象。今日は数字で殴った」
「鈍器です。あなたが教えてくれた」
「当てすぎるな。鈍器は骨も折る」
「折ったのは“金の舌”の歯だけです」
彼は喉の奥で笑い、小さく真面目に戻る。「……“やり直し”の席。あなたが座るとき、私はどこにいる」
「背中と、鐘の間」
「了解」
夜風が紙を撫で、紙が小さく鳴る。紙は歌の薄い親戚だ。歌は鐘の従弟だ。従弟たちは仲が良い。
ざまぁは、金の舌を切ることではない。舌が歌う方向を、算盤でずらすことだ。ずれた歌は、足を生む。足が生まれれば、国は歩く。歩けば、鍵は鳴る。
遠見塔の鈴がひとつ、乾いて、短く。
明日の黒板には“第3日”。退屈の筋肉に、もう一つだけ節を追加する。数字は花ではない。だが、朱の小さな花は、算盤の上で咲く。