(第14話)金の箱に火
火は、旗より先に歌を奪う。北門外の仮倉――“新・金箱”の倉小屋は、乾いた松板を積んだだけの四角い影だった。そこに夜風が走り、火が舌で角を舐め、瞬く間に斜め上へあがった。遠見塔の合図旗が赤に振れ、鐘が三度、石の街路に鋭く刺さる。
私は審理板の上に“必要に応じて運用票”を広げ、朱で追記した。
〈事由:火災(復興基金・仮倉)/開始:今/期間上限:七十二時間/公開:日次(絵+数)/承認:レオノーラ・ヴァイス/共同署名:監査院・灰〉
灰の審理官がすでに拇印を置いている。朱の渦は火ではない。止血の印だ。
「配置!」
セドリックの声は低いが、燃えに勝った。盾は先行、私は半歩後ろ。ローレンスは扇を捨て、肩で息をしながら走る。王太子は白外套を脱ぎ、濡らした布で口と鼻を覆った。王の顔は火に近いほど人に近づく。
「水路を“逆流”に!」
私は工匠連合の若い頭に叫ぶ。「灰の箱から“臨時ポンプ”を前倒し。転送陣は“緊急搬送”プロトコルへ――双署!」
遠見塔の少女が鍵の棒を掲げ、「前歌」を一節だけ、息も継がずに唱える。鈴が鳴る。承認板の灯が二つ同時に点き、緊急ルートが開いた。転送陣の舞台板が火の向こうに薄く光り、救水桶と布の束が次々に“飛ぶ”。飛ぶのは祈りではない。段取りだ。
「人の流れを“片側通行”に!」
私は白墨で地面に矢印を描き、子どもに旗を渡した。「“赤は行くな、青は行け!”」
子どもの声は高く、火に勝つ高さがある。群衆が割れ、荷車が押し戻され、担架が通る道が一本できる。一本あれば十分だ。一本を太くするのが、制度の仕事だ。
倉小屋の手前で、セドリックが腕を上げる。
「護衛対象、ここまで。これから先は“崩落帯”。盾が行く」
「行ってください。――私は“数字”へ行きます」
私はローレンスと王太子に目配せした。「箱の中身の“名簿”はどこ」
「ここだ」ローレンスが腰から巻紙を抜く。祭典局の倉目録――〈金の箱(新・基金)仮保管品〉。
“毛布・板材・薬草・釘・灯油・監査票用紙”。金貨はない。金の箱は金色の言葉であって、現物は灰色の物資だ。
「“金”を燃やすつもりなら、“人”を燃やす気は薄い」
私は息を絞り、目録の行に赤丸を打つ。「――“灯油”。まずここ」
工匠の若者が頷き、肩で樽を倒して距離を取る。倒れた樽の口は縛られていたが、縛りは浅い。誰かが“燃えやすいように”締めた。
「封の結び、祭典局の“舞台結び”だ」ローレンスの目が細い。「舞台では早く解けるように結ぶ。……街では易燃性だ」
「結びの流儀を“町用”に置き換えるべき時です」
私は〈仮倉結びの標準〉と紙に大書し、絵を添えた。――輪を二重、結び目を外側、押さえは濡らす。
「王太子殿下、これを“仮令”に」
王太子は短く頷き、灰の審理官と同時に朱を乗せた。「――仮令、三日」
火勢の喉が一段下がる。水路の逆流が効き始め、工匠が張った“水幕”が火の舌を鈍らせる。鈍くさせるのは勝利の前触れだ。派手な逆転は舞台のご馳走だが、街のご馳走は“鈍さ”である。
「搬出は“白→灰→青”の順番で!」
私は名簿の右に三色の丸を描いた。「白=医薬・毛布。灰=釘・板・手袋・ランプ。青=幕・旗・飾り。――順番で出せ!」
修道女が“白”の箱へ駆け、工匠が“灰”の板材を肩で運ぶ。祭典局の若い者が“青”の巻布を抱え、私を見て迷う。
「青は最後。濡らして、端へ」
「舞台が死にます!」
彼は反射的に叫んだ。ローレンスが肩を叩く。「今日は街が舞台だ。幕は濡れていてよい」
火の向こう、セドリックの影が低く動いた。梁が落ちる前に、二人を背で押し出し、肩で受け身を取って転がる。鎧の縁が火花を散らし、小鈴が一度だけ鳴った。盾は歩く鐘。鐘は盾の中で鳴ることもある。
「負傷三! 軽傷二!」塔番の声が走る。
「“白”から薬、灰から担架!」
私は“白・灰・青”の看板を地面に立て、矢印を描き足した。方向が一つ増えるたび、混乱は一つ減る。
壊れかけた裏戸から、黒外套の男が滑った。腕に細長い包み。火に背を向け、視線は人垣の隙間。
ローレンスが一足、私が半足、王太子が一歩――同時。男は遁走の線を計算し、計算より速くセドリックの影にぶつかった。
「止まれ」
彼の掌は剣より速い。男の手の包みから、金の縁取りの“寄付札束”がばらける。札の裏には青い印、そして“T7”。
「またお前か」
私は息を吐いた。「“鐘殺し”の次は“火寄せ”。――出所は?」
男は唇を噛み、灰青の粉を落とした。「……“準備会”。『火は早い見出しになる』」
王太子の顔が一瞬だけ動き、それから固まった。「準備会は解体したはずだが、末端が残っている。――監査院に直送」
灰の審理官が頷き、縄が締まる。火事の中で手順が効くのは、音楽の中で休符が効くのに似ている。
「“灯油路”遮断、完了!」
工匠が叫ぶ。「外周の火は落ちた! 内側は――梁が持たねえ!」
「内へ入るな!」私は即答した。「――“転送陣”で中身だけ抜く。鍵、前歌!」
遠見塔の少女が膝で転送陣の縁を押さえ、小鈴を鳴らす。
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
承認灯が三つ点る。赤い熱の向こう、陣面が淡くよじれ、板の束と工具箱と帳束が“こちら側”へ滑る。火は物を欲しがるが、歌は物を通す。
最後に“監査票用紙”の束が現れた。紙は火で死ぬが、紙が死ぬ前に記録は逃がせる。私は束を抱き、胸で圧した。「――来い」
火勢が一段落ち、残り火が梁を咀嚼しはじめる。王太子は遠巻きの群衆へ向き直り、声を張った。
「“必要に応じて”の発動――理由は火。七十二時間。公開は日次――本日第一報、今。――“白・灰・青”の支出はここだ」
私は黒板に数字を走らせる。
〈白:薬草・清浄水・包帯(控除不可)〉
〈灰:担架・手袋・水幕布・臨時ポンプ(前倒し)〉
〈青:例外なし(祭装飾は後日)〉
――合計:銀貨二百四十(灰から百八十、白から六十、青ゼロ)
「“青ゼロ”は見出しになりにくい」王都新聞の若い記者が息を切らしながら笑った。「でも、紙面に載せます。大きく」
「訂正の太字と同じ大きさで」
「もちろん」
火はついに倉小屋の半分を喰い尽くし、煙が上にだけ流れる“鈍い”段階に入った。鈍いは勝ちだ。ここからは“夜回りの歌”の仕事になる。
私は板に大書した。
〈仮倉“火後”の手順〉
――燃え残りに触るな(鐘)
――拾った札は“白へ”も“青へ”も入れるな(灰の机へ)
――“舞台結び”を“町結び”へ変える(図)
――“必要に応じて”の票に名を書く(歌)
――必要ならば名が要る/名のない必要はただの願い
――白は掌 灰は手袋 青は幕なら遠く置け
群衆が節を復唱し、子どもが棒の端で拍を取る。拍は足の代わりに街を運ぶ。
「被害の集計」
灰の審理官が帳を開く。「物資の損失“軽”。建屋“半壊”。人的“軽傷五”。――“金の箱”の中身、生存」
「“金”の漢字を“灰”に書き換えた方がいいかもしれません」
私が言うと、ローレンスが肩で笑った。「旗はそのまま“金”でいい。中身が灰なら、燃えにくい」
王太子が短く頷く。「“金箱”の規約に“中身は公表”を追加する。旗は金でよいが、物は灰と白と青で示す。……落ち着いたら、正式に」
「落ち着く前に、仮で出せます」
私は即席の“物資一覧図”を描き、張る。毛布三十、板材五十、釘千、薬草束二十。図で見える“金”。見出しより遅いが、火より強い。
そのとき、遠見塔から新しい合図旗。北門外の小道で“黒外套ふたり”が潜伏、鐘殺しの符牒を複数保持。
セドリックが視線だけで私に問う。
「――盾はどこへ」
「ふたりで」私は即答した。「私が“鐘”、あなたが“道”」
彼は頷き、盾を軽く傾けた。「剣は」
「要る可能性、低い。けれど“歌”だけでは届かないとき、あなたが要る」
私たちは小道へ向かった。燃え終えた倉の残光が背中に淡く揺れる。小道は狭く、石畳に煤の粉が細かく散っている。角をひとつ、ふたつ。黒外套が視界の端に滲む。
「“静かな鍵はよい鍵”」
片方が囁いた。合言葉であり、合図でもある。薄紙の符牒が指から覗く。
私は棒の鈴を鳴らし、足もとで小さく踏む。靴底の小鈴が答える。
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
黒外套の肩がわずかにこわばる。セドリックの盾が光を奪い、逃げ道の“幅”を細くした。幅が細くなれば、人は理屈に戻る。
「鐘殺しの符牒は没収、科料は“個人”。依頼主は“準備会”の残党?」
私が問うと、ひとりが歯を噛む。「……“法規課の若造”に教わった。“必要に応じて”で何でもできると」
「若造はもう杖を持った。――踊り子の相手は終わりです」
ローレンスが背後から追いつき、扇ではなく縄を差し出した。
「舞台の小道具は舞台に戻す。街では“鈴と杖”」
拘束。灰の審理官への引き渡し。流れは短く、紙は厚く。短い流れに厚い紙が要るのは、国の癖だ。
戻る道すがら、北門上で塔番の少女が手を振った。鍵の棒は濡れ布で包まれ、小鈴だけが外に出ている。
「鳴る?」
私は尋ねずに見る。彼女は小さく一度鳴らし、微笑んだ。鳴る鍵は、眠らない。
◇
夜半、広場。第一報の“日次公開”を黒板にすでに貼り出した。
〈“必要に応じて”第1日:支出(白:60/灰:180/青:0)、負傷(軽5)、物資救出(毛布・板材・釘・薬草・監査紙)、原因:意図的(符牒・灯油結び・札)〉
〈責任:個人(捕縛2、聴取中3)、組織(準備会残)。――翌日、追加公表〉
王太子が板の前で立ち止まり、「未定」の行を指でなぞる。「“原因の動機”は未定だな」
「はい。動機はだいたい、見出しの裏で腐ります。――明日、灰の板へ」
「諦めないのだな」
「退屈の筋肉は、焦げに強い」
ローレンスが扇を拾い上げ、布で煤を拭った。「舞台は明日も上がる。だが、台本に“鐘の欄”を入れる」
「入札は続けます」私は言った。「“鍵”は鳴り、歌は短く、鐘は必要なぶんだけ。――“金箱”は“灰箱・白箱・青箱”の見える束として」
セドリックが横で外套を直し、私の肩に一瞬だけ触れた。
「護衛対象。今日はよく生きた」
「延びました、です」
「延びた分、眠れ」
「眠ります。――“日次公開”を貼ってから」
貼り終えた紙が夜風にわずかに鳴る。紙は歌の薄い親戚だ。火は紙を食うが、紙が増えれば火は飽きる。
ざまぁは、燃えた旗を笑うことではない。燃えない方法を、“前夜”より前に置くことだ。前夜は過ぎたが、明晩がある。明晩も退屈でありますように、と私は心でだけ祈った。祈りは白へ、作業は灰へ、幕は青へ、旗は金へ。混ぜるな。混ぜれば、鈴。
遠見塔の小鈴が夜にひとつ、乾いて小さく鳴った。眠りの合図。盾も扇も、鈴の下でやっと息を揃える。
――第15話「灰の算盤と金の舌」へ続く。