(第12話)公開セリ:転送陣の鍵
朝の鐘が最初に一度だけ揺れ、広場の空気が背筋を伸ばした。掲示柱の前には、昨夜のうちに据えた黒い台。台の上に置かれているのは、二つの箱と一本の棒――“鍵”。
箱は“鍵箱”と“誓約箱”。鍵箱は透明な水晶窓付きで、中の金属鍵がよく見える。誓約箱は鉛の皮に灰の糸。棒は黒檀に銀の象嵌。「前歌」「後歌」の刻印。
私は台の前に立ち、深く息を整える。セドリックは半歩後ろ。盾の位置は、今日も正しく美しい。
「――本日の公開セリ“転送陣の鍵”。“鍵”とは物理鍵および稼働承認権限の束を指す。入札は密封一回。落札者は“前歌”“後歌”の唱和を義務付け。鍵孔に触れた際は、必ず鐘が鳴る」
私は黒檀の棒を掲げ、棒の中ほどの小鈴を鳴らす。乾いた高音が一つ。
「――前歌」
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
――回す前には一節を/回した後には一節を
合唱の輪に子どもの声が混じる。歌は子どもから始まり、制度は大人で完結する。順番が逆だと、だいたい嘘が勝つ。
「入札条件は三つ。“承認ログの日次公開”“停止の十分前掲示+三分おき告知”“緊急停止は双署(監査+運用)”。――違反は没収金+臨時審理」
王都新聞の若い記者が板の端でペンを走らせる。ローレンスは祭典局の列の先頭で扇を閉じたまま目を伏せる。王太子の使いは会釈だけ置いて離れた。本人はまだ来ない。来ない沈黙は、紙より薄い。
予鈴。封蝋が並ぶ。修道院連合、遠見塔連名、工匠連合、商人同盟、そして“金箱準備会”――新しい名だ。私は眉を動かさない。名は旗、旗は風、風は歌で向きを変える。
本鈴。外鍵を見せ、内鍵を回す。同時に、鍵箱の水晶窓の鈴も鳴る。触れば鳴る。鳴れば記録。
開札。私は一通ずつ封を割り、数字と条件を読み上げる。
「修道院連合、七百。日次公開、承認双署、可」
「工匠連合、七百二十。可」
「商人同盟、六百九十。可」
「遠見塔連名、七百五十。可」
「――“金箱準備会”、七百七十七。『必要に応じて公開』」
広場の空気がかすかにささくれる。“七”はここでも踊りたがる。私は封の裏を撫で、紙目の癖を確かめる。右上角の返り。彫りではない――“文案の癖”。文言の“必要に応じて”だけ墨が新しい。昨夜の加筆だ。
「“金箱準備会”の入札書式、規定外。“公開は日次”が条件。“必要に応じて”は不可」
私は淡々と述べ、審理板を指す。灰の審理官が一度頷いた。
「失格とする」
「異議あり!」列の中ほどから声。黒の短外套、巻紙。王宮事務局・法規課の若い官吏だ。
「“必要に応じて”は柔軟性の担保。硬直した公開は、現場に混乱を生む」
「柔軟性は“基準表”で担保します。――『何を、いつ、どの程度』。柔らかさを言葉で書くと、だいたい水になります。水は箱に入れないと街を壊す」
笑いが一筋だけ走り、すぐ静まった。私は最後の一通を割り、深く息をして宣言する。
「――落札、遠見塔連名。鍵の運用権と承認権限束、移譲」
拍手は小さく硬い。塔番の少女が壇に上がり、黒檀の棒を両手で受け取る。石灰の粉が袖に白く残っている。
「“前歌”“後歌”、覚えていますね」
彼女は大きく頷き、緊張で喉を鳴らした後、澄んだ声で唱えた。
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
小鈴が答える。鍵箱の窓に明かりが映り、群衆の目が少しだけ柔らかくなる。私は移譲契約の末尾に朱を押し、印の乾きを確かめた。
「――ここで臨時告知。祭典局第二課、昨夜の照会回答を受け、本日“山用木型”出庫について公開読み上げを行う」
ローレンスが一歩前へ。扇を腰に差したまま、巻紙を開く。
「『出庫承認:第二課ローレンス。目的:舞台装置修繕。搬出先:王都北・倉小屋。――木型は黒鹿毛台と同一刃』」
読み上げたのち、彼は扇を開かず、頭を下げた。
「言い訳は舞台の上でやる。街では訂正をする。――再発防止策、提出済み」
「受理。鐘を鳴らしません」私は短く言った。「――“金箱”に関しては?」
王太子の声が、そこで広場に落ちてきた。白い外套、薄金の房。今日は高台ではなく、地面に立っている。
「“金箱”の規約は、基準表採用と日次公開を追加する。『必要に応じて』は“戦災・疫病・災害復旧”に限る」
広場が低く息を吐く。吐息の温度は、合意の温度だ。私は礼をした。
「感謝します。――後は運用で嘘が出ます。出たら、鐘を鳴らします」
王太子はわずかに笑み、すぐ消した。「鐘が鳴っている間、国は眠らない。眠らない国は、疲れる」
「眠らせるのは、歌の仕事です」
彼は何か言いかけ、やめた。その一瞬の未遂に、正直の匂いがあった。
◇
“鍵”の移譲式は続く。塔番の少女が鍵孔の前で「前歌」を唱え、小鈴を鳴らし、承認板に指を添える。承認灯が一つ、二つ、順に点る。点灯の順序は図で掲示。読み書きが苦手でも、光は読める。
その時だ。鍵箱の水晶窓の隅で、ほとんど見逃すほど小さな影。金属片――“合鍵薄片”が、隙間に差し込まれかけていた。
私は声を上げない。上げずに、棒を一度だけ鳴らす。鈴が高く一打。セドリックの足が半歩滑り、盾の縁が水晶窓の前に、音もなく落ちる。
「臨時審理」
私は淡々と告げ、窓の隅を指した。「“合鍵薄片”の未遂」
灰の審理官が前へ出て、小さな鑷子で薄片を拾い上げた。刻まれた印は“T7”。彫り師の印。王都から山、山から王都、踊る“七”の通り道。
「持ち込んだ者は?」
群衆の中で、旅の外套の若い男が一歩引いた。引きは逃げの前兆。セドリックの掌が肩に置かれ、逃げが止まる。
私は男の袖口を見る。灰青の粉、微量。昨夜の山の粉だ。
「“投資家”の友人ですね」
「知らねえ!」男は顔をしかめ、目の中だけが泳いだ。「拾っただけだ!」
「“拾っただけ”は便利な言葉です。拾っただけの指は、鍵孔の角度を知らない」
灰の審理官が短く判定する。「未遂。没収金、拘束、出所照会。――鐘は二打」
鐘が二度、乾いた空に跳ねた。二打は“未遂の警告”。三打が“停止”。今日は二で足りる。
王太子の視線が斜めに落ち、ローレンスは扇を開かずに拳を握った。拳は武器ではなく、決心の形でもある。
「――続けましょう」私は明るさのない笑みをひとつ置いた。「“後歌”へ」
――回した後には一節を/静かな鍵は眠りにつく
――眠りは街のためにあり/合鍵は夢で折れてゆけ
笑いが少し生まれ、緊張が一枚はがれる。私は棒を置き、移譲契約の最後の朱を押した。
「“鍵”の公開セリ、完了。承認ログは日次、図と歌で掲示。――次の案件、“寄付箱の標準仕様・改訂”。」
◇
午後、広場は“書く人”で賑わった。塔番の運用ログ、修道女の治癒記録、工匠の修繕計画、そして王都新聞の“杖の紙”。
若い記者が駆け寄る。「“鍵の歌”、載せました。裏面に“見出しの杖”も」
「ありがとうございます。――今日は“訂正”は?」
「一件。“金箱”の『必要に応じて』限定。太字で」
太字の訂正は、紙の贖罪だ。贖罪は遅いほど効くが、今日は速いのも悪くない。
セドリックが耳を傾け、低く囁く。「北門、“T7”の彫り師の仲間が二人。ひとりは峠へ、ひとりは王宮へ」
「峠は塔に、宮は監査院に。――盾はどこへ」
「今日はここ。鍵の“後歌”の直後は、刃より鈴が効く」
私は頷き、“灰箱”の基準表を柱に重ね貼りした。白・青・灰・金――四つの箱の図が、夕陽に少しだけ透ける。
「“金”は旗、“灰”は地面。“白”は掌、“青”は幕。――混ぜたら、鈴」
「鈴屋がまた儲かる」セドリックが控えめに笑う。
「儲けるべき商売です。嘘を嫌う音を売る」
◇
夕刻。ローレンスが壇に立ち、短く言った。
「祭典局第二課は、“舞台の理屈で街をいじらない”を最初の条に入れる。――扇の柄は軽いが、柄は折れる。折れる前に降ろす」
私は礼を返す。「面倒な敵は、面倒な味方になりました」
王太子は一歩前に出て、人垣の高さに立った。
「――レオノーラ。やり直しは、入札の後に。約束しよう」
「承りました。――約束は、歌にします」
――やり直しなら手順から/口で戻せば過去が泣く
――朱で止血し灰で支え/鍵は鳴らして明日へ渡す
広場の空気が、やっと柔らかく座った。椅子が足場になり、歌が毛布になり、鐘が戸締まりをする。
片付けに入りかけたとき、監査院の使いが駆け込んだ。封蝋は灰。
「“T7”、供述。“金箱準備会”の一部が刻印台を手配。――窓口は王宮事務局・法規課の若官吏」
昼に異議を唱えた、あの顔。柔軟を言い、未定を好む、紙の匂い。
私は短く息を吸い、吐く。「――明朝、臨時審理。“必要に応じて”の実務定義と責任の所在。公開で」
セドリックが視線で周囲を払う。「盾は残る。剣は眠る」
「鈴は鳴る」
夜のはじめの鐘が鳴った。ゆっくり二度。今日は“停止”の三は要らない。
ざまぁは、鍵を取り上げることではない。鍵の“鳴る癖”を街に移植することだ。鳴る癖が増えれば、合鍵は恥ずかしくなる。恥ずかしさは、剣より速い抑止だ。
私は棒を箱へ収め、最後の紙釘を打った。紙釘の音は小さいが、物語の骨になる。
明日、“必要に応じて”の踊り子を、ゆっくり歩かせる。杖で、歌で、条文で。盾が横にある限り、剣は眠っていていい。
――第13話「『必要に応じて』の審理」へ続く。