(第11話)“白い帳簿”の夜
夜は、数字の影を長くする。王都へ戻る馬車の中、揺れに合わせて“白い帳簿”の角がかすかに鳴った。山で裏返した二冊は、表紙がまだ固い。固い本は、嘘よりも頑固だ。
セドリックは対面で外套を枕にして半眼を保ち、眠るでもなく起きるでもない騎士特有の“休止”。私は朱の印の乾きを指で確かめ、視線だけで思考の糸を巻き直した。
――“金箱”/扇の柄/T7の彫り師。
三つの点は、最低一回は線になる。線ができれば、切断点が要る。切断点を作るのは、歌と条文と“場”だ。
「王都へ入る前に」私は声を低く敷いた。「段取りを三つ。――一、号外の“踊る七”を逆手に取って、“七の罠”の公開解体。二、祭典局倉庫の“山用木型”の照会、入城と同時に。三、“鍵”の公開セリの手順を、鐘の回数まで固定」
セドリックは目を開けた。疲労の下で瞳が硬い。「鍵は、転送陣の?」
「ええ。物理の鍵と、制度の鍵。――物理は金属。制度は手順。どちらも“合鍵”が作られやすい」
「合鍵を無効化する方法は?」
「“鍵を鳴らす”。鍵孔に触れたら鐘が鳴る仕組み。……あとは、所有権の鎖に“歌”を通す」
「歌で所有権?」
「所有権は紙。紙は読めない人が多い。歌は、所有の“振り返り”を強制する。鍵を回す前に一節、回した後に一節。面倒だが、面倒は未来の時短」
彼は小さく頷いた。頷きは短い返事で、長い同意だ。
◇
王都へ着いたのは、夜更け前。広場は眠っているが、紙は起きている。掲示柱の脇に新しい小机を据え、私は黒板に白い粉で書いた。
〈“七”の公開解体〉
――同額入札“七の連打”は、視線の攪乱装置。
――汗のない数字は“撚り”が合わない。
――“踊る七”は“止まる四+三”に分解できる(共同落札の設計)。
「四と三?」見張り番の少年が首を傾げる。
「“四”は現場、“三”は後方。――前線が四割の資金で走り、後方が三割を担保で支える。残りは灰から安全備品。『七七七』のように見栄を張らなくても、回る」
私は板の下段に短い節を足した。
――七で踊れば目が泳ぎ/四と三なら足がつく/踊りは舞台でやるがよい/橋は数字で渡るがよい
粉を払うと、後ろで咳払い。ローレンスが扇を腰に差したまま立っていた。夜の扇は音を作らない。
「“山用木型”、倉の目録から出た。出荷票に自分の名があった。……扇の柄が、山に風を送っていたわけだ」
「承認板の件と同じ。“演出”が“運用”を侵した」
「謝罪は紙でやる。扇では足りない。祭典局第二課、明朝、公開で“再発防止策”を読み上げる。……それと」
ローレンスはわずかに目を伏せ、扇の骨を一本ずつ確かめた。「“金箱”の規約草案、私も見た。『必要に応じて』は、扇子の文句だ。舞台では便利だが、街では危ない」
「危ない言葉を、杖で置き換えるだけです。――明日、柱の下で“灰箱の基準”と並べて読み比べましょう」
彼は唇で笑い、「面倒な味方は、敵より難しい」と言い残して去った。面倒な味方は、だいたい良い味方だ。
◇
宿に戻る前、私は監査院に寄って照会票を三通出した。
〈一〉祭典局倉庫“山用木型”の出庫記録(目的・承認者・搬出先)。
〈二〉王宮事務局“金箱”規約案の改稿履歴(“必要に応じて”の挿入時刻)。
〈三〉T7彫り師の過去仕事台帳(黒鹿毛台と照合)。
灰の書記官が「明朝までに第一報」と短くうなずく。短い約束は、長い眠りを生む。
私は広場を一周して、椅子の列、箱の白と青、灰の図、歌の紙を点検した。点検は祈りに似て、祈りは点検に似る。鈍い儀式は、派手な正義より人を守る。
「護衛対象」
セドリックが横に並び、同じように椅子の背を一脚ずつ撫でた。「王太子の“親書その三”。――“明日、金箱の発表後、個別に会いたい”。場所は『王城西翼謁見室』のまま」
「では、返書。“掲示柱の下で”。――三度目の不一致は、記録に値します」
「怒らせるか」
「怒りは“費用”です。払える相手なら、時々は使ってもよい」
彼の肩がわずかに揺れた。笑いか、溜息か、あるいはその両方。
◇
宿の小部屋。“白い帳簿”を机に置き、私は墨の濃さを変えながら、ページの“余白”を見た。
余白は、物語でいちばん嘘が入り込みやすい場所だ。余白を“歌”で埋めるのは、下手な修繕だ。けれど、今夜は仮でいい。仮は正しい方向に弱い。
――“白い帳簿”は、誰のため?
坑夫の手か。鍛冶屋の秤か。修道女の壺か。遠見塔の踊り場か。
“誰のため”に答える歌は、甘い。甘い歌は、悪い俳優が好きだ。
私は甘さを薄めるために、四行だけ、乾いた節を書いた。
――白は手当 青は幕 灰は手袋と灯の油
――金は箱ではなく旗 旗は風でも砂は運ばぬ
書き終えて顔を上げると、セドリックが扉にもたれていた。鎧は外し、肩章だけ。
「眠れない?」
「眠るには、明日の“鍵”がうるさい」
「鍵は鳴らすと言った」
彼は近づき、机の端に触れた。「鳴る鍵は、盗みにくい。盗もうとする者が自分の耳を疑うから」
「耳を疑わせ、目に見せ、手に署名をさせる。――三つ揃うと、人はだいたい諦める」
「諦める、は剣が要らない言葉だ」
「ええ。諦めてもらいましょう。『合鍵の文化』に」
私は蝋燭を短くして灯を落とし、帳簿を閉じた。閉じる音は、小さな鐘の音に似た。
「セドリック殿。もし明日、“鍵”が争いを呼んだら」
「盾で塞ぐ。扇が風を作る前に」
「ありがとう。――あなたがいないと、私は“強がっているだけの女”になります」
「それでいい夜もあるが、明日ではない」
わかっている、と笑う代わりに、私は椅子の背を一つ撫でた。椅子は黙っていて、よく働く。
◇
夜半、監査院から使いが来た。封蝋は灰、緊急。
〈第一報〉
――“山用木型”の出庫承認者:祭典局第二課ローレンス(本人承認)。目的“舞台装置修繕”。搬出先“王都北・倉小屋”。
――“金箱”規約案の改稿履歴:“必要に応じて”の挿入は三日前、王宮事務局・法規課の加筆。指示メモに「裁可の柔軟性を担保」。
――T7彫り師の過去台帳:“黒鹿毛台”と一致。“山用”刻印は同一刃。
ローレンス……本人承認。扇の柄が自分の手にあった。柄が自分に返ってきた時、人は初めて重さを知る。
私は返書を走らせた。〈明朝、公開での読み上げを希望。祭典局の場も用意する〉。
さらに一通。〈王太子殿下へ。“金箱”の規約は、基準表採用と日次公開の追加を要望。『必要に応じて』の具体定義を――『戦災・疫病・災害復旧』の三件に限定すること〉。
最後に、短い手紙を一枚。宛先は王都新聞の若い記者。
〈“杖の紙”の裏面に、明日の“鍵の歌”を〉
――鍵は鳴ってはじめて鍵/静かな鍵は合鍵になる
――回す前には一節を/回した後には一節を
◇
夜明けの寸前は、街が一番静かだ。広場の紙が風で鳴らず、鐘が眠り、噂も寝返りを打たない。私はその静けさを、掌で撫でるように受け取った。
ざまぁは、勝ち名乗りではない。明日の“めんどくささ”を今日のうちに置く作業だ。面倒は重い。だが、重いものほど風に飛ばない。
東が灰色に滲み、最初の鐘の前の空気に、薄い金が混じった。金は箱の色ではない。朝の色だ。
私は立ち上がる。椅子の列、白と青の箱、灰の図、そして“鍵”。
今日は“公開セリ:転送陣の鍵”。踊る七は、踊るのをやめる。扇は風を読み、盾は位置を選び、歌は節を足す。条文は、短く。
――第12話「公開セリ:転送陣の鍵」へ続く。