(第1話)断罪式、開札します
「レオノーラ・ヴァイス、公の前で告げる。婚約を、破棄する」
王太子アルフォンスの声はよく通る。大広間の天井は高く、歓声は一度跳ねて、今度はざわめきの雨になって降ってきた。白い制服、金の紋章、赤い絨毯。見目は祝祭、実態は処刑場。学園の断罪式の演出はいつも凝っている。お金の使い方としては最低の部類だ。
私は裾を整え、深く一礼した。
「ありがとうございます、殿下。確認させてください――今のお言葉は、婚約契約第一条“確定意思表示”に該当しますね?」
大広間が、一拍遅れて静かになった。言葉は剣より遅い。けれど刺さる角度を選べば、骨まで届く。
「な、何を……」
「では、次に第二条。破棄の原因が“私の重大な背信”によるものでなければ、違約金は“王家負担”です。背信の立証責任は王家側。ご準備は?」
手元の机に革表紙の帳面を置く。表紙は使い込んで柔らかく、紙は冷たい。文書庫の匂いがする。私は舞台に立つ悪役、だからこそ段取りは美しく。
「嫉妬で“聖女”リリア様をいじめた――そう主張されましたね。証拠のご提出を」
王太子の指が震え、聖女が一歩出る。涙で濡れた睫毛、胸に下がる金の聖紋。学園演劇部の顧問が見たら喜びそうな“被害者の構図”。惜しいのは、事前の勉強だ。
「……わたくしの髪飾りを壊されました」
小箱の中、折れた留め具。私は受け取らず、監査院の印章を押した封筒を掲げる。
「学院魔道具局の調査記録。破断は“魔力過充填による自壊”。装着者の魔力量が規格外に増えた際に発生。外力痕なし。事故です。責は設計と監督に帰属」
ざわめきが走る。私は声を低く落とす。
「次に寄付金の件。殿下、リリア様の治癒活動に対する寄付金が学院資産から流用された疑い。会計台帳の写しと、魔力転送陣の使用ログ。寄付金は“聖堂慈善口”に入らず“王太子後援会口”に移っている。ご説明を」
アルフォンスの顔色が、塗りたての油絵みたいに変わった。
「これは恋の話ではありません。契約の話です。婚約破棄は承りました。ここからは条文に従い、違約金の算出に入ります」
ペン先が紙に触れる音――剣より冷たい音だ。
「なお、本件に付随して“断罪オークション”を開催します。違約金の支払い能力確保のため、王家側近派から没収される予定の動産・不動産・利権を、公開入札に付す。日時と品目は掲示します。談合は――」
「ふざけるな!」と誰かが叫ぶ。私は微笑む。ふざけていたのは、ここ数年の“断罪ごっこ”だ。
「談合は、私が一番嫌いな冗談です。落札は正しく、速やかに。国の血流が止まると、人も街も冷えますから」
その瞬間、護衛列から一人の騎士が半歩出た。黒髪、鋼の瞳。剣に手をかけず、胸に右拳を当てる。
「近衛第二隊、セドリック・グレイ。公開入札の間、令嬢の安全確保を申し出る」
「よろしくお願いします、セドリック殿。私、怒らせる相手が多いので」
笑いが、ようやく正しい場所に生まれる。私は帳面を閉じた。断罪は終わり。開札が始まる。
◇
式の後、控室は寒かった。寒色の大理石は見栄えのためで、断熱のことは考えられていない。豪奢とは、しばしば機能不全の別名だ。
扉を守っていたセドリックが、静かな声で言う。
「護衛の配置を増やした。廊下の角に二、庭に一。裏口は監査院の兵と交代制に」
「助かります。裏口は記者が狙いますから。今日の見出しは“悪役令嬢、王家に請求書”。良くて“強欲の公爵令嬢”」
「……世論は風です。盾で受ければ流せる」
「では、あなたが風除け。私は帳簿」
セドリックの口元が少しだけ緩む。騎士らしい笑い方だ。私は手袋を脱いで、指に押しつけた赤い跡を揉んだ。今日だけで、ひとつふたつ、嫌われる回数を数え間違えた気がする。
扉が叩かれ、低い声。「監査院長バルトです」
入ってきた灰色の男は、灰色の瞳で私と机を一瞥した。机の上には、オークションの出品予定表。水利権、辺境鉱山券、王都転送陣の訳あり管理権。利権は血流、止めれば壊疽、流し直せば治癒。
「派手にやったな、令嬢」
「派手は媒体の都合です。中身は地味な作業。条文を読み、数字を並べ、嘘を剥がす」
バルトは鼻で笑い、出品表の“水利権”の行を二度叩いた。
「最初の一手はここか」
「ええ。王都の上水は、人心より早く動きます。飲み水を止めてはならない。だから、まず“正しい持ち主”に戻す」
「正しい持ち主?」
「維持費を払い、事故時の責任を取り、料金表を公示できる者。つまり“仕組みを回せる者”。名門でも新興でも構いません」
「談合の匂いはする」
「します。だから会場に細工を。入札箱は二重。魔封の鍵は私と院長の二本。落札後は即時公開。不服申立ては受理、ただし保証金を積ませる」
「喧嘩を売る手順は完璧だ」
「喧嘩ではありません。手順です」
セドリックが小さく咳払いした。騎士は言葉に慎重だ。私は席を立ち、小窓の外の中庭を見た。夜風が黒い。祭の飾りつけだけが無用に揺れている。華やかな“正義”は、だいたい風に弱い。
◇
夜、学舎の中庭で臨時の記者会見。私は正面に立ち、掲示板に貼った“断罪オークション第一次出品目録”を指し示す。
「出品番号一、水利権。同二、王都下水路利権。同三、学院転送陣・運用管理権。以下、没収予定の鉱山券・特区商館の賃借権……」
森のような羽ペンが一斉に音を立てる。ひときわ甲高い声が上から飛んだ。貴族院広報――王家寄りの新聞だ。
「令嬢、これは政治の私物化では? ご自身が最終的な利得者になるのでは?」
「いい質問です。利得は“公開”します。私が関与した案件の利益配分は、四半期ごとに学園掲示板と王都広場で掲示。決算書を読める人は少ないので、図に直します。絵の方が、嘘を嫌いますから」
笑いが散った。別の記者が手を上げる。
「王太子殿下は“聖女の奇跡”を明日披露されるそうです。人気が戻れば、あなたは悪役に戻される」
「私は悪役の看板を下ろすつもりはありません。役は便利です。叩けば音が鳴る。なら、音程を選びます」
「音程?」
「国の基準音。税率、料金表、入札手続き。音が合えば、合唱は楽です」
わかりにくい比喩だったかもしれない。けれど、“聖女の奇跡”の華やかさに、こちらが勝つ方法はひとつ。面白く、冷酷に、仕組みで殴る。
会見が終わるころ、私はほとんど立って眠っていた。セドリックが肩を貸す。
「護衛対象が限界です」
「私はまだいけます。帳簿の続きが」
「帳簿は逃げません。刺客は走る」
「冗談を言う騎士は信用できます」
「冗談ではありません」
私は笑った。冗談ではない冗談は、一番好きだ。
◇
深夜、寄宿舎の自室。蝋燭を一本だけ灯し、机の上に三枚の“白い帳簿”――未記帳の補助簿を並べた。ここに、明日からの入札で流れ込む金と利権の移動を記す。白い紙は、いつだって怖い。間違いは黒く残る。
ペンを持つ手が、一瞬だけ止まる。鏡に映る自分に問う。
――復讐のため? 正しさのため? それとも、自由のため?
全部だ、と答える。どれか一つにしてしまうと、物語は薄くなる。私は薄い物語が嫌いだ。
窓の外、細い音がした。金属の擦過。私は蝋燭を指で摘み、火を消す。闇に目を慣らす間もなく、影がカーテンを裂いた。
「令嬢、悲鳴は上げないでいただこう」
鼻にかかった声。刃の匂い。典型的な“無能な刺客”の登場だ。セドリックの予言は、三時間で成就した。
私は机に左手をついた。右手は机の裏――薄い鉄板に隠しておいた“監査院支給の小型閃光石”。書類を守るための火気厳禁措置を逆手に取る。許可はバルト院長から取ってある。私は真面目だ。
「悲鳴は上げません。その代わり、目はつぶってくださいね」
閃光。影が呻く。私は手探りで扉へ走る。廊下の角に、約束通り二の護衛。合図を三つ。笛の音が夜を縫う。
「令嬢!」
セドリックが飛び込んできて、私の前に立つ。影が二つ、三つ。刃が光る。剣の音。私は壁に背中を預け、息の数を数える。七で、音が止んだ。
「無事です」
「ええ。ありがとうございます」
「刺客は三。二は気絶、一は逃走。追跡中」
「なら、起きている二に質問を。依頼主の名、決済口座の名義、手付金の受領方法。特に受領方法」
「今、命を助けた直後に尋問の段取りをするとは……」
「段取りが遅れると、証拠が消えます。殿方はよく、“明日”を信用しすぎる」
セドリックは短く笑い、肩で息をする刺客の腕を背で押さえつけた。私は膝をつき、刺客の指先の硬さ――剣ではない、ペンだ。指にインク。書類仕事の手。雇い主の“事務係”。脇役の匂い。
「あなた、普段はどこの机に座ってます?」
返事はない。口を閉ざす訓練は受けているらしい。私は耳元に囁く。
「明日、入札箱は二重です。内箱は魔封、外箱は鉛。どちらにも触れていませんか。触れていないなら、あなたは小物。触れているなら、あなたは証人。どちらが安全だと思います?」
数秒の沈黙ののち、囁き返し。「……北棟、三階、会計室」
「ありがとう。あなたは証人」
私が立ち上がると、セドリックが呆れたような、少し誇らしげな、複雑な顔をした。騎士の心は複式簿記で書くべきだと、このとき初めて思った。
◇
夜明け前。私は再び机に戻り、白い帳簿の一枚に最初の線を引く。“開札予定:第壱回”。右頁に“警備動線の再設計”。左頁に“小口保証金の係数”。数字は眠らない。私も、今夜は眠らない。
窓の外が青くなる。とても綺麗で、どうしようもなく冷たい色。王都の朝は、正義の色より先に、仕組みの色で始まる。そこに恋の色も、怒りの色も、後から追いつく。
私は帳面を閉じ、椅子の背に頭を預けた。まぶたの裏に、昨日の大広間が浮かぶ。断罪の宣告、違約金の条項、開札の宣言。悪役令嬢の芝居を、私はこれからもしばらく続ける。なぜって、芝居はときどき、現実よりずっと役に立つから。
扉が叩かれた。合図は二短一長。セドリックだ。
「朝です、令嬢。最初の出品は“水利権”。行きますか」
「ええ。開札の鐘は、遅刻が嫌いですから」
私は立ち上がる。裾を整え、指先を温める。剣は必要ない。条文と、数字と、開札の鐘。ざまぁの一撃目は、いつだって音から始まる。