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ネモフィラの約束。  作者: 639


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13/21

EP3:1.



 窓から差し込む穏やかな朝の光が、瞼越しにも感じ取れるほど強くなってきていた。

目を閉じたままでも、それがわかる。

それと同時に、窓の外からは使用人たちの声が飛び交い、何やら慌ただしく準備をしている様子が伝わってくる。


まだ、起きるには少し早い時間のはず。

けれど今日は朝から外が騒がしい。

何かあったかな、とぼんやりした頭で思考を巡らせ――すぐに思い出す。


(……そうだ。今日は、“腕比べ”の日だった)


ゆっくりと目を開け、時計に目をやる。

やはり、いつもより三十分ほど早く目が覚めてしまったようだ。


それにしても――

ただの腕比べのはずなのに、屋敷中がやけに慌ただしい。

まるで、王族でも急に視察に来るみたいな騒ぎだ。


(――そんなわけ、ないよな)


朝食までは、まだ少し時間がある。

支度をして、部屋でのんびり過ごそう――そう思って、ゆっくりとベッドから身を起こした、その時だった。

何気なく窓の外に視線を向けた瞬間、視界に飛び込んできたのは――

まぎれもなく、アルベルト皇太子殿下の姿だった。


「……なんで、殿下が?」


思考が追いつかず、固まる頭の中で問いが渦を巻く。その時、タイミングを計ったように、部屋の扉がノックされた。


「キース様、起床のお時間です。お支度をお願いいたします」


扉越しに響いたのは、執事・セバスチャンの落ち着いた声だった。けれど、いつもの静かな朝とは明らかに様子が違う。

セバスチャンの口調は変わらなくても、その背後で聞こえる廊下のざわめきが、今日の“特別”を物語っている。


「……う、うん!」


慌てて返事をすると、扉がそっと開き、数人のメイドが静かに部屋へ入ってくる。「おはようございます、キース様」と丁寧に頭を下げながら、手際よく朝の支度が始まった。眠気の残る頭のまま鏡の前に座れば、櫛がやわらかく髪をすくい、香油が肌にすっと馴染んでいく。衣服を整える指先は慣れていて優しく、まるで毎朝のルーティンをなぞるような、変わらぬ朝の光景。


――ただ、あの窓の外にいたのは、まぎれもなくアルベルト皇太子殿下。


ただの“腕比べ”のはずだったのに。

なのに、どうしてだろう。

胸の奥が、かすかにざわついている。


外の雰囲気からして、早く挨拶に行ったほうがいい。

そう思いながら支度を急いでいると――

ちょうど朝の訓練を終えたガルシア兄様が、にこやかに殿下へと対応している姿が、窓の向こうに見えた。


「さあ、キース様。お支度は万端です」

メイドたちが丁寧に扉を開ける。


「ありがとう」

一言だけ返し、俺は静かに部屋を出た。


薄明かりの差す廊下を歩くと、朝の新鮮な空気とともに、遠くで使用人たちの忙しげな声がかすかに聞こえてくる。

無理に走らず、自然な歩調で進みながら、ふと窓の外に目を向ければ、朝日が差し込み、廊下の奥を黄金色に染めていた。


(……何かが始まる、そんな朝だ。)


やがて、大きなダイニングルームの扉が見えてきた。

扉の向こうからは、朝食の香りと共に、使用人たちが準備に追われる気配が漂ってくる。静かに扉を開けると、整然と並んだテーブルと、忙しくも落ち着いた動きの使用人たちの姿が広がっていた。

その奥――テーブルの片隅に、アルベルト皇太子殿下の姿があった。毅然とした風格は変わらず、背筋は凛と伸びている。けれど、その表情にはどこか柔らかな笑みが浮かんでいた。


「おはよう」


落ち着いた低い声が、空気を震わせるように響く。

父と母の姿はまだ見えない。急なご来訪だったから、まだ支度が整っていないのかもしれない。兄様も、先ほど朝の訓練を終えたばかり。きっと今頃、着替えている最中だろう。

――この広い空間に、殿下と二人きり。使用人たちを除けば、それは事実だった。

少しだけ、胸の奥がざわつく。思わず背筋が伸びた。


「おはようございます、アルベルト皇太子殿下。……今日はどうしてこちらへ?」


そう問いかけると、殿下は少しだけ目を細めて微笑む。


「今日は、ルウェンの“生涯”がかかった日だからね。臣下の大事な日を――見届けないと。」

「……そう、でしたか。」


思わず声が小さくなる。

殿下は柔らかく微笑みながら、さらりと言葉を継いだ。


「急に押しかけてしまったから、ハーヴィン侯爵家の皆には、少し迷惑をかけてしまったかもしれないね。」


そう言いながらも、どこか楽しげな表情を浮かべている。まるで、この騒がしさも含めて“仕組まれた劇”を愉しんでいるような――そんな余裕を感じさせる態度だった。


「立っていてはなんだろう。皆が揃うまで、席について談笑しよう。」

「……仰せのままに。」


殿下にうながされるまま、テーブルの一角に腰を下ろす。

思えば、殿下とこうして差し向かいで話すのは――これが、初めてかもしれない。

いつもは、ガルシア兄様かルウェンが隣にいて、俺はそのやりとりをただ聞いているだけだった。いざ自分が話す側となると、何を口にすればいいのか、まるで見当がつかない。


「そう、緊張しなくてもいいよ。君のことは、ガルシアとルウェンからよく聞いているから」


殿下が、ふっと口元を緩めて微笑む。

兄様とルウェンが、自分のことをどんなふうに話しているのか――気になるけれど、簡単に尋ねられるわけもない。だって俺は、兄様やルウェンのように、殿下と気軽に言葉を交わせるような間柄ではないから。


「心配しなくても大丈夫。君が“可愛くて仕方ない”って話ばかりだよ。」


殿下はいたずらっぽく目を細めて、さらりと続けた。


「ガルシアは“弟は素直で可愛い”と。ルウェンは、君のことが好きすぎて、騎士としての顔が崩れてしまうと嘆いていたね。……愛を語る彼らの顔は、見ていて微笑ましかったよ」

「……お恥ずかしいばかりです。」


うつむきながらそう答えると、殿下は優しく笑って首を振った。


「恥ずかしがることはない。二人とも、本当に君のことを大切に思っている。それが、よく伝わってくるよ」

「……ありがとうございます。」


素直に礼を述べると、殿下はふと目線を逸らし、どこか申し訳なさそうな声で続けた。


「それと――私の婚約者であるエリアーナも、この場に来たがっていたんだが……今回は遠慮させた。屋敷の者たちも大変だろうからね。」


そう前置きしてから、殿下はキースにやわらかく頼んだ。


「週明け、君から学園で報告してあげてほしい。」

「かしこまりました。」


俺が笑って返事をすると、殿下も穏やかに微笑んで、「エリアーナと親しくしてくれて、ありがとう。」と、お礼の言葉を述べられた。


「い、いえ! お礼を言われるほどのことでは……」


慌てて手を振る俺に、殿下は小さく肩を揺らして笑う。


「エリアーナの性格は、君も知っているだろう? はっきりした物言いをするから、ご夫人方との会話で苦労しているようでね。……何かと気にかけてやってほしい。」

「……はい。」


殿下の口ぶりからは、エリアーナ様への深い思いやりが感じられた。家柄で結ばれた婚約者同士――そういう関係でも、お二人はきっと、心の中でしっかりと互いを大切に思っているのだろう。


「殿下が、こんなにもエリアーナ様のことを思っておられるなんて……気づきませんでした。」


そう呟くと、殿下はふっと目を細めて微笑んだ。


「エリアーナが君にどう話しているかは分からないが……私はね、彼女が婚約者で良かったと思っているよ。」

「……俺も、そう思います。厳しくも寄り添うような言葉をくださる、素晴らしいお方です。――その方が選ばれたのは、当然のことだと思います。」


真っ直ぐにそう口にすると、殿下は目元をさらに和らげ、どこかいたずらっぽい口調で言った。


「それに……もし君を選んでいたら、ルウェンは私の臣下にはならず、ガルシアとリオネルのようになっていたかもしれないね。」

「ふふ、それは……そうならなくて良かったです。


軽く笑い合った空気の中で、ふと、殿下の表情が陰る。


「……君には、婚約者候補の件で――謝らなければならないことがある。」


声が低くなり、柔らかだった空気が一瞬にして引き締まった。


「本当は、最初から婚約者はエリアーナに決めていた。けれど私は――将来を見据えて、ガルシアとルウェンの忠誠を確かなものにしたくて……君を“利用”してしまった。その所為で君とルウェンの仲をすれ違わせてしまった。……本当に、すまなかった。」


殿下の口調には、悔いている誠実な響きがあった。嘘や言い訳のない、率直な謝罪――それは、立場ある人間から簡単に出てくる言葉ではない。


「……利用、した?」


思わず漏れた問いに、殿下は頷いた。


「ああ。愛する者が、私の婚約者になるかもしれないと知ったら……ルウェンは、きっと止めに来ると思った。来たら婚約者にしない代わりに、私に忠誠を誓わせればいい。そう考えたんだ。」


淡々と語る声には、もはや誇りも偽りもなく、ただ事実を語る者の静けさがあった。


「だが……実際は、馬鹿なことをしたと思った。ルウェンが、自分の想いを噛み殺して、ひどく悲しい顔をしていた。あんな顔……想像もしていなかったよ。」


殿下はそっと視線を伏せ、苦笑のような息を吐いた。


「その後、何かを察していたガルシアに、痛烈に怒られた。“皇太子殿下だからといって、人の想いを試すような真似は許されない”と……。他に方法はいくらでもあっただろう、と叱られた。」


その言葉は、殿下の胸に深く残っているのだろう。今もどこか、苦味を含んだように語られるその回想には、後悔と、同時に人としての誠意が滲んでいた。


「ガルシアの言葉に……幼かった私は、情けなくも泣きついてしまってね。」


殿下は苦笑を浮かべ、どこか懐かしむような口調で続ける。


「泣いた私に驚いたガルシアは、何も言わずにそっと抱きしめてくれた。そして――『ルウェンにちゃんと謝りましょう。俺も手助けしますから』と。……その言葉に救われた。」


殿下の声には、当時の感情が滲んでいた。


「おかげでルウェンとも打ち解けられて、今では良き友人だ。」

「……そんなことが、あったんですね。」


殿下はもう一度、小さく息を吸ってから、丁寧に言葉を綴った。


「……すまなかった。」


その言葉には、肩書きを越えた、一人の人間としての誠実さがあった。


俺は慌てて、首を振りながら返す。


「い、いえっ! 謝っていただくことではありません。それに……あの一件があったからこそ、エリアーナ様という素敵な方に出会えました。今では、心から出会えて良かったと思っています。」

「……そう言ってもらえると、私の心も救われる。ありがとう。」


殿下は、ほっとしたように微笑んだ。


「むしろ、こちらこそ。話しづらいことを、きちんと伝えてくださって……ありがとうございます。」

「ずっと君に話しかけづらくてね。君に謝る機会を逃していた。……こうして、遅くなってでも伝えられて、よかったと思っている。」

「……そんなふうに思っておられたなんて。知りませんでした。」


思わず口をついて出た言葉に、殿下は苦笑しながら肩をすくめた。


「ふふっ……気にしすぎていたのは、私の方だったらしい。なあ、ガルシア。」


――その名に応じたのは、後方から聞こえた懐かしい声だった。


「そう言ったでしょう? アルベルト皇太子殿下。」


振り返れば、そこには支度を終えた兄様の姿。そして、その後ろには父と母の姿もあった。


「三人には、事情を説明してあらかじめ“少し遅れて”来るよう頼んでおいたのだ。」

「えっ……?!」


思わず声が上ずる。殿下はくすりと笑って言う。


「そうでなければ、今ごろ朝食はすっかり終わっていたはずだよ。」

「どうりで……殿下がいらしているのに、皆が来るのが遅いと思いました!」


思わず拗ねたように言うと、兄様は困ったように微笑んで肩をすくめる。


「殿下がね、どうしてもキースに謝りたいって仰るから。」


兄様は、殿下が見ているというのにお構いなしに、後ろから俺をぎゅっと抱きしめ、優しく頭を撫でてくる。


「兄様……っ!」


思わず声が漏れると、父が一つ咳払いした。


「……殿下をお待たせている。朝食にしよう。」


父の声に促され、兄様はそっと俺を放し、隣の席に着いた。俺もその隣で自然と背筋を正す。

テーブルの端には殿下が座り、その隣に父と兄様。父の隣には母が、兄様の隣には俺が並ぶかたちとなった。父の静かな合図を受け、使用人たちが朝食の皿を手際よく運び込む。品のある香りがテーブルを包み、緊張感の中にも一瞬、朝の心地よさが差し込む。

やがて、殿下の低く落ち着いた声が響く。


「――いただこうか。」


その言葉を合図に、皆が揃って手を合わせ、静かに食事が始まった。

いつもの家族だけの朝食とは違い、柔らかい空気の中にもぴしりとした緊張感が漂う。それでも、時折交わされる穏やかな談笑が、少しずつ場を和らげていった。

こうして、格式と温もりが絶妙に交差する、特別な朝の食卓が静かに幕を閉じた。





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