孤児院
翌朝、空は雪雲に覆われていた。陽が昇っているはずなのに、灰色の光が地面を濁らせている。
厚手のマントを羽織り、私は馬車の階段を静かに降りた。
「こちらです、伯爵様。あちらが、エルトリア孤児院の門になります」
ティナが指差す先にあったのは、石と木で造られた古い建物だった。二階建てで、屋根の瓦はところどころ剥がれ、軒先にはつららが下がっている。
門柱の隙間から中庭が覗き、干された洗濯物と、うずくまる子供たちの姿が見えた。
「……この寒さの中で外に?」
「薪が足りない日には、室内より外のほうがましなんです。日が出ていれば、ですが……」
ティナの声音は淡々としていたが、その指先はかすかに震えていた。
「案内を頼む」
「はい」
門を抜けて敷地に足を踏み入れると、すぐに一人の女性が飛び出してきた。
灰色のショールを羽織った、五十代半ばほどの小柄な女性。ティナに向かって何かを言いかけ──私の顔を見て、驚いたように口を閉じた。
「ご機嫌麗しゅうございます、伯爵様……まさか、本当にお越しいただけるとは……!」
別の使用人に先触れをしておいたのだが、信じてもらえていなかったらしい。前任者の杜撰さが窺える。
「お世話になっています。あなたが院長のマーレさん?」
「は、はい……このような場所へ、伯爵様自らお越しいただけるなんて……」
「領地の全貌を把握しなければ、手の打ちようがない。中を拝見させてもらう」
私は一歩、中へ足を踏み入れた。
室内は想像以上に寒かった。煉瓦の壁はひび割れ、床板の一部は沈みかけていた。中央の暖炉は石が欠けており、薪の火も今にも消えそうなほど小さい。
「これが、通常の暖房状況ですか?」
「はい……この冬は、薪の仕入れが予定の半分以下で……支援金の振込が遅れているようで……」
「遅れている……?」
私の眉がわずかに動く。
昨晩確認した帳簿には、先月分の寄付金がすでに“支払済”と記されていた。やはり帳簿と実態が食い違っている。
「子供たちは、今どこに?」
「こちらに……」
案内された部屋では、十数名の子供たちが座布団の上で体を寄せ合っていた。三歳ほどの幼児から、十代半ばの少年まで。どの顔にも疲労の色が濃く、唇が紫がかっている者すらいる。
「ティナお姉ちゃん!」
一人の幼い少女が駆け寄ってきて、ティナのスカートを握った。ティナは柔らかく微笑み、そっとその子の髪を撫でた。
「みんな、伯爵様よ。私たちの新しい領主様」
子供たちが一斉にこちらを見る。その目は不安と期待、そして恐れが入り混じったような複雑な色をしていた。
「私はフォルテ・エバーミル。これからこのエルトリア領の管理を引き継いだ者だ」
子供たちは黙ったまま、私の姿を見ていた。
マーレが静かに頭を下げる。
「……この子たちは、前任の領主様というものを知りません。顔を見たことが一度もないので」
「それなら、今日が初めてか」
私はマントを脱ぎ、ティナに預けた。寒さが肩を刺したが、震えはしなかった。
そのまま暖炉の傍に座り込み、子供たちと目線を合わせる。
「……この暖炉を新しくして、薪も増やす。冬用の服と毛布をいくつか持ってきた」
「……ほんと?」
ぽつりと漏れた声。見ると、先ほどの幼い少女がじっとこちらを見ている。
「嘘をつく理由はない。私はこの領の主。約束したことは、必ず実行する」
子供たちの顔に、かすかな変化があった。完全な信頼ではないが、少なくとも“耳を傾ける価値”があると思ったのだろう。
私は静かに立ち上がった。
「次に来る時は、倉庫の帳簿を拝見させてもらう。何が必要で、何が足りないか、それを明確にしないと正しい支援もできない」
「……はい。ありがとうございます、伯爵様……!」
マーレの声は震えていた。私は軽く頷き、ティナに視線を向ける。
「ティナには引き続き孤児院との連絡を任せる。何かあれば、すぐに報告するように」
「はいっ!」
外に出ると、空から小さな雪片が舞っていた。
見上げると、くすんだ雲の奥に、ほんのわずかに陽光が滲んでいた。
──まだ、この土地は終わっていない。
ならば、変えるだけだ。静かに、確実に。
屋敷に戻ると、暖炉の火はまだかすかに燃えていた。外の冷気とは対照的に、室内は静謐な緊張感に包まれている。
私は孤児院から持ち帰った帳簿を広げた。詳細な食料や資金の出納記録。ティナの証言と照らし合わせ、数字を丹念に追う。
「……これは」
明らかに帳簿の一部が改ざんされている。孤児院への寄付金が記録上は十分に入っているのに、実際の支給は著しく少ない。
「先月、十二万グリヴナの寄付金が入金されているはずだが、孤児院にはわずか三分の一しか届いていない」
ギルバートが書類を覗き込み、眉をひそめる。
「どこかで差し押さえられているのか……いや、もっと悪質だ。支援金を横領し、隠蔽しようとしている者がいる」
グレンが口を尖らせた。
「前領主の旧文官たちだろう。彼らはこの領地に未練があるのか、それとも単なる利権か……」
私は帳簿の裏に控えの名簿を見つけた。そこには王都の社交界にも名の通る文官たちの名前が並んでいる。
「よく見ろ。連絡先は、全て王都にある。彼らはここにいないが、影響力は残っているはず。このまま放置すれば、せっかくの支援も徒労に終わる」
私は鋭い目で二人を見た。
「この件は、私が直接対処する。文官たちへの処分は私の命令で行う。彼らの権限を剥奪し、資産の調査と没収も命じる」
ギルバートが一礼した。
「承知しました、伯爵様。さっそく動きます」
「私はこれから、彼らへの文書を用意する。『不正行為の証拠と処分の通告』、それに『今後の連絡窓口は私のみ』という明確な宣言を含める」
「いやあ……ここまでの力強さ、頼もしいですな」
グレンが苦笑混じりに言う。
「肝が据わっているというより、過去の苦労がそうさせているのでしょう。彼女の扱う氷の魔法も、それを裏付けています」
私は微かに笑いながら、窓の外に目を向けた。
舞踏会での婚約破棄。王家の冷たい処置。だが今は違う。私はこの領地の主。未来を切り拓くための責任を負っている。
「この影を断ち切ることが、エルトリアの復興の第一歩になる」
手は静かにペンを取り、書類を綴じていった。