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エルトリア領

 屋敷の執務室は、冬の光が斜めに差し込む静かな部屋だった。書棚には古びた帳簿が並び、暖炉の火は細く揺れている。部屋全体に漂う、わずかな黴の匂いが歴史の重さを物語っていた。


「──これが、エルトリア領の現状です」


 ギルバートが静かに差し出したのは、一冊の分厚い帳簿と、地図が綴じられた革表紙の資料だった。

 ページを開くと、思わずため息が漏れる。


 「収支赤字、三年連続。税収は下がり続け、徴税不能の世帯が四割近く。村のいくつかは、この冬を越せない……?」


「……お恥ずかしい話ではありますが、事実でございます」


 ギルバートは目を伏せるが、私はそのまま数字を追い続ける。

 エルトリアは、王国の北端に位置する山岳地帯の中でもとりわけ寒冷で、主要道からも外れた辺境の地。農作物は寒波と痩せた土壌の影響で収穫が不安定。特産品もなく、冬季は交易もほぼ途絶える。無謀な森林の間伐や鉱山開発は途中で止まり、何かと「前任の領主」が口だけで終わらせた跡が残っていた。


「前任は、王家の遠縁の方だったと聞いているけれど……?」


「ええ、実際には、王都での社交にお忙しく、こちらには一度もお越しになりませんでした」


「つまり、“見捨てられていた”領地ということね」


「……仰る通りでございます」


 ギルバートの声には、自嘲とも諦めともつかぬ響きがあった。


「しかもですねえ、伯爵様」


 控えていたグレンが腕を組んで口を挟んだ。


「最近この辺じゃ、“聖山教”なんて名乗る新興宗教が流行ってましてな。『山の神に祈れば寒さが和らぐ』だの、『税より捧げ物』だの、言いたい放題です」


「それはまた……随分なことを」


 眉をひそめた私に、グレンは肩をすくめてみせた。


「教主の顔も知られていない、得体の知れない教団です。今のところ危害はないが、家畜を無断で“捧げた”農民もいて、放っておくと……火種になりますな」


「税も払えず、家畜すら新参者の神に差し出している。民心は王家どころか、もはや現実そのものに絶望してるのね」


 私は地図の上に視線を落とす。

 エルトリア領。東を切り立つ山脈に塞がれ、西には凍結する渓流が流れる、まるで王国の“端切れ”のような領地だ。


 ──まったく、舞踏会の喧騒とはほど遠い。


 だが、不思議と悪い気はしなかった。

 荒れ果てた土地には、再建の余地がある。

 虚飾に満ちた王都より、よほど肌に合っている気すらする。


「まずは税の見直しと、民の信頼回復ね。宗教にも監視をつけるべきだな。礼拝所の管理記録も頼む。あとは──」


「はい、倉庫の在庫、村の診療所、農地の割り当てもまとめております」


 ギルバートが即座に応じる。私は、羽ペンを手に取った。


「ここが“私の領地”だというなら、腐ったままにはしない。まずは、全ての村にこの冬を越させる。そのためにできることを、一つずつ試すしかない」


 グレンが小さく口笛を鳴らした。


「……思ったより肝が据わってらっしゃる」


「私の扱う魔法は氷だ。操作を誤れば、体が凍りつく。そんな魔法を毎日のように使っていれば、肝の一つや二つ冷える事もある」


 微笑むと、ギルバートとグレンの表情がわずかに変わった。

 婚約破棄された哀れな娘ではないと、少しだけ認められた気がした。


 ──さあ、次は領民に顔を見せに行かなくては。

 このエルトリアの主は誰か、それを知らせるために。


「ギルバート、この孤児院を明日の朝に視察する。先触れを頼む」


「ならばティナが適任でしょう。あの子は孤児院の子を気にかけておりますから、喜んで仕事するはずです」


 孤児院について記された資料を流し読む。

 寄付金の履歴や、前任者の来訪履歴。それが、二人から聞いた話といくつか食い違う所がある。


「待て、先触れに行かせる前にティナをここへ。話を聞きたい、確認したい事があるんだ」


「かしこまりました」


 眉間を指で揉む。

 領地の抱える問題は、どうやら一筋縄ではいかない様子だ。まずは何が起きているのか把握しなくては。


 数分もせぬうちに、ティナが執務室へ駆けてきた。栗色の髪を一つにまとめ、まだ少しあどけなさを残す少女は、扉の前できちりと足を揃えた。


「お呼びでしょうか、伯爵様」


「ええ。ティナ、あなたは孤児院に何度か行っているそうだな?」


「はい。……私も、六年前まであそこにおりましたから」


 静かに、だがはっきりと告げる言葉。彼女の目に曇りはなかった。背筋を正し、視線をまっすぐにこちらへ向けている。


「あなたの見た限り、孤児院の運営に不審な点は?」


 ティナは少しだけ考え、首を振った。


「院長のマーレ様は、本当に子供たちのために尽くしておられます。けれど、暖房も足りませんし、今年に入ってから麦の量も減っていました。ご寄付が少ないと……」


「帳簿上では、先月に食料支援の金が出ている。その金が正しく孤児院に届いていれば、麦が減るはずはない」


 ティナの目が驚きに揺れた。


「……そんな。私が行ったときは、粥ばかりで……」


「つまり、“途中で何かが抜かれている”のよ。どこかで、帳簿の数字がズレている。消えた金はどこに消えたか、突き止める必要がありそうだな」


 ギルバートが資料を手に、机へ戻ってきた。


「必要かと思って、孤児院の資料をお持ちしました。確かに、帳簿上の寄付金の管理は前領主側の文官によって処理されていました。まだ屋敷に籍が残っている者もおりますが──」


「帳簿の管理と関係者の名前を全てリスト化する必要があるな。少なくとも孤児の食い扶持を削るような真似をした者をそのままにするわけにはいかない」


 私の声に、ティナが小さく息を呑んだ。


「……伯爵様」


「明朝、あなたも孤児院の視察に同行しなさい」


「……はいっ、喜んで」


 ぱっと明るくなる表情。嬉しさと決意が交じった笑顔だった。


 その夜、私は孤児院の台帳を精査しながら、暖炉の火が尽きていくのを黙って見ていた。民を食い物にする者がいたならば、容赦はしない。

 エルトリアは“見捨てられた領”かもしれないが、私はそれを“そうでなくする”ためにここへ来たのだ。

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