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女伯爵フォルテの華麗なる婚約騒動  作者: 清水薬子


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交わす剣戟(グレン視点)

 朝霧がわずかに残る訓練場の片隅で、兵たちの木剣が乾いた音を立ててぶつかり合っていた。

 グレンはその様子を黙って眺めていたが、ひとしきり稽古を終えたところで、視線を遠くに転じる。


 訓練場を囲む石垣の向こう。

 ラスティアグラスを片手にフォルテ女伯爵と言葉を交わす男の姿があった。


 セドリック。

 女伯爵に取り入り、外商路と物資供給を手がける商人。

 ヴェルク商会を立ち上げ、会長としてエルトリア領の再建に貢献している人物である。その名は広く知られており、領民からも商人にしては珍しく良心的な性格の持ち主と人気だ。女伯爵の覚えもめでたく、何事もなければお抱え商会となるだろう。


 正直なところ、最初は胡散臭いと感じていた。

 肩肘張った洒落者や商人など、口先だけの連中ばかりだったからだ。


 だが──


「……意外と、筋は悪くなさそうだな」


 手元の砥石を止めると、腰の剣を引き抜き、鞘ごと携えて歩き出した。

 目的地は、木陰で帳簿を整えているセドリックのもと。


「セドリック」


 呼びかけると、彼は立ち上がる。目を細め、わずかに口角を上げた。


「おや、グレン兵士長自らとは光栄です。何か用でしょうか?」


「暇なら一本付き合え」


 言いながら、俺は腰の剣を軽く持ち上げて見せた。

 セドリックの視線が、それに鋭く反応する。


「僕と剣を交えたいと?何故?」


「それなりに剣を扱う者が見れば分かる。あんた、護衛業を経験した事があるだろう?歩き方の癖、曲がり角の目の遣り方、どれも素人じゃない」


「なるほど。見抜かれていたとは迂闊でしたね」


「別に非難する気はない。だが、商人でありながら剣を扱う理由──それが知りたい」


 セドリックは、しばし沈黙した。

 やがて、静かに立ち上がり、外套の下から自らの剣を取り出す。

 装飾の美しい鍔を持つ剣だったが、重みを確かめる手つきに一分の隙もなかった。


「どうやら閣下の護衛を自称しているだけの輩ではなさそうですね。まあ、あの方ならば当然か。言っておきますが、僕に閣下やこの領地を害するつもりはありませんよ。疑うならば心ゆくまで調査を……」


「言い訳はいい。剣を抜け」


「ふむ。兵士長の指導を受けられるなら、剣の使い手冥利に尽きる。ですがひとつだけ、条件をつけましょう」


「条件?」


 セドリックは剣を構え、優雅な足さばきで距離を取った。


「私が一本でも取れたら──この領地の兵の在り方について、ひとつ意見を聞いてもらいます」


「……ほう、口だけでないようだな」


「これから先は、剣で語らせていただく」


 グレンは口元をわずかに緩めた。だがそれは笑みではなく、戦場で敵を見極めた時の、それに近い。


「面白い。後悔するなよ、坊ちゃん」


「お手柔らかに、隊長殿」


 こうして──

 新進気鋭の商人と、戦場を知る兵士。

 女伯爵の傍に立つ二人の男は、剣を交える。


 互いを測り、剣をもって語り合う静かな火花は、朝の冷気を溶かしていくのだった。




 ◇◆◇◆




 朝露がまだ地面に残る兵舎裏の訓練場に、グレンの重い足音が響く。

 女伯爵に仕える兵士たちの中でも最も武に長けた男が、今日の稽古相手に選んだのは──


 商人、セドリックだった。

 訓練場の片隅に立つセドリックは、長衣の裾を丁寧にたくし上げ、黙ってグレンの出方をうかがっていた。

 見守っていた兵たちの間に、静かな緊張が走る。


 最初に動いたのはグレンだった。

 セドリックは驚愕の表情を見せつつも、即座に反応し、その斬撃を受け止める。

 二人の呼吸が次第に乱れ、額ににじむ汗が稽古の熱を物語っていた。

 グレンの構えがわずかに変わる。直後、左足を軸にした回転斬りが閃く。

 グレンは受け流しながら相手の重心を見極め、攻め手の糸口を探る。

 一見優雅なセドリックの剣筋には、重ねてきた鍛錬の重みが確かに宿っている。

 セドリックは体勢を崩さぬよう慎重に間合いを取るが、グレンの剣圧は確実に前へと押し寄せてきた。


 二人の呼吸が次第に乱れ、額ににじむ汗が稽古の熱を物語っていた。

 セドリックは一歩引いてその斬撃を紙一重でかわし、すぐに逆手で反撃に転じる。

 木剣と木剣が激しくぶつかり、乾いた音が訓練場に響き渡った。

 セドリックの剣筋は柔らかく、だが芯を持っていた。

 その一太刀一太刀が、単なる見様見真似ではない、実戦を見据えたものだとわかる。

 グレンは構えを低くして突きを放つが、セドリックは素早く軸足をずらし、剣の腹でそれを受け流す。

 再び踏み込み、重い袈裟斬りを打ち込む。

 だがセドリックも負けてはいない。鍛えられた脚力で一歩踏み出し、逆に切り上げを見舞う。


「悪くない……」


 グレンが低く呟く。


 それは賞賛というよりも、さらなる一手を引き出すための呼び水だった。


 セドリックの剣が軌道を変えた。

 貴族的な形式美の奥に、獣のような鋭さが潜む。

 グレンは知っている。この優美な剣術の裏に隠された獰猛な殺意。

 打ち込まれた一撃をグレンは剣の腹で弾き、足払いに転じる。

 そのまま地を蹴って踏み込み、相手の懐へと潜り込む。

 だが、セドリックも怯まなかった。

 その腕に宿る意思が、単なる装飾ではないことを証明していた。


「なるほど……ただの商人ではないな。そして、分かってきたぞ、あんたの事が」


 グレンが微かに笑う。

 セドリックも応じるように口角を上げた。


「僕には護りたいものがあるのです。それに、この剣は……飾りではありません」


 再び剣と剣がぶつかる。

 打ち込まれるたびに、互いの想いが交錯していく。

 剣戟は舞のように洗練され、鋼の律動を奏で始める。


 その動きはもはや稽古の枠を超え、二人の信念がぶつかり合う儀式のようだった。

 セドリックの呼吸は浅くなりながらも、目だけは鋭く輝いていた。

 グレンの剣が上段から振り下ろされる。

 それをかわしたセドリックが返す一撃は、明らかに進化していた。

 同じ軌道でも、数合前より確実に速く、深い。


 一太刀、また一太刀。


 観ていた兵士たちは、思わず声を呑む。

 セドリックの剣筋に、彼らが日々鍛錬するそれと同じ気迫を見たからだ。

 そしてその剣に、誇りと覚悟を見たからだ。


 やがて、グレンの剣がセドリックの横薙ぎによって弾き飛ばされる。


「……俺の負けだ、セドリック」


 セドリックは肩で息をしながらも、きちんと姿勢を正して一礼する。


「ありがとうございます。ですが、まだまだ……もっと学ばねば」


 グレンは頷く。


「その意志があるなら、お前の剣は必ず強くなれるだろう」


 短い言葉だが、そこには深い信頼が込められていた。


「さて、勝負に俺は負けた。条件を受け入れよう。この領地の兵の在り方について、言いたい事があるんだったな。多少の無礼は許そう、あんたから見て俺の部下をどう思う?」


「鍛錬を何度か見学させてもらいました。僕の知る限り、兵たちの動きに、怠けた様子は一つもない」


「当然だ。あいつらは戦場を舐めちゃいねぇ」


「そこが問題だと、僕は思うのですよ」


 グレンが片眉を上げ、静かにセドリックを振り返る。


「舐めてはいない。だが、恐れてもいる。あの眼には“守る意志”よりも、“死なない為の動き”が先に出ている。……それでは、いずれ瓦解します」


「……ふん、商人らしい理屈だな」


「僕は商人です。理屈が通らない世界で育ってきました。ですが、理が通らぬ場所にこそ、信念が必要なのです」


 セドリックの声には感情があった。ただの批判ではない、憂慮と、覚悟が滲んでいた。


「兵とは、敵を倒す為にあるのではなく、“民を守る”為にあるべきです。ですが今の兵は、誰の顔も見ていない。命令に従い、動くだけの“駒”に近い」


 グレンの視線が鋭くなる。


「それは、俺の指導が甘いと言いたいのか?」


「そうは申しません。むしろ、あなたの剣技と統率力には感嘆すら覚えます。ですが、兵に“誇り”と“目的”を教えるのは、剣の技量とは別の領分です。……彼らに必要なのは、『この剣で何を守るのか』を思い知る時間です」


 沈黙が落ちた。風が柵の上を通り抜ける。


 グレンは目を細めたまま、言葉を選ぶように低く呟いた。


「……民を守る。簡単に言うが、それができなかった時に背負うものの重さを、あんたは知らない」


「私は、それを背負えなかった者たちの顔を、数多く見てきました」


 セドリックの言葉に、僅かな苦味が滲む。


「戦で商隊を失い、遺族に詫びもできず逃げる者。剣を手にしてもなお、仲間を救えず自らを責める者。……私も、あの時、何もできなかった者の一人です」


 いつものグレンならば『戦場を知らぬ商人の戯言』と笑い倒す言葉だったが、剣戟を交わした今となっては冗談として受け流す考えすら思い浮かばなかった。

 それほどまでに、セドリックの言葉には重みと迫力が宿っていた。


「だからこそ、今の兵に伝えたいのです。剣を振るう理由は、“命令”ではなく、“信念”であるべきだと」


 グレンはしばらく無言だった。

 やがて、夕焼けに照らされながら口を開いた。


「……まるで貴族のような口振りだな。どこかの家の傍系か?」


「いいえ、しがない商人です」


「違うな。やはり、俺はあんたを知っている……いや、あんたの父親か」


 グレンが、口の端だけを少し上げた。


「セオドア・カラステイン、この名前に聞き覚えは?」


「エルトリアを支配していた一族ですね、僕の記憶が正しければ──十八年前、国家反逆罪で処刑された」


「そうだ。カイラステイン一族は連座で処刑された、表向きはな」


 鋭い視線が交わる。

 撤収する訓練兵たちには、剣戟後の他愛無い雑談に見える二人の間には緊張が漂っていた。


 セドリックが、緩やかに息を吐き出す。


「……まさか、剣術で正体が露見するとは。僕もまだまだのようですね」


 グレンは深くため息を吐いた。


「隠すつもりはないのか」


「秘密は、時に人を惹きつけます。そして死を招く。僕はその事を誰よりも知っているつもりです」


 セドリックの目を見つめても、グレンの求める答えは見つからない。


「尾行に気付きながらも撒かず、俺の部下が潜入しても帳簿を隠さなかったのはそれが理由か」


「ええ、ですが迂闊でしたね。すぐに誰の差金かわかってしまいましたよ。あなたの部下は今、僕の商会で諜報部員としての教育を施してます。一ヶ月ほどで、優秀な人材となって閣下の役に立つでしょう」


「はっ、全てはあんたの掌の上か。油断ならねえ男だな」


「グレン隊長の思うがままに閣下にご報告を。必要であれば、僕を呼び出しても構いませんよ」


「敵わねえな、まったく」


 グレンは笑い、セドリックに右手を差し出した。

 それは商談の握手ではない、仲間としての一礼だった。


「二つの剣で、民を守りましょう。──あなたの刃と、私の声で」


 グレンは短くため息をついて、その手を取る。


「……本当に、あんたは、面倒なやつだ」


「お互い様でしょう、グレン隊長」


 二人の掌が重なった夕暮れの演習場に、ゆっくりと夜の帳が降りていった。

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