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ねえ執事、私はどうして婚約破棄をされたのかしら?

作者: 九時良

「君との婚約は破棄させていただく」

 私は広間で呆然と立ち尽くした。パーティーに集まった人々の視線が私へと注がれる。

 どうして人前でこのようなことを言われなければならないのだろうか?

 彼と婚約したのは一昨年の冬。家同士が決めたもので、人見知りを乗り越えてようやく少し話せるようになってきたところだった。

 彼の隣には見知った少女がいた。家柄はよくないけれども華やかで目を引く女性だ。年が近いという理由で、暗い私ともよく話してくれた。そんな彼女が、今は私に怯えるような視線を向けてくる。

「どうやら彼女に随分と酷いことをしてくれたらしいな」

 彼は彼女をかばうように立った。

「婚約者に近づくな、という脅迫の手紙を読ませてもらったよ。嫉妬で嫌がらせをするなんて恥知らずにもほどがある」

 それを言うなら彼女だって……。

 何度、持ち物を壊されたことか。何度、悪い噂を流されたことか。直接的に顔を見せたり、声をかけて攻撃されたことはないけれど、彼女だとわかる痕跡をわざわざ残していた。酷い嫌がらせだと思った。

 謂われのない汚名を着せられている屈辱。そして、こんな場面ですら口を開くことができない自分の情けなさ。観衆の視線の恐ろしさ。そのすべてに、私は震えた。

「私のことを想ってくださるお気持ちはとても嬉しいですわ。続きはもう少し静かな場所で話しませんこと?」

 彼女が小さな声で彼を促す。

 私も賛成だ。なぜなら、私だけではなく、彼自身の恥も晒していることになる。社交界に於いてこのような大立ち回りは歓迎されない。下品と言って差し支えないだろう。彼らしくない立ち振る舞いに、私への憎しみの真剣さを感じた。

「いいや。彼女がもう二度と君の前へ姿を現せないようにしないと。家柄や見目がよくても心根がいいとは限らないのだよ」

 彼はきっぱりと言い放つ。

 彼の親も、私の親も、彼女の親もいる。ただの知り合いのまともな大人もいる。それらのすべてが慌てて駆け寄ってくる気配を感じた。

 パーティは台無しになった。暇な社交界の好奇の視線が集まった。彼の意思が固ければ親達の思惑も泡となる。

 そして私はこの場の空気に耐えられるほど強い人間ではない。たった一言、身に覚えがないとも言い返せないのだ。

「さようなら」

 喉の奥から掠れた声を絞り出す。逃げる以外、どうしようもなかった。

 親が私を制止する。優しい年上の方が気を遣って呼び止めてくれた。でも、私はすべてを振り切って真っ直ぐ玄関に駆けていった。

 メイドの付き添いもなく、馬車もなく、帰ることなんかできない。拗ねて、ただ外に出ただけの女。惨めなことはわかっている。このまま歩いて近くの川に入水をするのもいいかもしれない……道なんかわからないけれど。

 それなのに、馬車があった。

「お待ちしておりました、お嬢様」

 我が家に不釣り合いなほど上出来な執事が恭しく頭を下げる。数年前、本当は婚約者の彼の家に仕える予定だったけれど、急に格下の我が家へ来ることになったのだ。以降、我が家のすべてを掌握するくらいによく働いている。

 どうして今ここにいるのか。そんな不思議すら、この執事ならできてもおかしくないくらいに、私にとっては魔法染みた存在だった。

 馬車を出し、彼は控えるように離れて座る。

「少し遠回りさせましょうか。お辛いことがあったのですね」

 静かな声音に心が落ち着いていく。婚約者の彼といるときよりも、執事といるときの方がずっと安らぐ。執事にならば普通に話すこともできる。

「身に覚えのない罪を着せられたの。もうあの場所に戻りたくない。あの人達にまた会う気分にはとてもなれないわ……」

 だけど、また戻らなければならない。それが社交界というものだ。だからこそ人々は恥をかかないように、波を立てないようにしている。その息苦しさに潰されてしまいそうだ。

「実はわたくし、家を継ぐためにお暇をいただくことになりました」

 話を断ち切るように執事は言った。

「……嫌よ……」

 一番信頼していた執事まで失ってしまう。絶望に耐えられず、涙が流れた。やはり死ぬしかないのだろう。

 それなのに、執事は私の涙を喜ぶように微笑んだ。口先だけで「どうか泣かないでくださいませ」と言って、ハンカチを私の顔にそっと当ててくる。

「わたくしの家は田舎にありまして……ここよりずっと遠くになるのです。よろしければ一緒に来ていただけませんか?」

「傷心旅行?」

「いいえ。旅行ではなく、ずっと。一目見たときからお慕い申しておりました」

 真っ直ぐに目を見つめられて、ぎゅうと手を握られる。驚いて涙が止まってしまった。

 今の私には何もない。婚約者はいない。親の期待も裏切った。ここから消えてしまいたいくらいだ。一方、彼は執事だが、地方の名家の次男である。以前の婚約者と比べれば家柄は格落ちするが、私には興味のないことだった。むしろ身の丈にそぐわない格式を意識する必要がないので気楽なくらいだ。

 家にも寄らずに、このままさらって欲しい。そんな気持ちになって私は頷いた。婚約者の彼よりも、執事の方がずっと好きだった。望まない結婚をしても側に彼がいれば満足できると思えるくらいには……。

 だからこそ、まるで馬車が数センチ浮いて走っているような、魔法染みた状況がまだ信じられない。一体どこから魔法だったのか。今日の魔法をふり返ると、違和感ばかりが目についた。

 どうして執事は待ち構えていたのか?

 どうして彼は人前で婚約破棄をしたのか?

 どうして彼女は私をいじめたのか?

 彼女は無実だったのではないか。なぜならば、私へ向けた疑いの目は嘘ではなかった。だが私は無実だ。つまり、私たちはお互いにいじめを行っていない。

 ならば、誰が私たちをいじめ、騙したのか?

 そんなことをして誰が得をするのか?

「ねえ、もしかして、あなた『たち』――」

 執事に唇を塞がれる。手ではない。唇で噛みつくように言葉を制された。言葉を飲み込む不満の代わりに、熱い感情で満たされていく。

「幸せの前には些末なことでしょう」

 抱きしめられて、何かを言う気力がなくなった。

 悪役を演じた彼へ同情を抱く。頭がよく気立てもいい彼女は、きっと私と違って物事をうまく処理できるだろう。

 それだけ考えて、もう、やめる。執事だった彼の心地良い体温に身を任せた。

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