不変
「あなたによ」
梱包を受け取った。書籍だった。
「彝宜先生からだね」
妻に応えた。
今時毛筆を揮って宛名を認めるような人をかつての恩師以外に知らない。まるで枯木や山雲や孔雀石色に打ち寄せる波を以わせる筆勢だった。山水の潑墨法に似る。
紐を断って古めかしい包みを解くと金箔で押された題名『随想録』が現われた。学術・文芸に限らず十数年来、まったく見受けられなくなった丸背の上製本だった。添えられた手漉きの書簡箋には闊達な平仮名でまっすぐに『七十歳を迎えたのを機に云々』といった趣意が綴られている。
四十七歳になる誕生日の五日前、二〇三五年十一月のことだった。
先生が正聖大学の教授であった時代に第一文学部で学士課程を修了した過日の一学徒が忘れられることもなく折にふれこうした便りをもらえたのは個人的共感もあったには違いなかったがより多くは由伽のことに附随して記憶されていたのだと今でも慥かに想う。
先生はその装丁本の中においても、正聖大の考古学研究所研究員であった一九九〇年代、初めて出会った七歳の彼女の印象をこう書き記している。
『私は不思議なことに同僚の娘であるこの幼い少女に崇敬の念すら抱いた。神秘的な出来事を前にしたかのような畏怖に打たれたのだ。未だあどけない微笑を做す無邪気な表情の奥に内包された偉大な知性や明晰な精神の潜在的な可能性が大自然の驚異のように私には垣間見られたからである。』
それが七年後には髪の毛を半透明に脱色し、毛尖を指尖に絡め、白地のタープが濃い蜂蜜色に染められる黄昏時のカフェ・テラスで深く椅子にもたれ、眼差しに懶惰を装い、
「退屈ね」
と言ってみせる十四歳となっていた。
僕らは繁華街の七月の日曜日を眺めていた。
その年頃の者が就くには不似合いな丸テーブルのマホガニー調と、パウダー状のクリムゾン地に金の文様が入ったカップ&ソーサーとがあった。由伽の言葉を聞いて眉を顰めるふりをしたに相違ないと思う。彼女の見解を世界情勢への認識の不足と捉え、自己の識見の優位感を表出することに努めたのだ。
モンゴルの首都ウランバートルでマンホールに暮らすストリートチルドレンや、略奪的誘拐によって親許から引き剥がされ強制的に無慈悲な前線にやられるウガンダやスーダンの幼い少年兵、七歳で一日中ごみ拾いの仕事をしなければならず一度も学校に行ったことのないバングラディッシュの女の子、彼らがこの発言を聞いたなら、いったいどんな気持がするか由伽は想像してみたことがあるのだろうかなどと思慮ぶったわけである。
十四歳でこのような意識を持った奴はいないと自惚れていた。自分は他の人間とは全然違う。もしそれを否定する人間がいれば切歯扼腕し、連中こそ浅ましい嫉妬にとり憑かれた愚かな亡者どもなのだと考える性質であった。
だがそれなら僕自身彼らの援助になるようなことをしていたのかと言われれば、していない。だからどうこう批判する立場になく、まったく実態を伴わない思考をしていたにすぎなかったが年齢相応に考慮の外に置かれていた。
ましてや彼女との街中での偶然の遭遇、ちょっとカフェにでも行こうよなどと言ってみたら、現実に目前に由伽がいてくれるという事実が現前し、有頂天のさなかだった。思考は大脳皮質の表面を滑走していたにすぎない。体勢を変えて顔をこちらに向け、頬杖を突いて目を細め、彼女が僕を見る。侮るような目つきだった。焦る。何かを誤ったのだ。もうそれだけですべてがぎこちなくなりそうだった。デートもどきの様相を呈する状況下、退屈だと評されているのが自分に関することでないらしいと推察される以上、相槌を打つべきだったと早計した。
「そうだね」
「何がよ」
「いや、だから退屈だな、ってね」
「そうよ。だから何が」
窮した。
二重瞼を睜いて睫毛を広げ、僕の態度に見入る双眸は何ら感情を持たないときでも爛々と熾えるように感じられたものだ。悪戯気に光が揺らいでいるようにも見えていた。
義務感に駈られ、答えた。
「別に。何となく退屈だって感じたんだよ」
「斉肯が?」
「そうだよ、決まっているじゃんか」
「世界中で内戦や紛争が次々起こり続けているっていうのに?」
言って目を覘き込み、からかうように微笑するのだ。さっき考えていた内容を知っているかのような口ぶりであった。もちろん、まぐれだ、気のせいさ、と考え直す。そんなことを微笑みながら言ってはいけないぞ、由伽、と内心思いかけた刹那、彼女が今度はその睫毛の長さで睛を翳し、
「パルメニデスの要請よ」
と唐突なことを言った。間隙を突く傍若無人ぶりに却って心が惹かれるのをどうにも止められない。
「はあ」
意図的に語尾の上がった返答をして抵抗を試みた。だが睫毛の簾を透かしてこちらを射る眼差しに、やはりどぎまぎさせられていた。言わずにいられない。
「パルチザン?」
彼女がそっぽを向く。
「悪いけど、つまらないよ。それ」
顔を横に向けたまま、目だけでにらむふりをする。
「キャラクターじゃないよ」
つまり君が被せた役柄を演じなければならないわけだ。当然だろう、君はすべての支配者なのだから。心中でそう呟いて肩をすくめるかのごとく前髪をかき上げてみせるも、にやつきたくなる気持のわき上がりをどうすることもできない。彼女が示すその強制的な態度が妙にうれしかったのだ。マザコンだからなのだろうか。もしそれが事実ならそれでよい。世上にはただ現実があるだけでかくあるべしという束縛はない。可も不可もない。実存は本質的なものに先行するとも言うではないか。
もっともマザコンにしろファザコンにしろ人間の心の複雑系を、どうやれば端的一面的に断定することができるのか、今でも想像すら及ばないが。
パルメニデスをはずしてみせたのはいわれないことではなかった。
古代ギリシアの哲人の名前を日本の日常会話で平然と口に出したりするような手合いを当時から疎ましく思っていた。誰しも直感的にそういう素振りの欺瞞性を感じるだろう。だからそれは僕の考える、比較的素直な僕自身の感情だった。
自分が喋るとなれば全然別だ。
特に由伽と一緒にいるときは普段なら気恥ずかしくて言えないような大袈裟な言葉も、古代英雄叙事詩の主人公にでもなった高揚感に包まれ、つい言ってしまうのが常だった。彼女の自信ある態度に自分も引き上げられてしまう、よく言えばそんな感じだった。ただしそれは僕だけではなく、当時同級だった男子生徒皆が同様であった。わかっていたからこそ躱してみせたのだ。惨敗だった。
正攻法は常に義しい。同じ年頃の中では哲学や芸術に関する知識が特出している(と言うよりそんなものに興味を持つ奴が周囲に皆無だった)と自負していた者として立て直しを計った。
「わかったよ。もちろん、冗談さ。で、何で急にパルメニデスなわけ」
紀元前五一五―四五〇年の人。古代ギリシア哲学に分類されるエレア学派。南イタリア、ルカニアのフォーカイア人の植民都市エレア。六脚韻叙事詩形式で綴られた『自然について』。
彼は記した。
『在るということのみがあるのだと語り、考えなければならない。なぜなら、在ることがあることはできても、ないことがあることはできないからである。(断片六)』
エイナイはギリシア語のbe動詞。これを独立したかたちで使うのはパルメニデス独特の言い回しだ。エオンはその分(有)詞。
存在しないものを語っても考えても無意味だと言うのである。さらに彼は『在るものが後に滅することがあり得るだろうか。(過去の或る時点から)生じたのだなどということがあり得るだろうか』と言う。完全無欠でなければ在ると言われる資格がないというわけだ。真に存在と言えるものはどういうものか。彼が僕らに糾し、突きつける問い、要請である。彼の定義によれば真に存在するものは生じることも滅ぶこともない、仏教で言う不生不滅だ。永遠なるもの、それこそが真の存在だと言いたいらしい。ちなみに仏教が不生不滅という言葉で表現するものは、所謂『空』という術語である。
ただし仏陀が不生不滅という言葉を使用したことは一度もない、後世の人間が案じた表現だ。ついでに言えば最古の仏典『スッタニパータ(経の集成)』を見る限り空という言葉も一回ぐらいしか用いていない。もっと言えば解脱に達し仏国土を開いて一切衆生を救済するなどと世迷いごとを述べたことは全然ない。彼は理性的な人間だった。バラモン僧(古代インドの神官)が神への供養に生贄を捧げるのを批判して『哀れな動物を屠殺して何の意味があるだろうか』とその時代に言い切ることができた人である。どう考えても現実にあり得ないことを言う筈がない。
大乗仏教擁護論者は仏陀の真意を汲み取ったのだと弁明する向きがあるが何がどうあれ、嘘は嘘、欺瞞は欺瞞だ。それ以外の何者でもないし、あるべきでもない。
そう考えていた。
母方の家系は代々寺だ。
「見てよ。
存在なんてどこにもないわ」
由伽は言ってまた雑踏に眼差しを遣る。欧米人のような横顔だ。彼女の親のどちらにも驚くほど似ていない。隣家に住んでいるから晰らかに判る。古代ギリシア古典時代の大理石彫刻のように均整のとれた自然な、規範的な鼻尖や顎のフォルム、それが耳のつけ根でフィニッシュする余りの鮮やかさ。額から眼窩に落ち込むラインが明晰でありながら、微細な角度の変調によって結果的に総体としてはきつさがなく、なだらかに感じさせる、精緻すぎる美観だ。正視し続けるのが堪え難いほどだった。
「でしょう?」
彼女が再び向き直った。
父親が考古学者、かつサイドワークで研究した古代ギリシア哲人列伝を著し、その手の文献としては結構売れたこともある家柄の由伽ならではの発言だ。僕が仏教を云々するのと同じことだった。
例の高揚感に駈られ、薀蓄の一つも傾けたくなって当然、無理からぬことではなかったか。
「移ろうものをパルメニデスはよしとしなかったんだ。彼はクセノファネスの信奉者だった。クセノファネスは、すべては一つである、という命題を述べた最初の哲人だったらしい。『一にして全』というエレア学派のテーゼの起源はクセノファネスが神の単一性を唱えて民族宗教の擬人観に対して反駁したことにあったのさ。クセノファネスは神が生まれたものであるとか、人間の声や姿を持つという考えを赦さなかった」
由伽に深く見つめられた。後押しされたように言葉を続ける。
「それを踏まえると、パルメニデスの謂わんとすることもつかみ易い。完全なるものを彼は求めた。彼にとって真にあると言えるものは完全なるものでなければならなかったんだ。彼は存在と言えるものは、造られたものではなく、喪われることもないものであるべきだと考えた。
さっきふっと思ったことがあるんだ。偶然かもしれないけれど、般若波羅蜜多心経の一節に似ているってね。一切は本来空で、不生不滅不垢不浄不増不減だって述べている部分があるんだよ。
つながっている感じがするよね。一方は存在を通して語り、もう一方は無を通して語りながら、真実の定義において同じ表現に達している。もっとも心経は仏陀の言葉ではないけれどね。
でも最古の仏典の中にもこういう一節がある、歓びや偏執や識別を捨て、我がものという思い込みを制御して、移り変わる生存の状態にとどまるなかれ、ってね。つまり生まれたものや造られたもの、滅ぶものや喪われるものは真実ではないから、これに執著するのは迷妄だと言っているんだ。こっちは仏陀の言葉のオリジナルにかなり近い筈だよ」
彼女が双眸を濃く強く燦めかせた。僕は違う意味に解釈した。由伽が満足した若獅子のように顎をゆっくりと上下させて言う。
「斉肯の親戚ってお寺なのよね」
頷く。
「そうさ」
「いってみたいわ」
信じられない発言だった。彼女の真意を読もうと大急ぎで思考を凝らした。由伽の輝く微笑が楯のように探りを遮蔽する。何かの罠だと思ってもこみ上げるうれしさは抑え切れない。
そして数日後。
薙久蓑駅の改札前の軒下で柱に寄り添いながら由伽が来るまで雨を眺めていた。隣に住んでいるので待ち合わせる必要などない。直截彼女宅に迎えに行った。由伽は一度出て来た。だが雨樋の修理の為に外にいた僕の父と目を合わせた途端、先に駅まで行っていてちょうだいよと言って再び家に入ってしまったのだ。それで先に来て待っている。
寺に行くにはここから三つ目の駅、畝邨で降りればよい。すぐに三和畝山を背に茅葺の山門が鬱緑から覘かれ、楠や橅や楢や樫の木々の枝振りと屋根の渋色とが鼓鳴し合っている情景が見られる。
雨の貞観正國寺を思った。
蕭々と烟る空間に粛然とたたずむ姿。木葉が静止した霞のように濤声する。
七ヶ月前にも叔父が住職を勤める古刹を訪れていた。深夜から続いた氷雨が音を消して白くなり、首都圏には珍しく早く積雪のあった十二月九日だった。
その日、学校は午前中で終わりになった。家に着くなり父が出てきた。「悪いが勝也のところへ行って来てくれないか」 それが叔父の名だった。「金箔が切れたんだ。足りないのはわかっていたんだが、画材屋に頼めばすぐ持って来るのが常だったから油断した。点睛臥堂に電話したら今日に限って在庫がないと言う。
斉肯、俺は寺にさっき電話した。勝也が言うには、義父の昔使った残りがあるらしい。二日後の日斎記念美術館の落成式にどうしても間に合わせなければならん。行ってくれるな」
父は画家だった。白皙金髪碧眼で聳えるように骨格が大きく威厳にあふれ、逆らえない何かがあった。僕は頷く。
曾祖父の父がロシア人でロシア社会民主労働党、彼はペトログラードに住んでいたが一九一七年二月二十七日に二十七歳で祖国を出奔した。イタリアでギリシア人女性と結婚する。
曾祖父は一九四五年、二十五歳で家族を連れ、合衆国に渡り、苦節の末、画家で身を立てた。祖父は二十歳で来日、禅宗と書画との研究を続け、日本人女性と結婚する。一九六三年に日本で父が生まれた。
散々雪に降られ、缼けた石段を上がり、山門を抜けると右に向かった。玄関に入る。
三和土から、上がりの間に置かれた獅子図の衝立の向こうに叫ぶ。
「斉肯です。こんにちは!」
足音を響かせ、勝也叔父さんが破顔で迎えてくれた。
亡き祖父の書斎で待たされた。
書斎と言っても書院造風で蔵書はすべて書庫にあり、寂としている。先代の住職であった祖父は書家でも通っていた。
喝を喰らわされている気分だった。十八畳ばかりの部屋に祖父が工夫した大作、六曲一双の屏風が置かれている。見事に均等に貼られた金箔の上に、太筆の尖から滴る墨滴を擲って自在無礙に引き伸ばした筆致だった。右隻に「子不語」と鼓舞させ、左隻に「怪力亂神」と縦裂く如く下ろす。誰もが知る『論語』の一節であった。子、怪力乱神を語らず。何をか況や、だ。
坊主が儒教を語って悪い理由はない。仏陀は宗教の自由を認めていた。もっとも解脱直後に彼が言ったとされる言葉の中には「信仰を捨てよ」というのもあったらしいが。
批判したのはそのことではなかった。
祖父は古神道の秘儀を復活させた(と主張した)人だ。
寺が建立される遥か以前、恐らくは古墳時代から、三和畝山は聖域として崇められ、奈良時代に修験者が集ったという記録もある。祖父は口承のみで存在が伝えられていた受気比の儀を山と書蔵されていた和綴本の中から発掘し、大系づけて自ら『招魂之儀』と命名し喧伝した。
信憑性には相当な疑問符がつけられたらしかったが当時何人かの信奉者を生み、古神を呼び寄せ神意を伺うという目的の下、密かに執り行われたらしい。記名録帳という冊子に十数人の名前が載せられているのを、いつだか忘れたが見たことがあった。秘儀参加者の氏名で、かなり知的な職業の人間もいた。妙な気持がしたものだった。
ともかくもそれでいながら、子不語怪力亂神、とは。疑いを抱かない方がどうかしている。不可得、禅問答だ。
森としていた。
僕は刳り窓の障子紙の柔らかい光をぼんやりと見ているうちに、何だか怖くなってきた。前にもこんな気分を味わったことがある。
幼少の頃に、三和畝山に祖父と登ったときだ。七歳くらいだっただろうか。境内の裏奥が麓で、直線計測すれば五〇mくらいの高さしかない筈だったが苔深い岩やシダ類、細く細く垂迸る流れ等々に阻まれ細道を登ることはその年頃の者にはやや辛かった。四月の初旬で、若葉が照らされ透ける爽風の日だった。
中腹に磐が棚のようになった場所があり、着くと蒼穹と村のたたずむ谷の風景とが眺望できた。磐棚に磐洞があり、傍らに細剣のような御滝が小飛沫を上げて落ちている。一対の小さくて奇怪な神像が山門にある阿吽の仁王像のように護っていた。
「迦樓羅天さ」
祖父が教えてくれた。
「これは何?」
「それはな、サンスクリットという、古い古いインドの文字でな、ラジャスと読むのだ。火天のことさ。炎で身を清め、汚れを祓うのだ」
洞の中に行くのは怖かった。正午の明るさとは全然別の、目に見えない空間の存在を感じていたのだと思う。
「おじいちゃん、いやだよ」
「そうか。それならいい。おまえがな、ここの場所さえ憶えてくれれば、今はそれでいい。帰りたいか?」
「うん」
だが洞の奥にあって帳を掛けられた場所に無意識に視線を向けていた。僕らが蓋をして日頃忘れしまった何かが、解読できなくなってしまった言語のようにあった。古代不可思議の生命が封じ込められ、こちらを凝視しているような感じであった。
「あれが気になるか」
頷いた。
「あそこにはな、偉い神様がお祀りされているのだよ」
「何ていう神様なの?」
「摩醯首羅、大自在天という神様だ」
トイレに行きたくなり、胡座を解いて襖に向かった。ここでトイレとは厠と呼ばれ、家の外にある。部屋を出た。厠の手前まで渡り廊下が架けられている。屋根があっても壁がなければ冬は辛い。渡りの終に来る頃には冷え切った。段を下って草履に足を入れる。雪で濡れていた。
木扉を開ける。木製の朝顔には杉の葉が敷き詰められていた。
床につけられた小さな掃き出し窓から、どことなく苔っぽい土の匂いとしんしんとした雪の匂いとがする。
降雪が常緑樹の葉尖をかする音が聞こえるようだった。清楚な檜の馨が響くような気さえした。
寒さに震えながら書斎に戻っても未だ叔父は来ていなかった。また畳に坐した。
部屋の隅を見る。
置かれていた屏風の金箔がゆっくりと揺れるように大きく底光りしたと感じた。息を呑む。いや恐らくは気のせいだったのだ。周囲に首を廻らせる。違い棚や床の間にある唐物の器に目を遣った。活けられていたのは微動だにせぬ椿一刺しであった。古い掛け軸。異変はない。
再び金屏風に視線を戻す。墨蹟が在るだけだ。迫真し、あっと声を洩らす暇もなく僕を透り抜けた。何が起こったのか理解できない。なぜなら何も起こっていないからである。ただ在っただけであった。墨蹟はじっとしていた。今も言葉で説明しようとすれば舌がもつれる。
経験した刹那、祖父の書の内容と祖父の言行との不一致など色褪せ失われた。それしきのことにこだわることがあじけない偏執に思えた。むしろ不協和音の如く違和の観があってこそ却って存在を突出させ、躍動させているかのようであった。一概に捉えて苦笑するなど愚昧な行為だったと言わざるを得ない。いや作者は現在もどこかで僕らの苦笑を楽しんでいるのかもしれなかった。
怪力亂神を語らず、怪しげなことや蒙昧なことを口にしなかったの義。墨痕を以て之を飾り、自家撞着する業を執り行った。だがそれでこそ書蹟の闊達が一際映えるかのようでもある。
やがて大波のうねりのように緊張を孕みつつも緩やかな高揚、陶酔感に穏やかに浸されていった。襖が開く。
「斉肯、待たせてすまなかったな。これだ。お父さんに早速持って行ってくれ」
大人しい脱自は霧消した。
薙久蓑駅には雨が降り頻っている。
由伽は未だ来ない。
再び暗澹とした気分に返った。出掛けに父を見た途端に翻った彼女の態度が気になっていたのである。
傘を差してやって来た彼女はルージュやリップグロスやアイラインを施した顔で現われた。僕と小旅行するには必要なくても僕の父と顔を合わせる一瞬の為には必要だったというわけだ。
「ごめんね。待たせたわ」
言って切符を買った。憤慨の込み上げを覚える。
車窓から見る景色は一駅ごとにのどかさを深めた。口を利かない。由伽が気にしている様子はなかった。憤りが煽られまくる。一方的に気を揉んでいることが悔しい。抑える。堪らなくなってきた。
「さっきはどうして家に戻ったの」
彼女が振り向いた。少し口元で笑みを做し、やや上目づかいの眼差しに悪戯っぽい彩りを揺らめかせながら見つめる。
「何のこと?」
声に怒気を孕ませてしまった。
「だって、迎えに行ったら、先に行っていて、って言っただろう? 忘れたのか。いや、そんな筈があるもんか」
由伽は声を立てて笑った。
「ああ、忘れてないわ。大したことじゃないよ」
僕は諦めた。深追いしても意味はない。何とか思い報せてやりたい残虐な気持が脳髄に蔓延するが無駄なのだ。ますます嵌まって縛られ、より深く駈り立てられ、自業自得に陥るだけだ。
それでなくとも容姿や性格面で父に劣等感を持っていたから、嫉妬は余計に切ないものだった。せめて救いとなるのは彼女が心に掛けている男性が(少なくとも)もう一人いるということであった。自分にとって何ら有利な材料ではない、虚しい慰藉であったがないよりはましだった。同じ中学校のサッカー部主将、嘉ヶ谷獅狼のことだ。
僕は由伽が教室や、廊下で同級生と会話しながら、澄まして歩きながら、坐って窓の外を眺め遣りながら、彼を意識し効果を意図して振舞っているのを知っていた。余所の方を向きながらも強い視線を投げ続けるような素振りに度々気がついていた。
「やってやろうぜ」
サッカーの名門校、迫谷第一中学校との練習試合の日、彼は部員に気合を入れた。後半戦に驟雨が来た。0対3からの逆転ゴールを泥塗れで奪取した。
名前がB級系なのは仕方がない。左官屋の倅だった父親は元暴走族でまじめに働き出したのも束の間、獅狼が生まれてすぐに事故死した。幼稚園時代、母親が水商売で悪童らにからかわれた時期もあったが屈することはなかった。成長につれて顔が怜悧に尖り、動かし難い、坐った落ち着きを漂わせるようになると誰も何も言わなくなった。同じ年頃の少年らにはない凄みがあった。
そういう優位性の強い連中に自制心を失わせるのが由伽の趣味なのだ。
この時点で彼は動じていない。原則的に獅狼の好みではないせいだろう。だが彼女の燦然に敵う男なんているのだろうか。自分が男のせいか、どうも男には弱みがあるような気がしてならない。
彼女の貞観正國寺行きの目的に理由のない不安を覚えた。僕と出掛けたいのでないことは確かだった。僕の家族に関係あるのか。邪推が起こる。熟考せざるを得なくなっていた。だがどうにもわからなかった。
「畝邨駅、畝邨駅」
駅の呼称が連呼される。
書斎に坐って待たされていた。由伽が『招魂之儀』を修した人たちの記録を見たいと言い出したからだ。勝也叔父は目を丸くした。だが彼女の眼差しに頷くだけであった。
『慈雨』と題された記名録帳を叔父が持って入ってきた。
由伽は礼もそこそこにめくってはめくった頁を真剣に閲した。傍らに坐ったまま待つしかなった。
ようやく彼女が安堵の溜息を洩らす。僕は覗き込んだ。井伊耶聡史、由伽の父の名前だった。住所も間違いない。平成元年五月十六日。驚いたが何を意味するのかはわからなかった。彼女がここに来た真意に憶測が及ぶことすらかなわなかった。勝者の微笑を見せられてもわからなかった。
「いったい、どんな神を招来したのだろう」
探りを入れた。由伽が僕の知らないところにいってしまっていることに焦燥を覚えている。関心の失われた口調で返された。
「そこまでは記録していないようね」
雨の音が呟くように葉音を立てている。
由伽が言った。
「聖域に行ってみたいわ。雨も降り続いているしね。好きでしょう、雨が」
好きだった。どうして知っているのか当惑させるほど当然のことのような口ぶりだった。それが僕をとろかす。
ポンチョを借りて山に向かった。湿った涼しさが染透っている。雉が鳴撃した。髪が滴で頬に貼りつく。水気を帯びた空気が酸素と水分とで細胞を膨らませ、新たなる命を得させたかのように甦らせ、活性させた。ミトコンドリアがエネルギーを過剰生産しているような気分だった。彼女が森の精のように軽やかで美しい。僕も自己の存在を漲るもののように感じた。
神域なのだ。
陽勝が現われてきそうであった。平安時代の密教僧で三十三歳の時に忽然と比叡山を去った彼は後に恩真という僧侶に吉野の龍門寺で見られ、姿が余りに怪異であったことから神仙道に入ったと世に伝えられるようになった。目撃された陽勝は骨格から既に人と異なり、背には翼、全身を濃毛に覆われ、麒麟の如く天空を飛翔して行ってしまったと言う。
登るにつれて彼女は溌剌と笑い、生き生きとしてくるように見えた。小さな流れを飛び越えるとき、由伽は目を輝かせ、僕の腕にすがる。苔で滑る岩から岩へと足場に気をつけながら渡った。蔦草を引っ張って急な斜面を上がる。だが幼い頃の思い出とは違い、中腹までは呆気ないほどだった。
磐棚に着いた。動く曇天が仰げた。
洞の前衛に左右一対の迦樓羅天像がある。濡れそぼっている。岩が水気で滑らかに光沢している。細剣の御滝が白く迸って音声している。声明のようでもある。修験者の読経が樹幹や巖に今でも木霊しているかのようである。黒っぽく光る樹幹の皮や巖の膚の凹凸が侘びた床の茶掛の古筆のようでもある。枝尖の葉々が鼓を打つ間のように黙して存在している。
振り向いた。由伽がいた。あたりまえだった。だが僕は瞠目した。
雫を垂らすポンチョのフード、色が濃くなった髪のひとすじが左の瞼を縦に渡って唇のあたりまで垂れ、毛尖をわずかに曲げている。生誕したばかりのように水々しい。
彼女は輝いていた。大きく微笑む。ヘレネーだ、僕は思った。古代ギリシアの神話に現われる、スパルタ国王メネラーオスの妻。雷霆神ゼウスと人間であるレーダーとの間に生まれた娘。神の子であれば光燦めく美しさは凄まじかった。彼女は美貌ゆえに後にトロイア戦争の原因となった。レーダーがスパルタ国王テュンダレオースとの間にもうけた娘、クリュタイムネーストラーとは姉妹にあたるが人が孕ませた子と神が孕ませた子との差には根源的な異なりがあったと言う。クリュタイムネーストラーが醜かったのではない。ミュケーナイ王アガメムノンが彼女の夫タンタロスを殺し、タンタロスとの間にできた赤子を地面に叩きつけ、暴虐を以て奪い取ったほどの美しさであった。
由伽がさらに睛を睜く。ゴシック式建築の大聖堂にある薔薇窓だった。燐の如く煥り烱めく光射を放じ、その奥に燠火する炎が炮烙を( き)爍かせるも、燠火の奥にはこれより烈しい光芒の燦めきがあり、奥ほどにより炳焉かと做す。奥の奥、すなわち眞には燦爛の太日がある。
射抜かれた。僕は三〇㎝に縮まりその反動を以て勢いよく地面に我が身を叩きつけ爆裂し数千の破片となって放射状に烈火の如くに飛び散り拡がり狂裂の加速度で炎迸らせながら天穹を占拠、凌駕し乱舞した。身を裂きながら自らの顱頂骨を歓喜で踏み砕いて天翔け躍り狂操秘祭しまくったのだ。
小雨となった。道を下りながら自分が受けたインパクトを反芻していた。ところどころ難所で彼女の手を取りながら不思議な陶酔の伝播を覚えた。由伽も無言で笑顔を做す。僕は自己の存在というものをはっきりと感じていた。何かができるような、充溢した気分がその胎動の色彩をフォルムで明瞭にしていた。
帰りの電車の中で彼女が言った。
「私がただ斉肯を利用しているだけだと思っているでしょう。だからヒントをあげるわ。知る資格があればわかるものよ」
由伽が手渡す。
「『歳時記』? 何だ、これは」
「父の日記よ。十数年前のね」
「何で、そんなもの持ってきたの」
「いいから、ここを読んでよ」
「ええっと。
五月十六日。貞観正國寺にて修法する。兼ねてより聞く招魂之儀。日来禰老師の教導を仰ぐ。五日間の五穀断ち及び斎戒沐浴のため、顔色悪しと妻に言われるも気にせず。御山に登り、御神域の奥の院たる洞にて祈祷すも成果なし。落胆甚だし。ただし胸に去来する名状し難き感応あり。その何たるかを終に知らず。
何だよ、何も起こらなかったんだ。何でもないじゃん」
「そうよ。
さあ、次も読んでみて」
「ええ、まだ読むの?
五月十七日。未明に妻の長いうめきで目覚める。驚き見れば身を縮め痙攣著しい。慌て揺さぶれば目を開き、茫とした遠き顔しばし。やがて眠たげに何でもないと言い、臥せ寝る。悪しき夢でも見たかと」
「ああ、もうそこまででいいわ」
「何だよ、半端だな」
「充分よ」
「これが何だって言うの」
由伽はそれには応えなかった。
「ねえ、斉肯は私たちの家の間にあった騒動のこと、知っている?」
「知らない」
実は少し知っていた。と言うより雰囲気を感じたことが何度かあった。大人は教えてくれなかった。だから殆ど知らない。
「憶えてないのね。私たちが二歳か、三歳ぐらいのときよ」
「じゃあ、憶えているわけないじゃないか」
「私、記憶があるわ」
「どうせ。僕はばかさ」
「ねえ、すねたって足しにならないのよ。冗談ならともかく、自分で自分をばかだって言うのは腹いせ的な自虐行為よ。そうあって欲しくないのにうまくいかないからふてくされているだけなのよ。そのぐらい、自分でわかるでしょう。ばからしいわ。無意味よ。だったら欲しいものを求めなさい。欲しいものがあるのにそれを得ようとしないなんて自己矛盾だわ」
「うるさいな。わかったよ。由伽は悧巧さ。それで?」
彼女はどうでもいい、と言うように目を細めてから、
「私って、親に似てないでしょう。母にも父にも」
「そうだね」
「それだけじゃなくって、欧米人みたいでしょう、顔が」
「ああ」
「斉肯のお父さんはハーフよね」
心臓が一気に仰天した。
「何だよ、それ」 動揺を隠そうにも言うのがやっとだった。
「でしょ。誰でもそう考えるわ。でも安心して。斉肯と私とは腹違いの姉弟じゃないわ」
「どうして由伽が姉だって決めつけるわけ。僕の方が早く生まれているんだよ」
「ほんとうに細かい男ね。どっちでもいいでしょう、現実じゃないんだから。
ともかくね、それでうちの父方の親戚が騒ぎ出し、お父さんも疑心暗鬼に苦しむようになった、らしいのよ」
驚くべき話だったが妙にうれしくもあった。何であれ、彼女と僕とが繫がりを持つ事件があったのだ。
「血液検査ではっきりするだろう」
「したらしいわ。それで落着したのよ。でも斉肯のお父さんはきっと凄く怒ったでしょうね。いわれなく不名誉な濡れ衣を着せられたんだから」
「多分ね。あの親父なら相当憤ったと思うよ。でもそんな大変なことがあったなんて全然気がつかなかったよ」
「男の子って、そんなものね」
「で? それが今回の訪問と関係があるの? 言ってくれよ」
不安に駈られて抑え切れなくなりつつあった。
「少しね。でも後は自分で考えてみて。私からは言いたくないわ」
「何だよ、どういうこと? はっきりしろよ。何で言いたくないんだよ。教えろってば」
「言いたくないのよ。理由はあるわ。ねえ、斉肯、私、いやなの。言いたくない。斉肯に考えて欲しい。私にそれを見せて。斉肯が自分で考えられる人だから、私はあの瞬間を共有したのよ。それがわからないの」
刹那的に有頂天を覚えた。だが猜疑心の強い心が小躍りしながら打ち砕いた。企みだよ、他に意図があるんだ、と。愚かなことだったが趣味なのだからしようがない。
ともあれ、猜疑がどのように嘲り、愚弄し、自らを剋逆しようと舌なめずりしても、くっきりと歓びが心に痕を残していた。女性に好意を持たれたかもしれない、征服したかもしれないという予感は男に絶大な自己信頼感を与えるものだ。低劣な感情だと蔑まれてもこの本能は強烈なものだった。
ましてや僕には半ば無意識にと言ってもよいくらい当然のこととして、自分を特殊な、特別な人間だと思い込む風があったから相乗効果的に舞い上がった。
家の前で彼女と別れ、自室にこもった。姿勢を正して坐る。
漲りが炎となる。墨で縁取られ、激しく熾える炎。アッシリアの壁面に浮き彫られた獅子のように。楯の紋章のように。見えず触れられもせぬそれがいとも簡単に実在して明晰化する。
やはり天才なのだ、そう思った。祖父の金屏風の墨痕によって象られた裂帛の喝が身に嵌まったかのように意識が冴え、周囲のものが染入るように鮮烈に映えた。椅子やペンやポオ小説全集やノートパソコンや更紗のクッションや去年のカレンダーに挿し入れられたギュスターヴ・モロオの画が実に親しみ深くありありと実在する。単にカレンダーやクッションやパソコンであるという一面性を超えて、ただかくあることの不思議が言語を絶して無限の多義性の豊穣を開示し、迫真する。すべてが一義的な諸概念の被膜を突き破ってそのあるがままを露呈し、真実を以て網膜中央窩を貫く。存在するということが圧倒的な意味を以て僕を領する。
この拡がりの感じは軽やかで、自由で、晰らかで、清冽で、日常がいかに惨めに囚われ封ぜられた矮小、狭隘、重苦しいものであるかを思わずにいられなかった。曙光時のギザのピラミッドの頂上に立って三角の尖から噴き上げるエネルギーに煽られ浮上するような、蒼穹の広大に目を睜る瞬間のような感覚があった。
自分自身が真理そのものとなったと感じる。自分が真理に合致したとかと言うのでなく、真理という言葉が僕を示して言う言葉であるということだ。軌跡が後から真理だと称されるようになる、そういう意味だ。
発想的には多分にフリードリヒ・ニーチェの影響があった。当時は剽窃だとは考えない。自らの叡智だと考えていた。今思えば儚い夢想に等しい。由伽に恋していた。気持は身体を突き破っていた。抑えられない、烈しい感情だった。
仕方のないことだ。生命は躍動する。大宇宙が加速度を上昇させてひたすら拡張し続けているのだから。
いずれにせよ以来、由伽と僕との距離はかなり近づくこととなった。傀儡の自信が為せる奇跡だった。
よく時をともに過ごし、教室に並んで坐り語らい、時々一緒に下校した。ただし学校以外で会うことはまだなかった。じきに決行するつもりでいたがどこかに気後れがあり足を引っ張っていた。心因を自己分析した。自信のなさ、すなわち未来に起こるかもしれない対象喪失への危惧、ありきたりな答が出る。だがわかっても足しにならなかった。心はどうしようもない。
本来的に彼女と対等に渡り合える類の男ではないのだ。意気阻喪も無理からぬことだ。だが由伽もいつか言ったように、そんなことを慮って何の意味があるだろうか。自分を陥れることを自らに為すことにいかなる意義があるか。正面から立ち向かうことを逃れ、容赦と助けとを求める甘えでしかない。現実は微動さえしない。欲しいなら選択肢はないのだ。
だから一向進捗せずとも『由伽』を続けた。やめようとしたってやめられる筈がなかった。
半ば暗鬱な不安に揺さぶられながらも幸福な日々だったと思う。時には天空もろともに舞い上がるような飛翔感に包まれることもあった。自転する大地とともに大宇宙を滑空する轟音の感覚だった。
特に放課後の教室で長く語り合ったときのことが忘れられない。会話の最中に僕に訪れた恩寵のことを今再び想起するとすうっと胸郭が開く心地がする。あれもまた邂逅の一瞬であった。
放課後の教室で由伽は言った。
「トレドに行ったときね、ちょうど元旦だったのよ。もう何年前かしら、九歳のときよ。街自体は閑かだったけれど、けっこう観光客はいたわ。マドリッドからバスで来るのね。
カテドラルは閉まっていて入れなかったんだけれど割と近いところ、って言ってもトレドって小さな街だから遠い場所なんてないんだけれど、優しい感じの礼拝堂があってね、そこは開放されていたの。
祭壇の前には蝋燭がいっぱい立てられ灯されてあったわ。
そして隣に部屋があったんだ。大きなガラス窓があってその中が見えるの。それでね、そこに小柄な太ったシスターがいて、木製の椅子に坐って暖かそうに居眠りしていたのよ。多分、見張番みたいなことをしていたんだろうけれどね。絵みたいで、私そのとき、いいなあって思ったんだ。
それから街の端に行ってタホ川を見下ろしたのよ。ほんとうにトレドってぐるりと川に囲まれているのよね。乾いた大地で、緩やかな大河に囲まれた丘。それが街なのよ。
いい気持だったわ。エトランゼになるのって開放された気分になるの。実存な気分になるのよ。全部が新鮮だからヴィヴィッドに感じられるのよね。自分が甦るの。
だからいつでもそうしようって考えたわ」
聴き入りながら自然とトレドの街の空想に浸っていた。写真でしか見たことがない。他にはエル・グレコの絵で観ただけだ。経験の差異をどうしたらよいのか。彼女は別の経験を生きる存在なのだと切に感じる。
追いつこうともがいた。彼女と同じ位置、同じ地平にいる人間に見られるように当然の顔をして振舞った。
「わかるよ。
人間は普遍性を求める生き物なんだ。自己の主観に囚われない、現実に即した見解に、一般性に至ろうとする生き物なんだよ。それがヴィヴィッドで心地よいのさ。
何かを見るときも『それが自分にとって何であるか』という主観的な立場から見るより、客観的な他者の視点、自分を超越した立場から見ることができた方が崇高な解放感を味わえるんだ。
それに自分を超えた視点で見た方が物事が様々な様相を見せてくれるじゃないか。物事を多義的に見られるってことは自己超越しているってこと、主観的立場に囚われていないってことなんだ。それが清々しい拡がりの快感を招くんだ。
拡張し続けようとするエネルギーというものの性質だと思う。僕はそれを炎と感じる。炎は人間の飛躍の象徴だ。エネルギーの象徴だ。
こういう転換した考え方は人間にしかできない。
炎は動物たちにとっては危険な熱さでしかない。彼らにとって物象は自分にとってそれが今何であるかでしかない。旨いか、安全か、それは行動を促すシグナルのようなものだ。自分のことを一度離れて炎一般という考えを持つことができない。彼らは炎を見ていない。知らない。熱エネルギーの物的現象だという考えがない。だから転用できない。与えられた環境世界に、自己の世界に封ぜられている。主観的な立場に閉じ込められている。
ねえ、ヴォルフガング・ケーラーの『類人猿の知恵試験』っていう本を知っている? 彼は興味深い実験をしたんだ。
猿が道具を使う知能を持っていることは知っているよね。手の届かない高いところに置かれたバナナを棒で叩き落すとかね。でも棒とバナナとが同じ場所に近接していないとできない。同じ棒であっても離れたところに置かれているとできない。バナナの傍にあるときはバナナを手に入れる道具として心に訴えるが離れて置かれた場合には異なった現象として映るからだ。同じものの異なった状態だという風に捉えられない。
だがどちらかと言えばその方がものを現われのままに見ているのだと言えないだろうか。この世に同じ棒が二つとないように時や場所が変わればそれがその都度その都度の異なる現われだと見る方がその見えるがままだと言えるのではないか。
むしろ人間が長さも色も太さも違う棒を、同じく棒として捉えられることの方が異常なのではないか。つまりその都度その都度の現われに囚われ、物事が一過性でしかない方が自然だ。一々の現象で尽きて終わらず、これを超えて、棒一般という概念を持つことの方が特異だ。
だがそれによって物象を、自分を超越した存在、自分がいようがいまいが、見えようが見えまいが関係なく、独立して存在する一個の存在者、『もの』として見ることができる。こうしたときはじめて棒の特徴を持ったものを形状や長短に関係なく棒として捉え、利用することができるようになる。動物たちには『もの』という概念がない。他者を認められない。肯定できない。自己に封ぜられている。存在者を認め、これらが系を織りなして做す『世界』という概念を持っていること自体が自己超越なんだ。だからマルティン・ハイデガーは『世界へと超越する』と言った。サルトルはこれを誤って解釈して『世界を超越する』と言ったらしいけれどね。
封ぜられずに自己を超越して新たな地平が開ける邂逅の瞬間のエクスタシス、その起源は人間もまたエネルギー態であり、エネルギー態であることが有する必然性からやって来るものだと思う」
言いながら次々湧き上がる自分の考えに興奮させられていた。焦りながら語り出し、いつしか夢中になり、喋っている内容とシンクロしていったのだ。由伽が薄く笑った。目を細めると小波に曙があたるように光粒が燦めく。
「ふ。そうかしら。
まあ、斉肯らしいわ。でも動物愛護家が聞いたら怒るよ。そんなに言うもんじゃないわ。人間だってまだまだ自己に封ぜられているわ。もしそうでないならストーカーみたいな人の執著はないんじゃないかしら。それにすべての意識はそもそも自分自身への配慮や気遣いから生まれて来るものでしょう。
斉肯が今言ったような、一般性の概念は自己を超越して他者を認める為の優れた方法論だけれど、棒をただ平明な棒という一概に完結させてしまう危険性もあるわ。と言うか、現状見る限り誰もがそこに陥っているよ。
棒を棒一般と見てしまえばそれがかつて樹齢百数十年の古樫木の枝であったり、捉え難い枯淡の味わいを醸す木膚の凹凸であったり、杖であったり、太古の剣であったり、男根の象徴であったりする単なる棒以外の諸々の意味を失って生命を喪う。
存在することの不思議や、私たちを圧倒して超越させる天啓のような感銘を失うのよ。棒がただ棒であることがどれだけ凄いことかっていう、現実の真の存在性から離れちゃうわ。
これこれはこういうものだと収斂することはある意味、安逸で無難かもしれないけれど殆ど緩慢な死に等しいし、何より本人が気持の高揚もなく腐敗して倦怠と感じるでしょうね。やがて神経症的で狭隘な自己執著に嵌まってしまうわ。
一般性の概念に達すること自体がよいことなんじゃないの、囚われていないことが大事なのよ。
平明な概念に定着してしまえば自己の殻にいるのと同じよ。自己に封ぜられるのと同一の原理が働くわ。それに囚われて我が身を慮り、一喜一憂に追われ、駈られて人生を苦悩に費やすのよ。
楽しくないわ。物事を無味乾燥にするし、リアリティ感を喪失させ、生命を枯れさせることになるから。
それでもずり落ちるように舞い戻りたがるのはまだまだ動物時代の古巣の温もりが忘れられないってことね。そういう性向を強く責める気持はない。仕方がないことよ。大概の人間は平和になれば仕事や家族のことに封ぜられ埋没し、苦難の時代が続けば精神は虐げられ、寒さを防ぐことや、飢えを凌ぐことに心を砕いて封ぜられるわ。でもそれを責められる人も余りいないでしょう。
囚われないことは愛や正義にも囚われないことを意味するのよ。家族や恋人という特定の対象への愛執を否定し、どのように自己の権利が侵害されてもこれを赦すことなのよ」
「だから仏陀は悟りを開いた直後、そのままそれを誰にも言わず入滅(死)しようとした。彼は自分の見証した真理は社会の基盤を根底から覆してしまうだろうと言っていた」
「一概じゃ捉えられない、多義の無際限な揺らぎを受諾することや、我が心得のものという思いを做す本質的実体が在るっていう妄執を持たずにいるってことは言うほど生易しいことじゃないのよね。物事が遷移することや、底もなく推移する時間性を本気で受け入れるには天凛の才能か長期的超人的努力が必要だわ。縁起説や無常観なんて太古から言われているのにどうしても認められないのはそのせいよ。
ただ一つ晰らかに言えるのは封ぜられることなく他者を認められリアリティに生きていられること、因襲的固執から離れてできる限り多くを斉しく感じられることがすごい快楽だってことよ。これが最上最善なのはもう必然。斉肯がさっき言ったみたいにエネルギーのより強烈強大な放埓を誰もが求めている、欣求せずにいられない。是非を顧慮する余地なんかまったくないわ。
だって楽で一番気持がよいじゃない。収斂へと衰退するのも楽で気持がよいから為されることなのよ。二番目や五十番目に気持がよいより最高に気持がよいことを欲しがるのは当然だわ。欲しがるって言ったって執著じゃないよ。
大事なのは一般性への覚醒やリアリティそれ自体じゃなくてこのこと、いつだって外部ってことよね。そこのところを穿き違えちゃうとCOMING DOWN AGAIN, 主観の内部に私たちを軟禁しようとして為し尽せなかった亡霊の恨みが一概主義となって甦っちゃうのよ。
ねえ、ところで斉肯。話は興味深いけれど、それなら私のことを完全に独立した一個の存在として見られる?」
言った刹那の彼女は椅子の背に軽く左肘をあずけている。窓の外の夏を背景に髪の輪郭がコロナのように映えた。
黄金色に盛る火焔の光背のようであった。薄茶色の目が薄い翠色へと移ろい、瞬時に閃いて虹彩の做す放射状の一本一本が青や蒼や碧や紺や藍や青紫など青系の異なった光燦に熾ったように錯覚される。
ある筈のない薔薇の匂いが漂うのを感じた。由伽の皮膚の柔らかみのように甘やかで初々しい。
激しく陶酔した。彼女の形態こそは真実の存在の神髄だと晰らかに確信をし、衝撃を受けた。
真実である美しさを持つ由伽をどうして愛さずにいられようか。
誇らかに宣言できた。自己の主観的な立場に封じ込められている、と。少なくとも由伽に関する限りは紛いようもない。もし一個の独立した存在として完全に認められるのなら嫉妬が起こる筈がない。彼女は二時間目が終わった後、廊下で獅狼と語り、笑っていた。今日に限らず頻繁にあることだ。その度に暗い感情が胸を襲う。だがそれすらないなら恋愛などあり得ない。嫉妬が醜いとしても誰をも平等に愛してどうして恋慕の激しい情熱が成立するだろうか。
放課後になる。その日は由伽と一緒に帰らなかった。毎日二人で帰宅するわけではない。だからどうしてそうなったか今では経緯が定かではない。思うに彼女の計らいがあったせいだろう。
自室で本を読んでいたが午後六時頃、胸騒ぎがした。獅狼と由伽とが階段の手すりにもたれて何かを囁いていた日のことが彷彿とし、どす黒いものが胸を占拠して呼吸をふさいだ。
苦しくていられなくなり電話をかけた。数回の呼び出し音が動悸を駆り立て長く感じられた。
「何?」
棘のある言い方だった。邪魔をされたようかのようだと直感した。
「いや、別に。どうしているかなと思って。元気?」
明るく言えるように努めたが声は震えた。
「あたりまえでしょう。今日、学校で会ったじゃない。ねえ、私、忙しいの。後にして」
切られた。
七時まで悶絶した。
堪り兼ねてコールした。
「どうしたの? なに?」
「だから、その」
「何よ。早く言って」
「どうして?」
「何。早く、早く」
「用事はないけれど、由伽の声が聞きたかったのさ」
「わかったわ。後でね」
切られた。
耐えようとした。なぜそんなに急ぐのか。何かとても楽しんでいる最中を中断されたかのようではないか。夢中になっているのか。僕のことが眼中に入らなくなっているのか。自分の存在が拒絶され、否定された疎外感が自己の基礎を穿った。耐え難い動揺が僕を凌駕する。我慢は十分が限界だった。携帯電話つかむ。
「ねえ、由伽。今どこにいるの?」
言ってしまった。そんなことを訊く権利があるのか。
「自分の部屋よ。おかしい?」
だが電話を通して耳に入る音楽に違和感があった。
「由伽、お願いだ、ほんとうのことを言ってくれ」
支柱はなくなり、自制のすべてを失っていた。
一秒の沈黙。
「言っているわ。いい? じゃあね」
切られた。かけた。
「何で? いい、私、もう電話に出ないよ」
だが怒っている彼女がときどき小さく笑うのだ。くすぐられているように聞こえた。
雷霆に打たれた衝撃だった。受話口の向こうから男の小声がした。何を言っているかは聴き取れない。激情に呑みこまれて憤りのままに叫ぶ。
「由伽、そこにいるのは誰だっ! 獅狼だろう?」
切られた。
生まれてはじめて味わう胸裂ける苦しみに心臓が重くなり息も吐けず、ベッドの上で七転八倒した。食事もとれず、眠れもしなかった。
翌日、学校を休んだ。
復讐的な気持だった。意味を為さないことはわかっていたが訴えたい情動からだった。激しい気持に駈られ、せずにいられない。彼女は僕のものじゃない。承知している。だが感情をどうしたらいいのか。自棄の自虐だった。
翌々朝は重い身を起こし、鞄を持って出た。校舎が見えると由伽に会ったらどうしようかと怖れている自分に気がつき、腹立たしくなった。教室に入る。
由伽とは目を合わせなかった。敢えて無視する。着席後、横目を使った。彼女はいつもどおりだ。
憤りが滾る。だが昼休みが過ぎる頃にはもう堪らなくなっていた。
五校時目が始まる五分前、トイレから一人で出てきた由伽を捉えた。
「ちょっと待ってくれ」
「何」
怒っている様子はなかった。表情はマネキンのように端整で滑らかだった。どうして彼女だけがこうも一方的に優位なのだ。何を喋ってよいかわからない。
「悪かったよ」
心にもなく言ってしまった。由伽が眼を緩めた。
「気にしてないわ」
平然として他意のない双眸が明晰で僕は目を伏せざるを得ない。なぜ獅狼(若しくは誰か他の男)といちゃついて猥雑な微笑を含ませていた女がこんなにもしっかりとした大人の態度でいられるのか。自然の做す暴力としか思えなかった。彼女に見据えられていた。余りに普通で、乖離を感じさせる。
「斉肯、授業が始まるわよ」
堰が壊れた。
「好きだったんだ、由伽。ずっと前から」
彼女の下瞼が少し上がった。
「今その話はできないでしょう?」
由伽だけが冷静でいられ、なぜに僕がこんなにも苦しまなければならないのか。彼女は背を向け教室に行こうとした。
「待てよっ、獅狼と何をしていたんだ」
由伽が振り返り、過剰な透明度の湖水の眼差しで強く見た。
「ねえ、勝手な言い方かもしれないけれど、斉肯。
リアリティを見て」
言って溜息を吐く。自分の眉が歪むのがわかった。
「よくわからないよ、それ。でも由伽を失うことはできない」
僕を見据えたまま顎をゆっくり上下して頷く。
「それでいいわ」
彼女の澄んだ表情は壁であった。僕は一人の人間として見られていた。奥には入れなかった。心が開いていなければ融和はない。何をしても通じない決定があった。どうやっても無駄だと悟らせるものがあった。彼女によって閉ざされ、自分自身によって封ぜられていた僕には自分を拒絶する壁としか見えなかった。他者という概念となって聳えていた。それに耐えられずに由伽に寄りすがっていた。
壁の内側に獅狼の存在が生々しく幻視される。怜悧な風貌の眉根を歪めて嘲るように好色を浮かべている。愚痴だと思っても思うだけで獅狼が、少なくとも僕以外の誰かが由伽の中に大事にされているという煩悶は消えない。浅ましい性根、自分のことに封ぜられているときにはどうしようもないのだ。背を火で炙られたように身を裂いてでも疾駆する他があり得ない。その日は既に終業式、明日から夏休みであった。
晴天が続いた。
部屋にこもり続け、考えられず、苦しみ抜いただけであった。起き上がれない。力が入らない。横たわっているのが精一杯だった。呼吸が口腔でかすれる。鼓動は脆弱になった。一週間後、ようやく苦しみから逃れたいという希求が生じた。生命の最後のあがきだと感じた。感じられること自体が生存への意志の巻き返しのように思えた。何でもよいから救って欲しかった。
由伽と貞観正國寺に行った直後の自分が懐かしい。様々な不安や猜疑に揺らぎながらも自信に漲っていた。好かれ認められているかもしれないという期待が自己への信頼を高めていた。自己肯定の安寧にいられた。それが崩れて自身の根底を喪い、不安に動揺し切っている。苦しみはそこから噴出する自己否定への限りのない抵抗運動だ。だが抗し切れなくなれば憤りまた涙する。怒りは諦め切れぬ事実をなかったことにしようとして果たせず代償的に迸らせる復讐行為で、幼子が思い通りにならぬときに手足をばたばたとさせる行為と構造的に同じだ。失われた恋を哀しむのは自己憐憫で、苦しみを切ない感傷的な旋律と做して逃避する、苦役を擲つような行為、良く解釈しても休息的な行為といったところだ。
自己肯定が損なわれると人間は存在の不安に駈られ、溺れる者が浮き草にさえもしがみつこうとするように狂気の如くあがく。対象の喪失が底なしの虚無を以て存在の危機を切迫させる。このまま負けることは淘汰されることを意味した。
よい筈がない。自分が不幸だからだ。
ままならぬ身体を置いて意志だけでも、嘴の尖だけでも遥かな真夏の蒼穹の彼方へと傾けようと試みた。辛くてもやらなければならない。楽しいことだって必ずあると無理矢理にでも想い做そうとした。
一瞬たりとも止まらぬ心よ、鎮まれ、静かになれ。よく考えるんだ。お願いだから思考させてくれ。
もう一度自らを真理と見做せるようにならなくてはならない。そうなれば封ぜられない。自らを真理と見做すことができれば対象への依存度が弱まる筈だからだ。弱まれば固執が和らぐ。由伽への執著が緩めば苦悩から癒やされる。
依存度の強度は不安度の強度であり、苦悩度の激度を示す。自己肯定の弱度でもある。自己執著の強度とも密接である。
自己に囚われ、主観的な立場に封ぜられていることがなぜ弊害であるかと言えばこれらの問題があるからだ。良くも悪くもない。ただ現実、それだけだ。僕はまっぴらご免だというだけだ。
顧みれば自信に漲っていた頃は開かれていて、様々なものが輝くような豊穣を以て目に映っていた。自ずと関心が自己を超越していた。囚われ封ぜられていなかった。対象喪失への危惧が霧となり、その苦しみも深く穿たず、未来への希望が膨らみ、肯定感にも厚みがあった。凪のように心が静まった瞬間には一切が不安とはまったく無縁でその自在感により自己肯定が充電されていた。
今度は彼女抜きで為さなければならない。大人になれ。由伽が裏切ったわけではない。何かを約束したこともない。こんなにも感情に裂ける必然性はまったくない。
こう考えるのが常識だ。大したことじゃない。普通に成熟するんだ。現実を直視すればいいんだ。
ただ自己の主観的立場に閉じ込められているだけにすぎない。彼女だけに妄執し、それだけに寄りすがり、自己肯定の根拠として依存し続け、鼻に輪を掛けられた家畜となってしまっただけのことだ。拠りどころをそれしか持たず、容易く一喜一憂する始末となり、より深みに嵌まった。あっと言う間に引きずり廻したい放題に引きずり廻される奴隷同然となってしまったにすぎない。
思慮する。自分がかつてあった肯定的な状態を精確に思い出し、忠実に再現してみようと試みた。
まずは真理である状態を具体的にイメージする。胸中に光を置いた。それは普通に見られるただの光であってはならなかった。ダイヤモンドの燦めきをもっと強く濃くしたものでなければならなかった。終わったら今度はそれを膨らませ、全身を包ませる。行為の跡が光の軌跡になることを思い描いた。これに照らされすべての存在者が開示され、存在が可能となるような、最も透明な光を振り撒く。
だめだった。到底見込みのありそうな感じではなかった。
想念を凝らそうとしても由伽のことが繰り返し繰り返し脳裏に甦るだけで、気力を奪い気管をふさぎ心臓を絞める。苦しさの前にはただの言葉でしかない。現実感がない。腹立ち紛れに考える。いったい誰がこの肉体の主宰者なのか、と。少なくとも僕は部外者、他人だ。ただ受益と負担とだけがある。
冷静になるんだ、斉肯。感情に囚われるな。叡智こそがおまえ自身だと思え、嘘でもいいからそう思え。それで構わないんだ。
観想による方法は間違いではなかったかもしれない。恐らくは時間をかければ可能だったのかもしれない。だが瀕死の人間に必要なのは即効薬若しくは応急処置だった。
自分の想像を現実であるかのように思い込むことなんてできないと見切った。やはり外的要因だ。
本棚で本を探す。『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』の完訳本を持っていた筈であった。所謂『理趣経』のことだ。経名の意味は「大いなる楽は金剛の如く不変で空しからず真実であるという深い瞑想を示す( ス)経」(ラ)ということらしい。『大日経(大毘廬遮那成仏神変加持経)』や『金剛頂経(金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経)』と並び称される密教の根本経典の一つである。
素敵なタイトルだ。まず不変というのが頼もしい。人間は皆一つの苦難を乗り越えても必ずや後に別の壁に衝突してしまうものだ。大いなる楽が不変だと言ってくれるのは有り難い。
また大いなる楽は空しからず真実なのだ。楽とは涅槃を究竟した境地のことだろうが、どうも楽というと軽いイメージがあり、正義とか真実とかいうのが重用され易い。だから楽を真実だと言い切ってくれるのは今一つ快癒に本気になれない情態に大義を与えてくれる。
併せて現成生身成仏を言うこの経の中になら何かヒントになる記述がないかと苦し紛れに思案したのだ。
だが肝心の本が見つからない。腹が立って書棚の文庫本をぶちまけた。やっちゃいけないと思うと余計矯激な気分になる。撒き散らしたものを蹴り上げた。
後悔したが後悔などしていても意味がない。さっさと片づけながら考えた。追い込まれている。転換が必要だ。並べ終えてベッドに坐る。茫漠ととりとめもなく考慮し続けた。心の一切を新しく入れ替えてしまいたい。岩狭間に迸る水のように、山肌を這う雲烟や谿の霞のように清冽になりたい。衝動が性急に過ぎった。
やはり三和畝山か。そう思った。神頼み的だが聖域で見入った様々なことが記憶に現われたのだ。さ緑と黒い巖、迸る流水、古木の樹幹。神域と呼ぶに相応しい雰囲気が強く心に訴えた。決めた。
「じゃあ、叔父さんに電話しておいてよ。僕が言っただけじゃ、向こうも心配するだろうから。母さんから言えば何も問題ないじゃない。二、三日ばかり、お寺に行って夏休みの勉強がしたい、ただそれだけだよ」
両親に嘘を言った。
翌七月二十八日はまたもや雨だった。薙久蓑駅まで来ると幾分感傷が狭霧した。まだ一ヶ月と経っていないのだ。随分以前のことのように思える。通勤する顔々は月曜日の憂鬱に閉ざされ異物の如くに映った。映ってはいたが心に気遣われていない。軒下にすぐある自動券売機や、改札口を入る前から覘ける狭い待合所や待合所越しに見える一番線ホームの様子などが無関係な画像として視神経を走った。アナウンスが遠く響く。
列車は緩やかに車輪を転じた。
畝邨駅の短いプラットホームに降りる。
海側の南口に出るには線路を横切らなければならないが寺は山側だ。北口を出た。高い生垣や古い土塀の細道を曲がり、参道に入る。石灯籠が雫を垂らす。
石段を上がりながら何度も由伽との最後の電話を思い出した。辛い事実を入念に凝視し続けた。失恋時においては忘れることが常道と言える。だがそれでは同じようなことが起こったときに同じ状態になる可能性がある。いくらかの経験で耐性を養っても結局繰り返しになってしまうことが想定される。根治療が欲しかった。なお欲を言えば不変でありたかった。当然できやしないが近づきたい。だから敢えて思い起こしていた。それにどうせ忘れようとしたっていつの間にか考えてしまっているのである。同じことだった。雨滴が頬を打っていた。やってやる。
見上げると伽藍が迫った。その向こうにある三和畝山を見据えた。山には霧が移動している。
「今日はやめておきなさい。この天気だ。しかも今来たばかりじゃないか」
叔父の言葉に振り向きもせず支度し続けた。心は山を見た瞬間に固まっていた。聖なる場所で聖なる行為をする。根拠なんてどうでもよいから、神聖なものを用い、正しいと思える行為を神域で実践する。わけがわからない思いつきだが自分にわかるようなことではもはや打開は不可能なのだ。後は考えていなかった。炸け散ってやる。ただそれだけ決めていた。
「叔父さん、大した雨じゃないし、標高三百数十mの山に登るわけでもない。ちょっと急な丘だ。どうってことない、大丈夫だよ」
着替えた。廊下に出る。用を足しておいた方がよい。
厠に入る。木製の朝顔をまたいだ。苔の馨りがする。土の匂い、湿った空気の感触とともに木の葉を打つ雨の静寂。杉の葉のエキスが空中を漂い、檜の清楚がある。
そういったものの侵入を次々と受けた。鮮烈さに感受を奪われた。久しぶりに外部を味わうことができたのだ。来てよかった。同時に様々な思考が息を吹き返し始め、諸々の想念が過ぎる。そうか。
三和畝山の麓に立った。と言っても境内の裏庭みたいなものだ。
レインコートのフードを被って頼りない道を登り始めた。
ただ踏まれただけの地面は柔らかかった。厠より強く土の匂いが襲う。多方面に感覚の触手を伸ばすよう努めた。楠の緑を眺め、橅の黒っぽい幹を愛で、下草を見渡しながら、勢いよく傾斜を踏んだ。鳥の鳴き声に耳を傾けることも忘れてはならない。心を内に込めるな。ありのままの表層的外部へと向かうんだ。
流れの水をすくって飲んでみた。頬の内側や喉の粘膜にあたる冷たさがただ新鮮な水分の活き活きとした異物感としてあった。その沁み透る美味しさ、潤いは無限の多義性を氾濫させ、特定し得る何者でもないただ現実であった。
森閑としている。
速足になった。中腹の磐棚に達し、洞まで来たときには息が切れていた。背筋を正して坐すと磐膚の窪みに溜まっていた雨水が音を立てた。ズボンが浸かり、股間は水浸しになる。
持参した七つ折の『摩訶般若波羅蜜多心経』を懐から出した。背に紫の布が貼ってある。檀家の葬祭時に配布するものだ。濡れた手に紙がしなった。水滴にたちまち色を変える。荒々しく開いた。大声を張り上げて三回唱える。いくらか祓われた気分になる。未だ足りない。脱ぐ。
御滝の下に入った。心臓の鼓動を一拍止める冷たさが背骨を抜けた。剣ほどの径のか細い落水が頭蓋骨の継ぎ目から奥歯へ震動を響かせる。それ以外の音が聞こえない。
『理趣経』の題目を絶叫した。
「
大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品。
大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品。
大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品。
大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品。
大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品。
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大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品
」
素っ裸のまま洞に向かう。左の迦樓羅天像に接面して一度胸を反らし、方正な辞儀をする。右にも同様。彼らの面構えを見た。迦樓羅とは龍蛇を喰らう神鳥が仏教に取り入れられ、神格化されたものだと聞いている。古代日本のヤマタノオロチから本尊を守護する為にいるのか。強硬な威嚇の表情で微動だにしない。異国の神々は飽くまで馴染もうとせず、郷に従わず、自らを押し通そうとするのか。しかし既に彼らはここにいる。岳や谿の如く千年以上も存在していた。
次に大自在天の像が秘められている祭壇上の帳の前に立った。色究竟天という名の天に住むとされるこの神が単独で信仰されたという例は日本では殆どないらしい。また大自在天はヒンドゥー教でいうところのシヴァ神で、シヴァは破壊の神だと聞く。古代インドの暴風雨神ルドラに通ずるとも言うがルドラ神はインドに南下して来たアーリア人の、インドヨーロッパ系の神である。シヴァはドラヴィダ系の土着の神だったというのが通説のようだ。舞踊像が有名で、狂操秘祭の酒神ディオニュソスが連想される。生まれるや否やティーターン神族に襲来され、八つ裂きに裂かれた神、葡萄酒の造り方を伝え、密儀に狂熱する女たちを従えた神。この神を捕らえ、狂乱を制止しようとしたペンテウス王は熱狂女たちに獅子と誤認され、撲殺され、切断された。女たちの中には王の母もいたと言う。ディオニュソスの伝説には自由奔放と狂気と破壊とがまとわりついていた。
古代神は人類の心の奥に、底知れず多様に絡む色彩を移ろわせ、深く融通し合っては異なり、独りを取り上げ究めようとすれば多義性の杜の迷宮に陥れ、嘲るかの如く翻っている。
もしシヴァ神がルドラ神ならオリエントのバール神にも繫がる可能性がある。北欧神話のトール神やツール神、ギリシアの雷霆神ゼウスにも通ずるかもしれない。
由伽の父、井伊耶聡史が貞観正國寺で祖父の指導の下に招こうとした神の名が既に想像できていた。合掌。帳に喝声する。
「火天っ」
深く息を吸った。磐洞の湿った古い空気が聖域の凛冽を伴って肺臓に活性する。光の衣の威儀を正すかのようにしぐさしてから神妙に礼拝し、洞を飛び出る。
山頂を目指し、走った。雨が皮膚を連射する。声を挙げると口腔に浸入した。足が滑る。小枝や熊笹が腕にあたった。篠つく降りとなってきた。
彼女の父がいずれの神を招来しようとしたかを由伽も知っていた筈である。信じ難い推定を前提として彼女は確信していた。まったく以て呆れた、ばかばかしすぎる推定ではあったが山中の僕にはさほど奇天烈でもない。身体で多義性の豊穣を感知しているせいか。彼女にしてもそうだったに違いない。身体だからこそ信じられない事実であっても信じることができたのだ。由伽自身が誰よりも一番よくわかる筈ではないか。自らであることをどうして疑えようか。
彼女にとってみれば父親が事実、修法をしたかどうかを確認すればよいだけであった。ゼウスが人間の女を孕ませるのは常道である。井伊耶聡史は呼び出せなかったと日記に書いた。だが来たのだ。その晩の彼の妻のエクスタシーの叫びがそれを証す。だから由伽は僕にあの頁を見せたのだ。意味を教えろと僕が列車内で訴えても彼女が教えたくないと応えたのは無理もない。いくら由伽でも私は雷霆神ゼウスの娘ですとは言えなかっただろう。彼女はヘレネーやパーシパエーやアリアドネーと同じ類の人間なのだ。西欧人のような顔立ち、両親に似ておらず、光り輝くように美しい。
血液検査をクリアしたのも神技というわけだ。笑える。嘘でもほんとうでも構わない。
雲烟の過ぎる山頂が見上げられた。しかしこの山に触れられるほど低い雲があり得るのか。見上げると雨水が目にあふれてものが歪む。熊笹がしなって騒いだ。厳樫の大枝が唸る。高まるにつれ風が強まる。手で眼窩をぬぐった。転んだ。泥に塗れた。最後の大磐にしがみつく。上が山頂であった。
由伽が貞観正國寺に来たのは出生の秘密を客観的に確認したかっただけではなかったと思う。それも一つであったに違いないが記名録帳をめくっていたときの態度にはそれだけではない凄みがあった。母親の不倫がなかったことを併せて確かめたかったのか。そういうことだ。彼女は不倫がなかったことをも確認したかったのだ。だが母の貞節を慮ったと言うよりは僕の父と由伽の母親とが交わっていなかったことを確かめたかったのだと考える方が自然に思えた。彼女の焦がれる男と情交したかもしれない女に対する嫉妬が杞憂であることを自らの眼で明らめたかったのだ。由伽は実の母に対して嫉妬心を抱いていた。可能性に身悶えしていたのだ。血液検査で判定が既に出ていても確かめずにいられなかった。
僕はこれに嫉妬する。だからこそ苦しみに塗れ、晰らかにし、リアリティに達しようと奮迅する。身をひねって攀じ登る。
いったい由伽が悪かったのか。僕が正しかったのか。僕の彼女ではなかった以上、この例に関して由伽が僕に対して悪いことは何もない。僕に正義を糺す権利はない。
だがもしこれから恋人ができてこのようなことが起これば絶対にまったく同じく打ち砕かれる。目に見えている。由伽が悪くなかったというだけで終わらせられない。強い肯定に向かって進まなければならない。大いなる楽が金剛の如く不変で空しからず真実なりという境地に逝きたい。
当然の欲望だ。このようにして人間は動物にない一般性を持つ概念に手を染めたのだ。この進化は必然だ。苦しみが拍車をかける。そうしたいのだからそうならないではいられない。
大磐の上は平らになっている。そこに手を掛け、ちからを振り絞って体重を引き上げる。頭を突き出した瞬間、暴風が毛髪を掻き毟った。頂は嵐のようであった。肘を掛けた。歯を喰いしばる。胸を支点に下半身を吊り上げる。膝を乗せた。肘を伸ばす。足を着ける。頂上で仰向けに転がり、叫ぶ。
肘尖や膝頭がすりむけて血が出ていた。風に打たれ、水弾に殴られ、よろめきながら立つ。地上を睥睨すれば村や田畑や寺が雨に烟り、流れる霧の波の列に見え隠れしていた。
上空の、異なった空間に囲まれ、見下ろすことが超越的な気分へと昂ぶらせる。何も彼もが激動的で予兆に満ち、身を奮わせる。驚くべき静謐を以て存在が現前し、揺さぶられ、しなり、風切り音を轟かせ、濡れ、色を濃くしている。
彼らによって僕は軽々と凌駕され、囚われの境遇を破壊され、主観の牢獄から奪い去られる。解き放たれた全能を味わう。この余りに自在で、無よりも奔放、過剰なる無際限、真のリアリティに刹那に炸裂し天翔せずにいられない。
だが大いなる高潮はすぐに消えた。再び胸に燠火の如く熾りとぐろ巻く妄執の嫉妬が甦る。真冬の木炭のかじかんだ燠に似ていた。古傷のような痛みを抑えながら心はどうにか平安を保っていた。ほんの一瞬前に感じた超越的な絶頂感を顧みる。磐洞の前で輝いた由伽を見た瞬間に襲ったエクスタシスに似ていた。祖父の金屏風から受けたインパクトにも似ていた。あのような絶頂が永続することがあれば人間はいったいどのようになってしまうのであろうか。あの歓びに比べればそれ以外のどのような喜悦も惨めな苦しみとしか思えない。あれが、あのまさに真実と呼びたい体験が不変となればどれほどの快楽であろうか。
想う。イエス・キリストや仏陀らはそのような人たちではなかったか、と。自己に封ぜられず、広域なる、完全なる一般性に心を至らせ、私心を捨てた他者への完璧なる肯定に達し、敵をも愛し、執著を離れ、苦しみを解脱した人間、僕ら普通の人間が一般性の概念を以て猿より高次のリアリティに達しているように、彼らはより進化した人間だったのではないか。
このような遠大な空想に興奮せずにいられなかった。欣求せずにいられなかった。だが不変は余りに彼方にある。波瀾万丈の海の解放感に酩酊した船の如くにこの思想に酔い痴れたものの、余りに途方もなく、目眩すら覚えた。
数分後、礫のような雨が皮膚を突くのを感じ、日常的な空間の中に独り裸身でたたずんでいる自分に気がついた。山嵐に山桃の木が身をくねらせている。雲烟が僕を過ぎる。
喩えようのない心の静けさが訪れた。考えていた。
由伽がなぜに聖域での時間を共有したかったと言ったのか、なぜ僕だったのか。わかる気がしていた。
胸に手をあてる。内なる力を感じる。未だ自らを真理とは做せないが萌芽すら見受けられない礎の存在を慥かに感じ、到来を信じることができる。いける。思うと心がはやり躍った。
雨に額や腕や腹や太腿や足の甲を撃たれているのをありありと感じるのと同じくらいに、やがて僕がこうなるであろうことを彼女の眼差しは見通していたのだ。だからあんなことを言った。由伽は共感を示しただけだったのだ。現状を鑑みる限りそれ以上でもそれ以下でもない。膚を撃つ雨同様、ただそれだけのことであった。以前からそれを感じ取っていながら納得し切れていなかった。距離を晰らかな覺りとすることができずにいた。それが素直に心に収まっている。
疲弊した腕に力が入らず、大磐を降りるときには登る以上の苦労を覚えた。半ばずり落ちるようにしてようやく地に足を着ける。降り切ると大磐の膚に背をあてて休んだ。彼女を想い、騒ぐ楠木の垣間から再び穹を見上げ、鼻から息を強く吸い込む。湧き上がるもの、猛るものがあった。
僕は聖者ではない。まずは由伽を獲得する。
やにわに関西弁で武り上げたくなった。いてこましたれっ。
完