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gift  作者: 荒馬宗海
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シン・鬱 1

シン・鬱 1


最初は意識して何事もなかったかのように歩いていたが、知らず知らずのうちに早足になり、いつの間にか耐え切れなくなって駆け出していた。全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出していた。それはさっきまでかいていたのとは全く違う種類の汗だった。

(もう少しで人間を殺すところだった!)

 アパートの部屋に駆け込んで、バタンとドアを閉めた。入ってすぐに靴を脱ぎ捨てると、その場でガクンと崩れ落ちるように両手両膝を着いた。四つんばいの姿勢のまま、はあはと荒い息をつき、ポタポタと冷や汗を滴らせていた。

「こ、殺すところだった! 人一人殺すところだった!」

 もう抑えきれない! 

もう耐えられない!

 久志の視野は極端に狭くなっていた。狭窄した視野に映る選択肢はただ一つのみ。

「こんな奴は駄目だ! いちゃいけない! こんな奴が生きていていい訳がない!」

 部屋に入ってすぐの、コンロのそばに置いてあった包丁の柄を左手で握りしめた。

「お前はこれまで一体何人殺した? お前はどれだけの人間を巻き添えにすれば気が済む!」

 幾多の人生を強制的に終わらせた。

 数え切れない人々の未来を断った。

 あるはずの希望を奪った。

最早人としての道を踏み外してしまった。今はもう何方に向かって善いのかわからない。ただ痛い程にわからされているのは、何方に一歩を踏み出そうとも、夥しい数の人々を踏み潰すこと。

 白い光を帯びているようにしか見えない右手首に刃を当てた。

 躊躇などない。

(殺す!)

 切り落とす勢いで包丁を引いた。

 包丁の刃はパリンとガラスが割れた時のような乾いた音とともに粉々に砕け、散らばった破片は砂のようになって消えた。

切り落とすどころかかすり傷一つつけられはしなかった。ぽろりと柄を取り落とし、ぺたんと再び両手を床に着いて俯く。

「……ははははははは…………」

 力ない自嘲が漏れていた。知らず知らずのうちにポロポロと涙が零れ落ちていた。

 ヘゲシアスは説いた。

「生は気の狂れた者にとってしか善きものとは見えない」

 セネカは謂う。

「神々に感謝を捧げよう。神々は人間の誰一人をも、力ずくで生に縛りつけようとはなさらない」

 プリニウスは『自然史』の中で述べている。

「思うに、人生とは、どんな形でもよいから、是非とも曳きずっていかねばならぬというほどに、願わしいものではない。汝の性質が元々どのように作られていようとも、他の人と同じように、汝もやはり死なねばならず、不品行な、または、瀆神的な生活をしてきた者も、同じように死んでゆく。それ故に、自然が人間に賦与する一切の財宝のうちで、適当な時期に死ぬことに勝るものは何一つとしてなく、しかも、その中でもっとも優れた財宝は、人其々が、自殺することが出来るということである」

 プリニウスは続ける。

「神でさえ、決して万能な訳ではない。というのは、神は、たとえ自らが欲しても、自殺することが出来ないのだから。ところが、人間にはそれが可能である。これこそが、人生の数多い災厄の最中にあって、神が人間に与えた最上の賜物なのである」

“彼”は久志に告げた。“破壊の神”であると。

「死ねない……、死ねないのか…………。

……自殺すら許されない…………」

 薄々気づいてはいた。自分が殺されようがないことを。自身でさえ殺しようがないことを。


要するに、「生に対する絶望」というやつです。

可成酷く。

それも、それこそ絶望的に。

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