続・鬱 2
続・鬱 2
それというのも、グノーシス主義の神話の多くは、「存在せざる神」というものが存在するという逆説から始まるからである。この逆説の意図は、グノーシス主義が奉ずる「至高神」とは、それまでのさまざまな宗教や哲学の中で用いられてきた神を示すあらゆる言葉をもってしても表すことなど能わぬ、超越した存在であることを意図するからである。このような枷の下、それでも何とかして、「至高の神」の存在を表現しようとする営みこそが、多種多様な否定詞による、殆ど際限のない否定である。
例えば、ある文献において、「至高神」――「存在せざる神」は、このように表現されている。
【単一性は単独支配のことであり、更にその上に支配する者は存在しない。それは真の神、万物の父、聖なる霊、万物の上に在って見えざる者、不滅性の中に在る者、純粋なる光――即ち、如何なる視力でも見つめることなど能わぬほどの光――の中に在る者である】
故に、「存在せざる神」――――
しかし、当然のことながら、久志が“光の主”の如きものの存在を認めたのは、「存在せざる神」――「至高神」などではない。ただ一点に於いてのみ神に比肩する者。あるいは、ただ一点のみに於いての神。そんなものは全知全能などというものからはあまりにもほど遠い。あまりにも遠過ぎるのだ。そんなことは身に染みて解りきっている。それこそ嫌になるほどに。
久志が連想した自分、それは――
過失によって生じた「造物神」の尻拭い。
出来損ねの後始末。
この宇宙を灰燼に帰する存在。
この世界を破壊し尽くすもの。
即ち、「破壊神」――――
「こんなものに一体何が出来る?
一体何が救えるってんだ!」
“彼”は久志をこう呼称した。“光の主”――“破壊の神”と。
否定神学というやつです。
そうなると「存在せざる神」という訳でして。




