カルト 1
その先にあったのは、世紀末の非日常、熱狂と混沌の坩堝、カルトの無法地帯だった。
久志は唾を飲み込んだ。この異様な光景に一瞬たじろいたが、すぐに平静を装う。
そこで崇拝の対象となっていたのは……。
気づきもした。
(誰も俺のことなんて見てなんかいないし、呟いてもいない。それどころか、気づいてもいなければ、気にもしてない)
陶酔した者たちの異様な眼光を宿した瞳が向けられているのは、人間が呼称するところの人型白色発光体に対してであり、荒木久志などではない。そんなモブなど視野の端にだって入ってはいない。通りがかりの人々の視線が向けられるのは異様な熱狂と混沌に対してであり、見られることを病的に恐れている黒ぶちのだて眼鏡などではない。
視線からも声からも開放された気がした。久志は改めて異様な熱気の方に眼を向ける。
「……」
ファレルはこんな言葉を残している。
「宗教的観念に囚われている一人の狂人を例にとってみよう。これは一般に宗教的偏執狂に分類される。彼は、『自分は神の声を聞き、神からの使命を負っており、新しい宗教を世界にもたらすのだ』と称している。『この考えは全くもって狂気じみているが、それでいて、当人は、一連の宗教的観念を別とすれば、他の人々と同じように、思考を展開している』と人は言うだろう。では、いま少し注意深く当人に尋ねてみるとよい。さすれば、ただちに、彼の中に他の病的な諸観念を発見することとなるであろう。例えば、宗教的な観念と並んで、存在する傲慢さへの傾向が見出されるといった具合に。彼は単に宗教の改革ばかりでなく、社会を変革するという使命をおびていると信じ込んでいる。おそらくは、『自分のために、最高の運命が留保されているのだ』とさえ思い込んでいるに違いない。この患者の中に誇大妄想の傾向がないかどうか探り、仮にこれを発見しなかったとしよう。しかし、その場合でも、劣等の観念や、恐怖する傾向が、確認されるに違いない。宗教の観念の虜となっているこの患者は、『自分は駄目だ。破滅の運命にある』などとも思い込んでいよう」
もちろん、ファレルの示したような精神錯乱の全てが同一主体の中にいつも結びついて認められるわけではない。しかし大抵の場合、それらは一緒に見出され、病気の唯一かつ同一の時期にそろって発生しないまでも、多少とも接近した段階で相次いで生じることが認められる。要するに、いわゆる偏執狂者には、これらの個々の症状とは別に、その病気の基礎そのものを成し、全精神生活に関わる一般的な状態が常に認められるのである。ここで示されるさまざまな妄想は、それの皮相的、一時的な表現に過ぎない。この状態を構成しているのは、過度の興奮、または過度の抑鬱、あるいは一般的な異常である。そして、とりわけ思考および行為に於いては、均衡と整合の欠如が認められる。




