鬱 3
鬱 3
しかし、同時に以前までのように、サラリーマンも学生もちゃんとした血の通った人間とも見えてはいる。
(このぎくしゃくとした軋みは、俺の頭の中でだけ響いている、俺と周りとの軋轢なのか?)
こんな歪みに囚われている一方で、おめでたいことにいつものように、「文明は果たして本当に人間を幸せにしたのだろうか?」などということも頭の片隅で考えていたりもしている。今や、人類や文明などというものは、いつ根絶させられてもおかしくない状況にあるというのに。久志が存続のために片手間にでも出しゃばったりしなければ、呆気なく終わるしかないというのに。
(この俺もどこかの誰かに操られているだけの操り人形じゃないなんて、何処の誰がいい切れる? 無理して紐を引きちぎろうとしても出来やしない。もしも切れて解放されたとしても、その場所にぐっちゃりとへたり込むだけの、指一本自分の意志じゃ動かせやしない哀れなマリオネットでしかないかもしれないのに。その時になって、初めて自分がマリオネットだったって確認するだけかもしれないのに)
眼に見える全てのものが自分からは離れてゆくような感覚に見舞われている。
何もかもが色褪せてゆく。
自分を取り巻く全てのものからリアリティーが失せてゆく。
この実感のなさ。現実感の欠落。久志にとってそれは呪い――あの忌まわしい力以外の何物も連想させはしない。
(頼む。頼むから、俺を見棄てないでくれ)
しかし、彼の願いはなだらかに、より虚しいものへとしか推移してはいない。
久志の眼にそれは不吉な予兆――「俺はこの世界から拒絶されつつある」――としか映ってはいない。映ってはいなかったが、それは眼鏡のレンズを如何なる種類にしようともどうにもなりはしない。この忍び寄る影のような不吉さからは逃れようがない。そんなことは解ってはいる。解っているから、久志のかけている黒ぶち眼鏡のレンズには度など入っていない。久志のかけている黒ぶち眼鏡はただのだて眼鏡であった。ただのだて眼鏡なのだからレンズなどなくてもよい。ただの透明なプラスチックであっても嵌めてあるのは、心の底から彼を脅かしている兆しから、たとえ僅かでも自らを隔てようとする意図、そして、逆に覗かれても、瞳の奥底から自分の心を決して誰にも悟られたくないという気持ちの現れだった。傍から見れば実に虚しい防壁に過ぎない。だが、外出の際、久志が黒ぶち眼鏡を欠かさなくなった理由はそれだけではない。
駅が近づいてくるにしたがい人間の数が増加してゆく。歩みは自然と鈍くなる。それでも辛うじて駅までたどり着き、改札を抜けプラットホームへ進む。
血の気が引く。そこにあるのはあまりにもいつも通りの朝の光景。人間がうじゃうじゃと蠢いている。誰かがこちら見ているような気がする。誰かが自分のことを話しているような気がする。
(俺のことなんか知らないはず。知っているはずがない)
ましてや、あの化け物の正体だなんて。




