鬱 プロローグ
鬱の入口――
久志は大学へは戻らなかった。
というより戻れなかった。
一人になりたかった。
久志は下宿に引き篭って万年床の上に転がっていた。
ただ漫然と白い壁を見つめていた。
くたくたに疲れていたし、十分に眠気もともなってはいたが、どうしても眠ることが出来ない。頭の芯の辺りがどうしようもなく冴えてしまっている。いっそう万年床に辿り着くまでもなく、事切れたように意識などなくなってしまって欲しかったのに。
今日、またあり得ないことが起こった。
得体の知れない何者かの犠牲になって多くの人々が死んだ。数えきれない人たちが殺された。
F-35Jのパイロットたち。彼らは皆、最新鋭の機体を優先して国家から支給された自衛隊の誇るトップガンだった。そこまでの技量を習得し、認められるまでにどれほどの時間が費やされたことだろう。もちろん彼らには才能もあっただろうし、抜きん出るだけの努力もしてきたことだろう。
それが呆気なく全滅させられた。
まるで廃墟の暗がりの中の蜘蛛の巣を何気なく払っただけのような、何者かの無関心によって。蝿か蚊のように、取るに足らない虫けらのように、払われ、潰され、殺された。
死。
人が死んだ。それも眼の前で。しかも、実際に見るよりも鮮明に、実際に触れるよりも生々しく、久志はそれを知覚してしまった。
「うっ」と久志は口を押さえてトイレに駆け込んだ。便器に抱きつくようにして吐いた。何分か前にチキンカツ定食として咀嚼したものが胃の底から突き上げてくるように溢れ出る。肩を上下させハアハアと荒い息をつきながら吐き続ける。滝のようにゴボゴボと噴き出してくるカツのころもの色をした酸っぱい胃液。その中に浮かぶ無数の米粒、味噌汁の具だったワカメに油揚げ、キャベツの繊切り、チキンカツだった鶏の肉片。
「……何で……、何でだ……。
……何でこんなことに…………」
内定はおろか集団面接ですらたった一度しか受けさせて貰ったことのないそこらの来春卒業見込みの大学生。時給八百五十円のその辺にいるアルバイト。そんなのが自衛隊のトップガンが駆る最新鋭機が束になってもまるで歯が立たなかった相手をいとも簡単に一蹴したのである。しかも、当の本人には、「取るに足らないことに少々しゃしゃり出てみただけ」程度の認識しかないときている。人類の科学力を遥かに超えた技術を持つ得体の知れない未知の何者かを向こうにまわしておいて。
まるで悪夢だった。
「……何も……、…何も出来なかった…………」
久志はオエッと小さく佇んでいる。あまりも本人の知る自分らしく。
「何て俺は無力なんだ…………」
吐く物もあらかた吐き尽くし、具のなくなった胃液をまだしつこく滴らせていた。色ももうなくなった透明な胃液と唾液、それに涙が粘っこく頬と顎を濡らしている。
「酒。酒が要る」
アルコールで感覚が呆けてくれるか、なくなってくれるかしてくれないと、どうしようもない。
どうにかなりそうだった。
ゴガッと喉の奥から鈍い音がこぼれた。酸っぱい胃液がまた込み上げてきた。
「こんなの…………。こんなこと…………。
俺は望んじゃいない。
これっぽっちも望んでなんかいない…………」
そのうちに…………。




