Prologue
お父さんとお母さんが倒れていた。
辺り一面燃えていた。
住宅街を覆うように伸びた蔦。それはお父さんとお母さんの口からおびただしいほどに飛び出していて、でもほとんどが灰になってボロボロと崩れている。今になって血肉の焦げた臭いが鼻を刺し、私はその場で嘔吐した。
おかしい。おかしい、おかしいおかしいおかしいおかしいおかしい。お父さんとお母さんが木の化け物になってただなんて、そんなの全然知らない。知りたくもない。
でも五感というのは残酷だ。
目を灼くような周囲の熱が、吐き気を催す悪臭が、遠くから響く救急車のサイレンが、舌の上の胃液の味が、煤の散らばった地面の手触りが、私の現実逃避を許してくれない。
いつも通りの1日のはずだった。
お父さんとお母さんに見送られて、登校して、学校では友達と楽しく過ごして、少し寄り道をして、帰ってきたらみんなで夜ご飯をたべて団欒するつもりだった。それがいつもの1日だった。でも下校中にここら一帯が火事になっていることが遠くから見えたんだ。
なのに……、どうしてよ。
私はそれ以上考えることができず、ただ呆然と虚空を見つめる。するとしばらくして、焼け爛れた住宅街を歩き回っていた2人分の影が私に近づいてくる。お国の人だ。
「蓮華」
「……、うん分かってる」
男の人が名前を呼ぶ。それに蓮華と呼ばれた女の人が応え、深呼吸をして目を閉じる。
すると、周囲を包んでいた火の気が一瞬で消えた。まるでこれまであったことは幻だったかのように、辺りには火花ひとつ見当たらない。でも幻なんかじゃないことは分かってる。だって、火が消えたとしても、私のお父さんとお母さんはそのままだから。
「……なんで、殺したんですか」
私は思わず、責めるように問うた。
聞かずとも分かることを問わずにはいられなかった。
「もう言わなくても分かっているだろう、椎奈祈乃莉さん。君のご両親は信者だった。……いいや、正確に言えば君だけじゃない。この住宅街一帯、異界の信者で構成されていたんだ。だから殺す必要があった」
それは世間ではありふれた話だった。
昨日まで普通に過ごしていた家族が、友達が、同僚が、そして愛人が、次の日には信者になっていた―――だなんて。信者は破滅を招く。そのため、お国の人がこうやって、信者を殺していく必要がある。
「……お父さんとお母さんは、悪いことはしてません。なんで、なんで殺したんですか」
「悪くなくともそういう決まりだ。信者を放置すれば社会全体の害になる。一般市民にまで被害が及ぶそれらを無視できるはずがない」
私は文句を言いたいのをグッと堪えた。
私にとっては優しいお父さんとお母さんでも、この人にとってはそうじゃない。それが仕事だから、やらないといけないことだから……。
それでも、心にぽっかりと空いた穴は埋まらない。仕方がないでは済まなかった。
「ごめんね椎奈さん。本来なら、あなたのご両親が信者になってしまう前に気がついてあげるべきだった。その苦悩に寄り添ってあげるべきだった」
「……そうだな。俺たちの実力不足のせいだ」
男の人が地面に片膝をつき、項垂れている私に視線を合わせる。
「ごめん。祈乃莉の大事なご両親を守れなくて」
「―――え?」
まるで、時が止まったかのような気がした。
聞き覚えのある柔らかい声。見覚えのある顔。私は唖然として、その見間違うはずのない顔をただ見つめる。センターパートの黒髪に、深みのある赤い瞳。
「双葉先輩……?」
私がそう言った途端、世界が塗り替えられる。
陽光の眩しさがすべてを塗り潰す。木の化け物になってしまったお父さんもお母さんも、目の前にいる女の人も、双葉先輩も、消えていなくなる。
そして―――。
「起きなさーい!!!」
「……っ、んぇ?」
気がつけば、私はベッドの上にいた。
少し開いた窓の隙間から、そよ風が室内に流れ込む。それは汗だくになった私の肌を優しく撫で、私はハッとして目を見開いた。そのまま勢いよく起き上がる。
「いだっ」
そのせいで、お母さんと額がぶつかる。
私は涙目になりながら再度布団に埋もれ、それから額を抑えて唸った。
「……早く起きなさい祈乃莉。遅刻するわよ」
その言葉に、私は再度ハッとして起き上がる。
時刻はもう朝の8時前。いつもより30分以上も遅い起床に、焦った私は布団の上で跳ね起きる。だけど起き上がってから数歩、私は酷い立ち眩みに襲われて、転びそうになる。
「ちょ、あんた大丈夫?!」
「…………大丈夫。ちょっと立ち眩みしただけだもん」
「酷い夢でも見たのかしら? かなり長い間うなされていたみたいだったけれど……」
夢。そう言われて、私は思い出す。あれは夢だったのだろうか。今になっても色褪せない、生々しい光景。その匂いや音など、五感で感じ取った全部の情報が私の目に焼き付いたまま離れない。
急に催される吐き気。私はトイレまで駆け、せり上がってきた胃液を便器の中に吐き出す。
「い、祈乃莉?! どうしたの……っ?!」
「…………少し、気持ち悪くなっただけだよ」
「す、すぐ学校に休みの連絡入れるわ!」
「い……いいよ! そこまでじゃない。ちょっとだけ休憩したら、ちゃんと体調良くなると思う」
「そうは言っても……」
心配そうに私に寄り添ってくれるお母さん。
でも時間は有限だ。せっかく、高い学費を払って学校に通ってるんだから、休むことなんてできない。だから私は、せめてお母さんを不安にさせないために気丈に笑ってみせる。
「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだから」
「……分かったわ。でも無理は禁物よ祈乃莉」
「うん、心配してくれてありがとう」
「トイレの後処理は私がしておくから、ひとまずゆっくり休んでなさい。それと、朝食はいるかしら?」
「…………ごめん、食欲は今あんまりかも」
たぶんもう用意しているはずだけど、さすがにこの体調で食べてしまうとまた吐いてしまいそうだ。だから申し訳なくなりながらも、私は首を横に振る。
「そう。じゃあひとまずお口だけゆすいで、それからお布団の上で横になってなさい」
「うん、そうさせてもらおっかな」
私はお母さんに付き添ってもらって、それからお布団の上に横たわる。もう体調は大丈夫な気がするけど、まだ目はぐるぐるだ。
やけに血生臭くてリアリティのある夢だった。
それに、最後に出てきたあの男の人は。
「双葉葵、先輩……」
同じ学校で、同じ部活の1つ上の先輩で。
私が大好きな人だった。