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レールのない町 武蔵村山市

作者: 中本裕志

僕は武蔵村山市立第一小学校六年一組 比留間大五郎 一二歳です。

 小学校最後の夏休みが終わって二学期が始まりました。新学期始まりと言うことで校長先生の話を校内放送で聞いた後、担任の野口先生からこんな話がありました。

「来年で君たちもいよいよ卒業して中学生だ。そこで卒業文集を作ろうと思う。君たち一人一人に作文を書いてもらい、これを一冊の文集にする。題名は自由だ。自分の夢とか、希望とか、プロサッカー選手になりたいとか、野口先生のような立派な先生になりたいとか」

 最後の落ちで、みんなが笑いました。山下君が質問しました。「締め切りはいつですか」

「そうだな、校正、印刷とかあるからね、二学期が終わるまでだな」

 小川さんが質問しました。「原稿用紙何枚くらいですか」

「一枚でも一〇枚でもいいよ」

 山崎君が、「そうは言っても僕、今度中学受験があるんですよ。受験勉強に集中できないな、作文が気になって」

 みんなざわつきました。

 野口先生が、

「だったら、その受験勉強をどうやってやったか、これを書けばいいじゃないか、受験勉強と作文で一石二鳥だ」

 山崎君は、わかったような、わからないような、悩ましい顔でした。

 そこで僕は何を書こうかと思いましたが、特に将来なりたいと言う職業があるわけではないし、野球選手とかサッカー選手になりたいと思ったこともありません。そこで、僕は我が家のことを書こうと決めました。それは、我が家は、今時珍しいね、とよく言われますが四世代同居家族だからです。同居と言っても正確には、一つの敷地内に僕と両親が住む家、その隣に祖父母が住む家、そのまた隣に曾祖父母が住む家が建っている、同居と別居の綯い交ぜです。

 曾祖父母の時代までは大きな百姓家だったそうですが、今は先祖代々から受け継いだかなり広い土地が残っているだけで農家の面影はありません。北に多摩湖、狭山湖、狭山丘陵を望む埼玉との県境にあるここ東京都武蔵村山市は、所々に里山の面影を残す静かな町です。ただ、東京都で唯一未だにレールが走っていない町として変な意味で有名なところです。

あと一〇年くらいすると新青梅街道をモノレールが走る予定ですが、今は道路拡幅工事が途切れ途切れに行われているくらいで、これで本当に一〇年後にモノレールが通るのかな、とお父さんはよく言います。そんな新青梅街道と昔ながらの細いくねくねとした旧青梅街道に挟まれたところに我が家はあります。

築百年の曾祖父母が住む家は、昔ながらの薄暗くてどっしりとした百姓家です。もちろん所々改修を続けながら住み続けているのですが、外観はまさしく明治、大正と言ったところです。その隣に祖父母が住む家が立ちます。こちらは屋根瓦が重たそうな昭和の雰囲気です。その隣に、僕と両親が住む家、こちらはスレート屋根の軽い平成風と言ったところでしょうか。

ところで僕の名前「大五郎」は、キラキラネームが流行する今の時代に、変な名前だと自分ながらに思います。友達に笑われることもあります。この武蔵村山市近辺では「比留間」と言う苗字の家が多くて、夏休みの自由課題で「比留間」と言う苗字の由来について調べたことがあります。「埼玉県比企郡吉見町の松山城で天正一八年一五九〇年に記録があり、この武蔵村山市三ツ木、隣の東大和市芋窪では草分けと言える」とありました。今から四三〇年も前からある苗字なのです。

僕の教室にも比留間君や比留間さんが三人います。僕が生まれた時、曾祖父が父に言ったそうです。

「苗字がありふれているなら、下の名前を変わったものにすれば目立つ子供になるかもしれない」

曾祖父は、カラオケで必ず歌う一八番、子連れ狼の「しとしとぴっちゃん、しとぴっちゃん、大五郎はまだ三つ」を口ずさみながら、

「そうだ大五郎だ、比留間大五郎、いいじゃないか」

父母も渋々承知しました。僕たちが住む家を建てたお金は、ほとんど曾祖父が工面してくれたそうで、曾祖父には頭が上がらないのです。母が言ったそうです。

「大五郎か、聞き慣れれば悪くないかも、響きもいいし」

 ひとのことだと思ってみんないい加減です。

僕、大五郎が生まれて我が家は四世代同居の家族となったのですが、我が家の家族構成を紹介します。

曾祖父の比留間勝昭は昭和二年生まれの九五歳、先祖代々からの畑仕事を引き継いだものの、後を継ぐ者がなく畑仕事は古希のころに辞めました。その後は町会長や交通安全協会長などをしていましたが、今は完全な隠居暮らし。曾祖母の初枝は九四歳、昔は小学校の先生をしていたそうです。

祖父の幸一は昭和二七年生まれの七〇歳、警視庁を定年退職後は警備会社に管理職として勤めましたが、今は近くの工場で守衛さんをやっています。祖母の洋子は六七歳、若いころは看護師をしていましたが、今は隠居だけではもったいないと言うことで民生委員をやっています。

父の雄三は四〇歳、大学を卒業した後、官僚をしていたそうですが、今は訳あって学習塾の講師をやっています。母の麗奈も四〇歳、主婦をやりながら家計を助けるため近くの診療所でパートをしています。

 我が家では祖父母は、普通におじいちゃん、おばあちゃんと呼びます。「じいじ」とか「ばあば」と呼ぶ家が多いのですが、我が家でそう言う呼び方をすると曾祖父が怒るのです。「何がじいじ、ばあば、だ。老人を幼児語で呼ぶとはけしからん」

 それでは曾祖父母は何と呼ぶかというと、本当はひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんでしょうが、呼ぶときは大じいちゃん、大ばあちゃんにしています。

 大じいちゃんと大ばあちゃんは、大きな病気をすることもなく元気です。料理、洗濯も自分たちでやるしゴミ出しもやっています。大じいちゃんは七五歳の時に運転は辞めたので、買い出しはお母さんがやったり宅配を利用しています。裏の納屋には、昔、大じいちゃんが乗っていたカローラが大切に仕舞われています。

 おじいちゃんは、元警察官で警察署次長で定年退職したとのことです。退職後は警備会社に警備部長として再就職をしましたが、そこを二年ほどで辞めると、やることがなくなり「退屈だ、何もやることがない」と始終こぼしていたそうです。それに便秘になったそうです。「若いときは便秘なんて他人ごとと思っていたが、やっぱり、緊張感のない生活はだめだな」と言って、ある日、警備員の採用面接に出かけました。久しぶりにネクタイスーツ姿のおじいちゃんを見ました。背筋が伸びていました。

おばあちゃんがおじいちゃんに言ったそうです。

「なにも、現場の警備員一兵卒を、あなたがやることはないんじゃないの、以前の警備員の監督をする立場の仕事ならまだしも、今度は逆の立場になるのよ。耐えられるの」

すると、おじいちゃんはこう答えたそうです。

「監督するより監督される方が楽なのは子供でもわかること。負けが込んだ野球監督の苦渋の顔は見ていられないだろう。それも素直な選手ばかりじゃないよ、訳の分からん選手もいるし、ヒネタ選手もいる。育ちのいいのも、悪いのも」

 おじいちゃんが前の会社を二年早々で辞めてしまったのは、警備員の監督でやきもきすることが多く、一時は心身症のようになったからだそうです。警察の仕事だって大変だったでしょうが、管理職はどこも大変なようです。おじいちゃんが子供の僕を相手にこんなことを言ったことがありました。

「定年退職後はバラ色の世界なんて甘いことを考えていたわけではないが、それにしても警察を定年退職した後は少しは余裕ある生き方ができると思っていた。それが甘かった、警察官で四〇年過ごしてきた身にとっては、お客様第一、お客様は神様の民間会社の世界には、やはり馴染めなかったな」

 それから、おじいちゃんは近くの工場で守衛を始めました。

「便秘は治ったの」と僕が聞くと、

「やっぱり仕事はありがたいね。朝起きて、今日は仕事だと思うと、スッキリ出るんだ。これほど人世爽快と思うことはないね」

今日も、弁当箱をぶら下げて自転車で出かけて行きました。

おじいちゃんの仕事は二四時間勤務の守衛さんです。夜は全くの一人勤務だそうです。僕が、深夜ひとりで恐くないの、と聞くと、

「恐いことなんか無いよ、ただ心細いと思うことはあるけどもね。それに若いころの交番勤務を思えば天国のようなもんだよ。事件が飛び込んでくるわけでもないし、訳のわからない酔っ払いに絡まれることもない。それに泥棒を捕まえないと上司から嫌みを言われる心配もないしね。

夜の巡回で工場を隅から隅まで歩いて体力維持、鍵の閉め忘れはないかと頭を使い、不機嫌な工員にもお愛想笑い、これすべて、老け込まないトレーニング、金を払ってジムに通う人もいれば、俺のように金をもらって日々トレーニング、ありがたいことだ」

 また、こんなことも言います。

「こっちが挨拶しても、知らんぷりする若い工員もいて、むかっとすることもたまにはあるけど、これも生きるための一つの刺激と思うようにしたよ。守衛や清掃員は社会的地位は一番下、工員や働く人の方が偉いに決まっている。俺たち老人はそんな現役世代に支えられているんだから文句は言えない。だがな、人間としてのプライドは捨ててはいけないよ」

 おじいちゃんの話は奥が深い。

 おばあちゃんは若いころは看護師をしていたそうです。時々、おばあちゃんが言うのですが、

「なんで看護婦と言ってはいけないの。そりゃ、この私だって看護婦から看護師に呼び方が変わった経緯は何となくは知っているよ。でも看護師は冷たい言葉だね。機械で切り取ったような呼び方には、いまだに慣れないよ。それに、婦人警察官も女性警察官に呼び方が変わったね。婦警さんの方が親しみやすかったのにね。

今は大きな病院へ行くと、患者は番号で呼ばれるでしょ、それでなかなか返事がないと「お名前で失礼します、比留間さま」とくる。逆だよね、番号で呼ばれる方がよっぽど失礼だよ、私が毎週行く、三ツ木のおばあちゃんもそう言っていた」

おばあちゃんは、六〇歳を過ぎたとき、昔の看護師の経験や幅広い地域住民との交際を買われて、民生委員に推薦されました。当初は引き受けるかどうか悩んだそうですが、これも元気で生きている老人のお役目として引き受けたそうです。

僕は聞きました。「民生委員って何をするの」

「ぶっちゃけて言えば、一人暮らしのじいちゃんやばあちゃんのお相手をして、話を聞いてあげる人、って言うところかな」

「そうなのか」

「この前、こんなことがあったね。守秘義務があるから詳しいことは言えないけど、九〇歳になるおばあちゃんがこう言うんだよ。最近、朝起きるたびに死にたい、死にたい、と思うようになってね。この年だから、もうすぐお迎えが来るだろうけど、一刻も早く死にたいよ。この前、首を吊ろうとしてビニールひもを鴨居に括り付けていると地震が起きてね。この前の地震よ、結構大きかったでしょう。そしたら、慌ててガスの元栓を閉めたり、逃げ場を作ろうと玄関を開けたりしていたの、あれ、自分は何をしていたんだっけ、その場にへたり込んでしまったよ」

 おばあちゃんは、そのおばあちゃんに言ったそうです。

「おばあちゃんね、自分が自殺したら、子や孫に祟りがあるって知っていますか。自分は死ねばそれで楽になるだろうけど、その楽になった分を、子や孫が苦しむことになるって話を聞いたことがありますよ。子や孫に迷惑をかけまいと思うなら、生きるだけ生きてくださいよ」

 その九〇になるおばあちゃんは、目に涙を貯めて、

「比留間さんがそう言うなら、もう少し生きてみようか」

 ぼくはおばあちゃんに聞きました。

「自殺したら子孫に祟りがあるってほんとうのこと」

「さあ、そんな統計も見たことないし、私の作り話さ、嘘も方便って言うじゃないか」

 おばあちゃんもなかなかやります。

 毎週日曜日の朝食だけは僕の家で家族四世代揃って取ることが、我が家の決まりになっています。我が家の決まりにもう一つ、食事の時は絶対にテレビを見ないことです。大じいちゃんも、おじいちゃんも言うのですが、

「今時のテレビは人の不幸さえ売り物にしている。泥棒が店に入ってものを盗ったり、車同士がぶつかったり、そんな防犯カメラやスマホ映像を流して儲けようとは不届き千万。まして大五郎のような子供には見せてはいけない」 

大ばあちゃんも、おばあちゃんも言います。

「それにテレビを見ていると、見たくもないけどニュースが流れてくるでしょ。それも悲しい事件ばかり。子供が車内に残されて熱中症で亡くなったり。実の親に虐待死されたり、そんなあまりにも悲しいニュースを見ながら食事ができる人は、人間じゃないよ。子供の事件は胸をえぐられる。子供を殺した親は即刻死刑にすべき。そうしないと、また同じような子供が生まれて、同じような子供殺しをする」 

二人ともけっこう過激で、こんな言動は決して公言することはできません。今時こんなことを公言したら、我が家は誹謗中傷で炎上してしまうでしょう。だから僕たち家族は、他人にはこんなことを言わない穏便な家族として暮らしています。

 そう言うことで、我が家の食事の時はテレビは消します。代わりにクラシック音楽を流します。

「昔からあるもの、生き続けているものには、それなりのものがある」

これは大じいちゃん。おじいちゃんは、

「音楽は意味がないからいいんだ。押しつけるものがない。真空透明の空気のような音楽がいい。ただ時間を貪るだけの年寄りにはもってこいだね」

 それでは僕やお父さんやお母さんはどうしたらいいのでしょうか。だいたい、二人とも哲学者のようなことを言うのですが、お酒を飲むときは二人とも昔の演歌や昭和歌謡をがんがん聞いています。勝手なものです。 

 僕の趣味は小遣い稼ぎです。九五歳の大じいちゃんは病気知らずで元気ですが、老眼が進んで最近は新聞や本などの細かい文字が読めません。そこで僕が新聞や本を読んで聞かせます。一〇分で百円くれます。年金支給日の日は、それが倍額となって一〇分二百円くれます。これはいい稼ぎです。そのおかげで大体の漢字は読めるようになりました。最近はウクライナ問題や、安倍元総理の襲撃事件、その後の国葬問題など、読む記事は増えました。一番盛り上がったのは中国の台湾での軍事演習でした。大じいちゃんが言います。

「俺はもうじき死ぬからいいが、大五郎の時代は大変な時代になるだろうな。俺は空襲を逃げ回ったが、大五郎の時代はどうなるかな」

 僕が「戦争は起こるのかな」と言うと「起こるだろうな」と言います。「日本は勝てるの」と聞くと「多分負けるよ」と言います。何でと聞くと、

「日本は他国に侵略されたことがない国だ。あの戦争でアメリカと戦ったが、沖縄や北方領土を別にすれば、空襲や原子爆弾での攻撃を受けたが、日本国内での地上戦の経験はないんだ。降伏して進駐軍がやってきて占領されたが、彼らは略奪や虐殺はしなかった。アメリカ軍はどこかの軍と違って紳士的だったと言うことかな。

それに比べ、日本を除く外国の歴史は、侵略したり侵略されたりの繰り返しだった。日々生きるか死ぬかの戦争の連続だ。そんなたくましい国に勝てると思うか。日本国民は優しいのだよ。他国が攻めてきたら二泊三日くらいは持つだろうが、その後は降伏するしかないな」

「でも防衛費を増やしたり、敵基地攻撃能力とかを準備するんだから大丈夫じゃないの」

「いくら金をかけて装備をいいものにしても、肝心な日本人の気持ちを変えることはできないよ。日本人は太古の昔から優しいんだ。そんな優しい日本人が、戦えると思うか。初戦は少しは意地を見せて戦って、あとはすぐに降伏すればいい。ウクライナとは違うよ。それで他国の属国となったり、植民地になったら諦めるだけだ。そこから、日本人として新しい生き方を探せばいい。核爆弾を持った資源の豊富な国に勝てると思う方がおかしい」

「それじゃ、日本も核を持てばいいんじゃない」

「そんな話も出てきているけど、日本は百年経っても核を持つことはないよ」

「日本人は優しいから」

「それもあるけど、日本人は戦うなら負けを覚悟で、そんな野蛮な核などは使わないで、日本刀で戦うべきだとする武士の思いがあるんだ」

 大じいちゃんの話しもわかるけど、どうなんだろう。もちろん、こうした話は大ばあちゃんや、おばあちゃんや、お母さんには話しません。友達にも話しません、友達はゲームの戦争以外に興味がないのです。

 おじいちゃんはまだ老眼鏡を使えば新聞の文字は読めるので僕が代読することはありませんが、腰が痛いとよく言うので、うつ伏せになったおじいちゃんの腰に乗って足で踏んであげます。これも一〇分百円ですが、こっちは少々疲れます。

「おじいちゃんは日本に戦争は起きると思う」と話しかけると、

「起きないだろうな。日本が他国に戦争を仕掛けることはまずないだろうし、他国が日本を侵略することもないだろう。日本を侵略する大義名分もないし、侵略したって何のメリットもないし」

「尖閣が攻められることは」

「あそうか、尖閣があったな」

「尖閣が攻められたら、日本はどうするのかな」

「やるだけやって盗られたらしかたないとして諦めるんだな」

「諦めるの」

「尖閣を守って日本全土が焦土になっても仕方ない」

 やはり親子ですね。大じいちゃんもおじいちゃんも、考え方は似ています。どちらも諦めが早いようです。

 お父さんにも同じ質問をしました。

「国葬がどうのこうの、統一教会がどうのこうの、オリンピックの汚職がどうのこうの、とか言っている日本人が他国と戦う気持ちなんかあるわけないよ」

 お父さんの回答は簡潔でした。また、こう言いました。

「仮にも日本の象徴として憲法でも位置付けられている皇室をあげつらう日本人だよ。そんな日本人が我が国土を守ろうと立ち上がる訳ないよ。そう言えば、日本の憲法には、我が国民は生命を賭しても国土を守らなければならない、とか言った言葉はないな」

 大ばあちゃんやおばあちゃん達、女性陣はどうかと言うと、そんな話とは別世界にいます。大ばあちゃんは、朝から晩までテレビを見ています。おばあちゃんも朝から晩までとは行きませんが、暇があればテレビを見ています。世間ではテレビ離れという言葉を良く耳にしますが、我が家は昭和がそのまま続いているようです。大ばあちゃんもおばあちゃんもテレビの他は、電話での長話が趣味だそうです。大ばあちゃんは若い者に負けずラインもメールもできるのですが、

「ラインの絵文字で笑いマークがあっても、ほんとうの笑い声は聞こえないからね、やっぱり、元気な笑い声を聞いたりしないとね」

 二人とも友達をたくさん持っているようで、長話は生きる元気になると言います。新聞もテレビ欄を見る程度でほとんど読んでいないようでした。大ばあちゃんもおばあちゃんもよく言います。

「新聞なんて読むところ無いじゃないの、まあ、テレビ欄くらいかな。今日の「徹子の部屋」には誰が出るのかとか、あとは、面白そうなドラマはないかな、とか」

 二人とも徹子の部屋が好きでした。

「毎日、家にいながら、いろいろな人に出会えるし、この前、加山雄三と奥さんが出ていたけど、夫婦ってあんなに仲良くなれるのかな」

 二人とも羨ましそうでした。あと二人が好きな番組は刑事ドラマです。殺人事件など身近な世界では絶対起きないだろうと言う安心感があるから、と言うことです。不倫や汚職などは近辺でも起きるかも知れないが、殺人事件は九九パーセント起こることはないという安心感から、別世界のこととしてゆっくり見ていられるからいい、と言うのです。それに、老人には刺激が必要、殺したり殺されたり、それを追う刑事、こんな日常にはない刺激が老人には必要なのだそうです。

それに刑事ドラマは頭の体操にもなるそうです。二人とも、役者の名前を見るだけで犯人が誰かを当てることもあります。昔のコロンボや古畑任三郎は、最初から犯人がわかってしまうので面白くないそうです。やはり、荒波が逆巻く崖っぷちで犯人がわかる前に犯人を推理するのが面白いのでしょう。

二人とも絶対に見ない番組はワイドショーです。大ばあちゃんがよく言います。昔のワイドショーは小川宏や高峰三枝子でそれなりに面白かったけど、今は政治家や政治の悪口ばかり。絶対に許せないのが皇室の悪口だそうです。大ばあちゃんはよく言います。

「美智子さまも可哀そうだよね。若い時はなんだかんだで苦労されて、老後の今はホッとするかと思いきや、今度は子供や嫁さんや孫の悪口には、毎日が辛いだろうね。誰が好き好んで皇室などやっているものか。たまたまなってしまっただけのこと。それを、ああだこうだ言われてはお辛いだろうね。

テレビや週刊誌は金儲けのためだけにあら探し、世論なんて言うものは、新聞やテレビや週刊誌の中だけのことだってことがわからないのかな。現実世界は、サラリーマンは今日一日を過ごすだけで精一杯。世のお父さんもお母さんも、子育てと老後の親の世話で精一杯、老後の私たちだって、如何にして精一杯生き続けようか。誰が朝から晩まで、他人の汚職や原発問題や、ジェンダーフリーなんか考えているものか。

そう言えば、汚職のどこが悪いんだろうね。あれは金を持たない貧乏人の僻み根性が、話を大きく面白くしているだけのこと。金を持つ者が、それを欲しいとする者へあげているだけの事じゃないか。他人の金をかっぱらって貢いでいるわけじゃないよ」

九〇歳半ばとは思えない辛辣な世間批評はワイドショーのコメンテーター顔負けです。この大ばあちゃんは農家に嫁入りしましたが、当時は小学校の先生だったそうです。農家に畑仕事をしない小学校の女先生が嫁入りしたものですから、近所の人からは「あの嫁さんは畑仕事もしないで変わっているね」とよく陰口をきかれたそうです。おじいちゃんを生んだ後も四〇歳くらいまで先生を続けたそうです。そうすると大ばあちゃんの陰口を叩いていた近所の人たちも「あの嫁さんは偉いね、学校が休みの日は畑仕事を手伝っているよ、先生と畑仕事、なかなかできるもんじゃないよ」と尊敬の眼差しに変わったそうです。大ばあちゃんは言います。「何でも時間の積み重ねが解決していくもんさ、逆に言えば、物事の解決は時間に頼るしかない、ということかな」

大ばあちゃんは昔を振り返ってこう言いました。

「当時の田舎の小学校は、どの生徒もお百姓さんの子供たち。今になれば信じられないだろうが、靴を履いている子供は少なかったね。草履履きが多かったかな。お昼のお弁当は日の丸弁当。そのお弁当が豪勢になる日が一日だけあった。それは秋の運動会。盛り上がったね、朝から花火が上がって、一家総出で参加していたよ。コロナで家族の出席は一人に限るなんて、あのころは想像もできなかった。じいちゃん、ばあちゃん、父ちゃん母ちゃん、みんな笑顔だった。みんな生活は苦しかったけど、笑いがあった。

 今の世に足りないものは何かって。それは縁だと思うよ。東日本大震災のときは、絆という言葉が流行ったけど「絆」は自ら作り出すもの、それに対して「縁」は、好きでも嫌いでもなく、昔から自分を絡めているもの。どこの家に生まれるか、どんな小学校に入るか、どんな友達と会うか、どんな人と結婚するか、どんな仕事をするか、それはすべて「縁」のなせる技、その縁を丸ごと受け入れて生きて行くことができる人が、ほんとうの偉い人だ」

「でも、誰と結婚するかは、自分で決められるんじゃないの」

と僕が言うと、

「いや違うよ、それも縁のなせる技だよ。それと私が嫌いな言葉が、語り継ぐ、という言葉。よく言うじゃないか「戦争の悲惨は今後も語り継いでいかねばならない。二度と戦争を起こさないために」あれほど嫌な言葉はないね。今の世で誰が好き好んで戦争をおっぱじめようとするの。戦争の悲惨な記憶は徐々に消えて行けばいい。誰があんな悲惨な体験を語り継ぐものか。だから、お前にも戦争のことは話さないよ。おまえも大きくなって、戦争のことを知ろうと思えば、本を読めばいいのさ」

大ばあちゃんの言うことは、ますます奥が深くなります。

大ばあちゃんの部屋には本がうず高く積み重なっています。大ばあちゃんは、その昔、先生をやりながら女流作家を目指していたことがあったそうです。石井桃子の「ノンちゃん雲に乗る」に刺激されて、夜皆が寝静まると原稿用紙に向かったそうです。しかし、何度、新人賞に投稿しても入選することなく、あきらめて、小学校の文集に短文を寄せることで自己満足するようになったそうです。

先日、大ばあちゃんの教え子と称する六〇歳代の女性が、昔のボロボロになった文集を持って大ばあちゃんのところへ訪ねて来たことがありました。今は神奈川に住んでいる山崎美千代さんという人でした。

「やっぱりこの辺に来ると落ち着きますね。今住んでいるところもそれなりにいいところだけど、やっぱり生まれ故郷に勝るものなし、ですね」

 大ばあちゃんがこう言いました。

「どこに生まれるのか、これも縁ですからね。ウクライナに生まれた人もロシアに生まれた人も縁のなせる技ですよ」

大ばあちゃんが好きな言葉「縁」が出て、ふたりとも楽しそうに話していました。その文集は卒業生に渡したもので、大ばあちゃんが、ひとりひとりに花向けの言葉を綴ったものでした。僕も読ませてもらいました。

訪ねて来た美千代さん宛ての花向けの言葉は、

「美千代ちゃん、卒業おめでとう。あなたの夢はスチュワーデスになるとのこと。兼高かおるのような女性になって世界を飛び回ってください。でも、もっと大切なことは、お父さんやお母さんを大切にすることです。頑張ってね」

今時の先生では、と言うよりも、今の時代では書けない話です。昨日今日の僕が言うのも何ですけど、大ばあちゃんや美千代さんは良き時代を生きてきたのでしょう。

先日、その大ばあちゃんが倒れました。いつもの日曜日の朝食に、大じいちゃんと大ばあちゃんが、なかなかやってきませんでした。いつもは真っ先に来ている二人です。僕が様子を見に行くことになりました。声をかけても応答がありません。茶の間に二人の姿はなかったので、奥の寝室を覗くと、大ばあちゃんがベッドの上で静かにしていました。その傍らで大じいちゃんが座り込んでいました。

「大五郎か、婆さんが死んだよ。朝起きてみると息をしていなかった。救急車は呼ばんでいいよ。婆さんの口癖だったからな」

大じいちゃんは冷静でした。僕は走って朝食を前にして座っているみんなにこのことを告げました。みんな一瞬ポカーンとして、すぐには立ち上がれませんでした。それから救急車とパトカーが来ました。救急車は死亡確認すると帰って行きました。大ばあちゃんの一生は日曜日の朝にあっけなく終わりました。

 葬式はコロナもあるので家族葬でこじんまりやろうと言うことでしたが、ここは東京の田舎のようなところなので、あっという間に弔問者であふれました。この前、文集を持ってやってきた山崎美千代さんが弔辞を読みました。

「私達は比留間先生から色々なことを教わりました。国語、算数、理科、社会、それよりも何よりも一番大事なことは、縁を大切に、と言うことです。ここ日本に生まれたのも縁、この土地で生まれ育ったのも縁、お父さんやお母さんと出会ったのも縁、この友達と出会ったのも縁です。好きでも嫌いでもないけど、この縁は大切にするほかはないのです。この先生の言葉が今でも耳に残っています。先生ありがとうございました」

 これを聞いていた参列者の中には涙ぐんでいる人もいました。

 四十九日納骨も終わりました。大じいちゃんが法要の後の会食で挨拶をしました。

「女房の口癖は、私が倒れても救急車は呼ばないで。へたに長生きしたらみんなが迷惑するだけの事。よく言っていました。自分のベッドで眠りについたまま亡くなって本望だったでしょう。人間は朝起きて、初めて自分が眠っていたことに気づくので、起きなければ自分が死んだことにも永遠に気づきません。これも神様のご配慮なのでしょう」

 大じいちゃんも、大ばあちゃんに負けず劣らずの文学者なのだな、と誇らしくなりました。大じいちゃんは、中学を卒業すると戦時中ということもあって、高校に進学せずに親を手伝ってお百姓になったそうです。昭和の話として東北や九州の中学を卒業したばかりの子供たちが都会に働きに出る「集団就職」と言うものがあったそうです。昔の「三丁目の夕日」という映画をテレビで見たことがありますが、堀北真希のような赤いほっぺをした子供たちが親元を離れて都会に働きに出て来たのです。

後年、大じいちゃんは大じいちゃんのお父さんに言われたそうです。

「これに比べれば、お前は生まれ育った家でそのまま働けたんだから良かったな」

戦争が終わって一服すると、大じいちゃんは、このまま百姓仕事でもいいが、これからの世は「学」がなければだめだ、と言うことで夜間高校に通ったそうです。その夜間高校も首席で卒業した大じいちゃんは、大学の夜学に入りたかったのですが、お父さんから「百姓が大学行って何になる」と言われて許してもらえなかったそうです。そのころ結婚話があって相手は小学校の先生をしていると言う人でした。夜間高校を出ただけの息子とでは不釣り合いじゃないかな、大じいちゃんのお父さんもお母さんも、当初は気乗りがしませんでした。でも大じいちゃんは相手が先生なら、学問を教えてもらえるだろうとして、大ばあちゃんと結婚することになったそうです。大ばあちゃんは、小説を書く傍ら大じいちゃんの家庭教師もしていたのです。

だから大じいちゃんの博識はその辺の大卒と比べてもひけは取らなかったと、おじいちゃんがよく言います。

そのおじいちゃんは、両親から大学進学を勧められていたものの高校を卒業すると警視庁警察官になりました。これには大じいちゃんも大ばあちゃんも反対だったそうです。大学へ行けとも言わない、百姓仕事を継げとも言わない、ただ、警察官にはなるな、と両親から言われたそうです。その頃は大学紛争などで夜の街中でヘルメットをかぶった学生たちが機動隊に石や火炎瓶を投げて暴れまくっていた時代だったそうです。息子が、そんな荒れた現場へ出動してケガをしたり命を落としたりしたら大変だ。もっと、穏便な仕事を選んでくれ、と何度も言われたそうです。それでもおじいちゃんは自分の選んだ道を進みました。

おじいちゃんが警察官の道を志したのはそれなりにわけあってのことでした。おじいちゃんが高校生の頃、隣の中国では文化大革命真っ最中で子供まで旗を振って走り回っていました。終わりの見えないベトナム戦争で反戦運動も世界中に広がっていました。当時の高校の先生も進歩派が多くて学生運動にはやや好意的な雰囲気がありました。

おじいちゃんは剣道部に所属していたのですが、その監督をやっている古文の先生は、そんな先生連中の中で少しばかり浮いた存在でした。あの監督は右翼だぞ、反動だとの話が広まりました。

ある日の放課後、全共闘に憧れる生徒たち数人がヘルメットをかぶって道場に押し入り、道場の神棚を滅茶滅茶に壊して逃げて行ったそうです。その時、道場には誰もいなかったので大事にはなりませんでしたが、もちろん彼らだって剣道部の猛者がいるときにはこんなことはやれません。

平素はおそ松くんと言うあだ名のひょうきんな監督も、壊された神棚を見て烈火のごとく怒りました。校長や教頭に掛け合っても、学校の備品でもないしなと言って新しい神棚は用意してくれなかったそうです。監督は仕方ないので自宅の神棚を持ち出して道場に供えました。その日、新しい神棚を前にして監督以下部員全員が整列しました。柏手を打った後、監督はこう話しました。

「隣の中国では文化大革命とやらで神も仏もないそうだ。全共闘は東大を封鎖して教授を小使い呼ばわりする。これが進歩的だそうだ。既成事実はすべて破壊するとばかりに、教室から駅ホームから電車まで何もかもを壊している。こんな連中のやることが許されるはずもない。しかし、これを言う大人は少ない。こんなことを言うと、すぐに右翼だとか反動だとか言って吊るしあげられるからな。

 実は自分の兄が警視庁で機動隊をやっている。先日、新宿で学生たちが大暴れしたのはニュースなどを見て、君たちも知っていることと思うが、兄貴もその荒場に出動していた、深夜になっても騒動が収まらない。兄貴の部隊は転進を命ぜられて駆け足で次の現場へ向かっていたそうだ。中には足を負傷して引きずりながらも懸命に走っている隊員もいた。そうすると歩道からパラパラと拍手が起きたと言うんだ。また、嫌がらせの拍手か、いい加減にしろ、と思ったが、その拍手はだんだん大きくなっていったそうだ。それはいやがらせではなく機動隊を応援する拍手だったそうだ。そうか、俺たちを応援する人間もいるんだ、そう思うと涙が出てきたと言うんだ。隊員は誰しもへとへとに疲れていたが、誰しも流す涙が疲れを取ってくれたそうだ。

別に君たちに機動隊を応援してくれなどと言うつもりはないが、こういう男たちも、こういう若者も全共闘に負けず劣らず一杯いるんだ、ということをわかってもらいたくてこの話をした。牧師のようなことを言うのではないが、神棚を壊した全共闘くずれに、神様の罰が当たらなければいいが」

最後はアーメンと言って、おそ松くんならではのボケをかましたそうです。これを聞いた父親譲りの熱血漢のおじいちゃんは、たちまちのうちに警察官になることを決めたそうです。ただし、この話は最後まで両親にはしなかったようです。

おじいちゃんは、警察学校を卒業して交番勤務を経て機動隊員になったそうです。それを聞いて大じいちゃんも大ばあちゃんも、不吉な思いになったそうです。心配事の九割は現実のものとならない、と二人とも信じていましたが、それがある日、現実のものとなりました。

秋の長雨が続く夜の事、電話が鳴りました。大学紛争に出動したおじいちゃんが、学生が屋上から投げ落としたレンガがヘルメットを直撃して意識不明のまま病院へ運ばれたが、今だ意識は戻らず、とのことでした。

 大じいちゃんと大ばあちゃんは、二人を迎えに来た警察の車に乗り込みました。大じいちゃんは着替えを入れたボストンバックを抱えていました。病院で泊まり込みになることを覚悟していたそうです。戦時中の経験ある人は、この辺が違うんだろうな、と大人ぶって感心しました。

 週末の雨の夜、道路はどこも混んでいました。運転していた警察官が、助手席の警察官に言いました。「緊急走行で行きましょう」助手席の警察官が赤ランプとサイレンのスイッチを入れました。サイレンの音が響き渡りました。驚いた大じいちゃんが、

「お気持ちはありがたいが、普通走行で行ってください。息子一人のために皆に迷惑をかけることは心苦しい。私たちが病院へ着こうが着くまいが、息子の命は変わりません。息子の生きる力を願うだけです」

 大ばあちゃんは、姿勢を正して前を向いたままだったそうです。女は強いな、大じいちゃんは思ったそうです。

「私が産んだ子供です。こんなことで死んだりしません。もし死んだら、よくやったね、と褒めてあげます」

 ますます女は強いと言うか、冷たいと言うか、この辺が、自分の肉体を分けて生んだ母親と単なる父親の違いかな、と大じいちゃんは思ったそうです。

 病院に着くと玄関の前で大じいちゃんと同世代の男性が待ちかまえていました。その男性は、深々と頭を下げて、

「息子さんをこのような目にあわせて大変申し訳ありませんでした。私は息子さんが所属する機動隊の副隊長をやっている鶴見と申します」

 大じいちゃんは、この男性を見てどこかで見た顔だ、と思ったそうですが、そんなことを考えている場合ではありません。すぐに病室へ向かいました。すると病室の方から笑い声が聞こえてきました、不謹慎だな、と思いながらドアを開けると、ベッドの上で酸素マスクをずらして大口を開けて笑い声をあげている息子の姿がありました。大じいちゃんも大ばあちゃんも一瞬人違いかなと思ったそうです。ベッドの名札を見れば、まさしく息子に違いありませんでした。その脇には、当時看護婦さんだったおばあちゃんの姿がありました。出来過ぎた話ですが、本当の事です。

「おまえ、もう大丈夫なのか」

大ばあちゃんが話しかけると、そばにいた看護婦のおばあちゃんが、

「先ほど意識が戻りました。これから精密検査をしますが、大変お元気です」

 大ばあちゃんは、その場で座り込んでしまいました。これが、姑と嫁の初めての出会いの場でした。大じいちゃんは「煙草を吸ってくる」と言って病室を出ました。階段の踊り場で煙草を吸っていると、玄関で出迎えてくれた副隊長が、そばに寄ってきて「私の顔に記憶はありませんか」と言うので、大じいちゃんは記憶を手繰り寄せました。

「鶴見か、夜間高校の悪ガキだった、あの鶴見か」

「悪ガキとはひどいな」

 二人は夜間高校の同級生でした。二人は煙草の煙をもうもうと吐きながら昔話に花を咲かせました。と言っても、おじいちゃんが意識を回復したからこういう展開になったので、もしそうでなかったら二人の邂逅はなかったでしょう。副隊長は不服そうに言いました。

「それにしてもあの看護婦はひどいよ」

「どうして」

「部下に車で親御さんを迎えに行かせた後、僕はずっと雨の中であなた達が来るのを待っていたんだ。僕はあの看護婦に、容態の変化があったら、僕は玄関にいるからすぐに教えてくれ、と頼んでいたんだよ。今聞いたら、患者さんとの話に夢中になって忘れていました、申し訳ありません、と言うじゃないか、意識が戻ったのも知らずに僕は雨の中、立っていたんだよ」

 おじいちゃんとおばあちゃんは高校の剣道部で一緒だったそうです。高校を卒業してから会ったことはなく、久しぶりにこの病室で再会したとのことです。おじいちゃんが、ベッドの上でなんで笑っていたかと言うと、あの剣道部の監督、おそ松くんの下手な駄洒落「さあ稽古もおわりだ、あとはシャワーを浴びて、みんなシャーワセ(幸せ)になろう」

と部員をズッコケさせていたのを思いだして二人で笑い転げていたとのことです。親や上司が死ぬほど心配しているというのに、なんとも親不孝、上司不孝なおじいちゃんです。

 おじいちゃんは退院後、リハビリを兼ねて実家にいました。そこへ鶴見副隊長が果物かごを抱えてお見舞いに来ましたが、しばらくするとお見舞いもほどほどに大じいちゃんと二人で酒盛りが始まりました。静養中なのでリンゴジュースを飲んでいるおじいちゃんを見て、副隊長は、

「いや、あんたの息子さんとは知りませんでしたよ。でもよく見れば似ているな、さすが親子ですね」

「似ていますか」

 大じいちゃんが言うと、

「この息子さんはせっかちと言うか、正義感が強いと言うか、この前の件でも、先頭の隊員が投石を受けて倒れたんだ、すると、俺の制止も聞かずに、その隊員を助けようと突っ走ってあんなことになっちゃった」

 副隊長は暗におじいちゃんを褒めているのですが、

「それが俺に似ていると」

 大じいちゃんが言うと、副隊長は、

「あんたは忘れたかもしれないが、夜間高校の帰り道、一軒家の火事に遭遇したことがあったろう」

「そう言えばそんなことがあったな」

「その時あんたは、止めようとする俺たちを振り払って燃え盛る家の中へ飛び込んで行った」

「あの時、家の中から泣き声が聞こえたんだ」

「そしたら、あんたは一匹の猫を抱きかかえて家から出てきた。学生服は焼けていたぞ、幸い家の中にはだれもおらずに人命救助ならぬ猫命救助」

「そうだったな、無我夢中だったからよく覚えていないが、そんなこともあったな」

「今回の息子さんも倒れた隊員を助けようと走ったが、先に倒れた隊員は躓いただけで軽傷、息子さんは重症」

 息子が熱血漢なら父親も熱血漢、親子はやっぱり似るんだな、と言っても、大じいちゃんもおじいちゃんも僕にとっては誇れる人です。

 当時は、あさま山荘で機動隊員二人が射殺されたり、成田空港反対闘争や渋谷暴動で機動隊員が殺されたり、三菱重工業爆破事件など、今では考えられない騒然とした時代だったそうです。大じいちゃんが副隊長に言いました。

「なぜ、日本の警察は銃を撃たないんだ」

「日本警察の使命は、生け捕りだからね、一発でも撃ってごらんなさいよ、世間は大騒ぎだ」

「あんたに言うことじゃないけど、それなら警察官はやられっぱなしか」

「俺がもし警視総監なら、いや、警察庁長官なら総理と直談判して、機動隊員に銃を撃つことを許可しないなら、機動隊員を殺そうとする集団と対峙する現場には出動させない、とするんだがな。警察官僚の一人くらい、機動隊員を捨て石にはできない、と発言する人がいてもよさそうだがね」

 そんなことがあってから、大じいちゃんは農作業をする傍ら、警察の応援団になったそうです。春と秋の全国交通安全運動では、黄色の帽子を被って交差点に立って旗を振りました。年末には、仲間を引き連れて拍子木を叩いて町内をパトロールしました。また、なけなしの貯えを崩しながら、協力金として警察署に寄付をしたりもしたそうです。

 ある時、大じいちゃんは知り合いの人にこんなことを言われたことがあったそうです。

「あんたはこんなことをしていれば、交通違反をしても警察は勘弁してくれるんだろう」

 大じいちゃんは、こう返したそうです。

「全くその通りです。私は交通事故を起こして人を死なせても無罪放免」

 その人はバツが悪そうにして帰ったそうです。

「これも縁だよ、縁があるからこういうことをやっているんだよ、と答えたかったけど、ああいう人には正論は通じないからね」

 大じいちゃんは偉い。

 大じいちゃんは、大ばあちゃんが亡くなってから元気がなくなりました。朝食と昼食は自分で用意してとっていましたが、夕食は僕の家やおじいちゃんの家に寄って食べていました。一緒に夕食を取っていると、大じいちゃんが時々変なことを言うのに気がつきました。

「大五郎、明日でもいいから、また昨日の続きを読んでくれんか」

 僕が「昨日の続きって、何の本」と言うと、

「昨日、俺とばあさんに聞かせてくれただろう。「ノンちゃん雲に乗る」だよ。あの本が、ばあさんのお気に入りだった」

「ノンちゃん雲に乗る、なんて本、僕見たこともないよ、それに昨日は修学旅行で日光に行っていたんだから」

 そこまで言うと、お父さんとお母さんが首を振って、僕に話を辞めさせました。

「そうだったかな、俺の思い違いか。ばあさんの口癖は、救急車は呼ばないで、ノンちゃんみたいに雲に乗って行けばいいんだから」

 その夜は、大じいちゃんを家に送り届けてベッドに入るのを見届けてから、おじいちゃんとおばあちゃんを呼んで、家族会議でした。おじいちゃんは、

「これを認知と言うのかな。でも暴れたり、徘徊したりするわけでもないし、今のところは大丈夫だろう。しばらく様子見といこう。俺のところか、雄三のところに一緒に住んでくれれば一番安心だけど、親父のことだから嫌がるだろう。親父は、幾つになっても独立独歩だからね」

 おばあちゃんも言いました。

「私も何度も一緒に住みましょう、と言ったことはあるのよ。そのたんびに、それなら老人ホームへ入る、と言うんですもの。でもね、老人ホームが気楽だって言う気持ちはわかるな」

お父さんが言いました。

「身内に気を遣わせたくない。その分、金を使えば、他人が面倒を見てくれる。他人同士だったら気を遣う必要もないしね」

 お母さんが言いました。

「それも冷たいようだけど、現実かも。お母さんは民生委員もやっているから、そのへんはどうお考えですか」

「老人ホームにはそれなりの伝手はあります。でも老人ホームに入るか入らないか最後の決断は御本人ですからね」

 その数日後、日曜日の朝食のときに、大じいちゃんがみんなに話しました。

「俺は老人ホームに入ることに決めた。まだボケてはいないと思うが、この先どうなるかもわからんしな。みんなが俺のことを心配してくれるのは嬉しいが、みんなに気を遣わせるのは辛くてな」

 おじいちゃんやおばあちゃん達の、この前の会話をまるで聞いていたかのような発言にみんな驚きました。

おばあちゃんが、

「急に変なことを言わないでくださいよ、そんなことはありませんよ、家族がお互いに気を遣うなんて当たり前のことじゃないですか」

 お母さんは、こうも言いました。

「おじいちゃんの老後の面倒くらいなんでもありませんよ」

 僕は子供ながら、なんでもないとはちょっと言い過ぎではないかと思いました。二人の話は、若干、空々しく聞こえましたが、嫁としてはこれが正論なのでしょう。おじいちゃんとお父さんは黙っていました。これに対して、大じいちゃんは

「いや、決めたことだからね、洋子さん、あんたは民生委員もやっているから、この近くで安そうな老人ホームを探してくれんか、年金だけで賄えるような」

 しばらくして大じいちゃんは近くの介護付き有料老人ホームに入ることになりました。入所の日、おじいちゃんとおばあちゃんとお父さんと僕も荷物運びで付き添いました。ワンルームマンションのようでした。エントランスを入ると、奥には大きな明るい大食堂がありました。大じいちゃんの部屋は四階のベランダから富士山が良く見える部屋でした。トイレとバスルームと簡単な台所もありました。大じいちゃんが住んでいた築百年の家とは全く違って、何もかもが白くて明るすぎるような部屋でした。

こんな部屋で大じいちゃんは大丈夫だろうか、僕は思いました。大じいちゃんが慣れ親しんだ木のぬくもりとか、湿っぽさとか、薄暗さとか、床のきしむ音もなく、あまりにも整然とした部屋は、家族に気を遣わせないだけで、あとは何もないような気がしました。それでも、大じいちゃんは電動ベッドのボタンを押して上げ下げを面白がっていました。

入所してから、僕は毎日のようにこの部屋に遊びに行きました。「ノンちゃん雲に乗る」という本を、大ばあちゃんの部屋の本棚から探し出して持って行きました。僕はこれを大じいちゃんに読み聞かせました。すると、大じいちゃんが「次は楡家の人々を頼むよ」と言いました。

「その本はどこにあるの」僕が聞くと、

「俺の本箱の一番上の一番右」

 大じいちゃんの言う通りに「楡家の人々」は、一番上の一番右に鎮座していました。大じいちゃんはちっともボケていないじゃないか。作者は北杜夫と言う人で、スマホで調べると、歌人で医師の斎藤茂吉の息子、二〇一一年に死去、とありました。さっそく、この本を持って行き、大じいちゃんに読み聞かせ始めました。分厚い本なので何回も通いました。読んでいるうちに、僕もすっかりこの本が好きになってしまいました。

「大じいちゃんは、この本が好きなんだね」

「大好きだよ、婆さんが勧めてくれた本だからね。初めてこれを読んだのは四〇歳を過ぎたころだったかな。それまでは、徳川家康や織田信長あたりを読んでいたんだが、これを初めて読んだ時は、とっても新鮮だった。一番良かったのは、作者の北杜夫に気取ったところがなかったことかな」

 大じいちゃんは、全く認知でも何でもないよ、家に帰ってみんなに言いました。

 お父さんはこんなことを言いました。

「昔、椿山課長の七日間、という映画があったが。西田敏行演じる中年の課長が突然死んであの世に行くが、初七日の七日間だけこの世に戻って来るという話しだった。西田敏行がこの世に戻ってみると認知症でホームに入ったはずのお父さんがパソコンを叩いているところを目撃してびっくりする。お父さんは僕たちに迷惑をかけまいとして、認知の振りをしていたことを知る」

 お母さんが、

「大じいちゃんがお芝居をしているということ」

「お芝居とまでは言わないが、無意識のうちに芝居めいたことをしているんじゃないかな、僕たちに迷惑をかけまいとして」

 入所して一ヶ月ほど経った頃、老人ホームからおばあちゃんの携帯に電話が入りました。おばあちゃんが、ぼくんちへ飛んできて、お母さんに車を出してほしいと言いました。大じいちゃんが救急車で病院へ運ばれたとのことでした。

「所長の大熊さんが言うには、七転八倒するような痛みではないが、おなかと背中が相当痛むと言うので、念のため救急車を呼んだと言うの。大熊さんの経験で行くと、もしかしたら癌かも知れないから、と言うのよ」

 おばあちゃんはお母さんが運転する車で総合病院へ向かいました。検査の結果、腸閉塞ではないか、と言うことでした。癌ではないらしいということでみんなほっとしました。

ところが腸閉塞の治療としてイレウス管という長いチューブが二四時間大じいちゃんの鼻に差し込まれたままでした。これは耐え難いことでしょう。もし僕があんなことをされたら、それこそ死にたくなります。それが辛いから、大じいちゃんは無意識にそのチューブを抜いてしまうということで、両手にグローブをはめられて、なんとも辛そうでした。おばあちゃんが、何とかグローブだけでも外してもらえないか、と先生に頼むと、ご家族がそばにいる間は外してもいいですよ、と言われたので、僕たちはみんなで交代で大じいちゃんに付き添ったのです。

そのチューブは丸々五日間大じいちゃんを苦しめました。そのチューブが外されてみんなホッとしたのも束の間、医師からおばあちゃんに説明がありました。

さらに検査をしたところ腸閉塞もあるが、すい臓がんで転移もあることが判明したとのことでした。おばあちゃんが、医師に余命はどのくらいと尋ねると、もって後三か月と言われたそうです。おばあちゃんも、元看護婦ですからすい臓がんが発見しにくいことや、この年では手術は無理なことはわかったそうです。

「そうだったら、あのイレウス管とやらを無理して鼻に差し込むようなことはしなくても良かったんだ。お父さんは、あれを丸々五日間も差し込まれたままだったんだよ。癌と初めからわかっていたら、もっと静かに余生を送らせてあげたのに」

 おばあちゃんは悔しさで一杯のようでした。僕も悔しかったです。

 その後、大じいちゃんのところへお見舞いに行くと、大じいちゃんが僕に言いました。

「ここを退院したら盛大な快気祝いパーティーをやろう。立川のホテルでやろうか。家族親戚大集合、大五郎の友達も呼んでいいぞ。全部俺持ちだ」

 家に帰ってこの話をみんなにしました。

 お父さんが「いつかはおじいちゃんにこのことを告げなければならないだろうね」

 お母さんが「がんで余命三ヶ月だと言うの」

「そこまでは言う必要ないけど、このまましばらくは療養生活が続く、と言うことは言っておかないとね」

 おばあちゃんが、

「先生が、この病院では長くは入院していられないから、長期療養型の病院を探して転院してください。一階に相談室がありますから、そこで病院を紹介してくれるはずです、と言うのよ。この話をお父さんにできるのはあなただけですよ」

 と言っておじいちゃんを見ました。おじいちゃんは、

「明日にでも病院へ行って話すか、快気祝いパーティーで盛り上がっているところへ、この話を持ち出すのは辛いな、こっちが死にたくなるよ」

 その翌日、おじいちゃんとおばあちゃん二人で大じいちゃんの病室へ入りました。ベッドの脇のテーブルには、どこから持ってきたのか立川のホテルの宴会パンフレットがありました。

「これな、昨日退院した安川さんが置いていったんだ。ほら、向かいのベッドで寝ていた人だよ。安川さんは立川のホテルでマネージャーをやっているから、その節は口をきいて割引しますよ、と言ってくれてな」

 余計なことをしてくれるな、おじいちゃんとおばあちゃんは顔を見合わせました。

「お父さん、実はね、もう少し長引きそうなんだ」おじいちゃんが言うと大じいちゃんが、

「長引くって、何が長引くの」と素直に聞き返しました。

「お父さんの入院だよ。それに、このままこの病院にはいられないから、長期療養型病院へ転院することになるんだ」

「長期療養型か、それじゃしばらくは退院できないか」

 その夜、おじいちゃんとおばあちゃんが我が家へ来て、その時の様子を話しました。

 おばあちゃんが、

「お父さんは、黙々と頷くだけで、あとは何も言わないのよ。気味悪いくらい。ある程度の予想はついたのかしら。そしたら、最近「大村山」はどうだい、っていきなり聞くのよ、大村山って誰のことって聞くと、関取の大村山だよ、って言うから、私は相撲は見ませんからわかりません、と言ったの」

 大村山と言う関取は、この武蔵村山市から初めて出た関取です。市役所のロビーには大村山のでかい写真が立っています。この大村山は大じいちゃんが懇意にしている人のお孫さんと言うことで、大じいちゃんは大村山の応援団の顧問のようなことをやっているそうです。

 おじいちゃんが、

「俺が、大村山は負けが込んでいるね調子悪そうだ、と言うと、親父は、あの男は威勢のいいときはいいが、悪くなるとトコトンわるくなる、多少鬱の気があるんじゃないかな、と言っていたよ」

 と言うと、おじいちゃんはお父さんの方を見て

「おじいちゃんは、孫のお前のことをいつも気にしていたからな」

 と、いきなりお父さんの話題に変わりました。実はお父さんも軽い鬱病なのです。これは本人も家族も隠すことなく公明正大の事実だったので僕も知っていました。

ここでお父さんの話をしたいと思います。お父さんは東大に現役合格した人でした。合格発表の日、普通の家庭なら家族そろって大喜びをしたでしょうが、この比留間家では、もちろん喜んだのですが、その喜び方が少々変わっていたそうです。大じいちゃんが、

「雄三は、勉強ばかりしておって大丈夫だろうか」

 と言ったそうです。おじいちゃんが、

「受験オタクのようなところもあったしな、世間に揉まれて潰れなければいいが」

 と言ったそうですが、二人の予感は当たりました。お父さんは東大法学部を卒業して官僚の世界に入りました。官僚と言う仕事はどういうものか、何となくはわかりますが、とにかく辛そうなイメージです。官僚の生活に入って二年ほど経ったとき、朝起きていつものように歯磨きをしようとすると手がブルブル震えて歯ブラシを持つことができなかったそうです。ネクタイを締めようとすると、結び方がわからなくなっていました。異変に気付いたお父さんは、仮病をつかってその日は休みました。

お父さんは、疲れが溜まったのだろうと思ったそうです。ここのところ疲れに疲れて朝起きるのもやっとの思いで出勤すると、デスクには難問奇問がうず高く積みあがっている毎日でした。夜一〇時ころになると仕事場もそろそろお開きの雰囲気になり先輩に連れられて地下の食堂で缶ビールを飲むと、しだいに気分も盛り上がって明日も頑張ろうと思うのですが、朝になるとまた元の木阿弥で、気分はまた落ち込んでいます。そんなことを繰り返していれば病気にもなります。ある日、上司から病院へ行ってこいと言われました。誰の目にもお父さんの病状は重いと見えたのでしょう。当分の間療養を要する、との診断書をもらってしばらく休職することとなりました。都心に近いアパートに住んでいたのですが、そこを引き払って大きなリュックを背負っておじいちゃんの家に帰ってきました。官僚との決別を決めていたからです。

元看護婦のおばあちゃんが、おじいちゃんに言ったそうです。

「この病気には頑張れはだめですからね」

「俺だってそのくらい知っているよ。息子一人くらい高卒の俺が食わせてやるよ」

 お父さんは、昔から使っていた二階の六畳間で朝から晩まで何もせずに窓から通りを見ながら過ごしていました。決まった時間にごみの収集車がお馬の親子のメロディーを流しながら通ります。郵便屋のバイクが慌ただしく通ります。近所の老人連れがゲートボールのスティックを担いで歩いて行きます。決まった時間になると、小学生の下校を告げる子供の声が防災無線のスピーカーから流れます。何事もなく、いつものように同じ光景が繰り返されるなか、ある日の昼過ぎ、通りを歩く若い女性から声をかけられました。

「すいません、足立さんと言うお宅を探しているんですが、ご存じでしょうか。番地で言うとこの辺なんですが、道に迷ってしまいまして」

「足立さんならこの先ですよ。そこの十字路を右に曲がってすぐ右です。この辺は昔のあぜ道がそのまま道路になったようなところですから迷ってしまいますよね」

 その女性は深々と頭を下げて行きました。お父さんは思ったそうです。誰かに似ている。昭和の映画女優、そうだ「芦川いづみ」だ。「芦川いづみ」とは、昭和時代の日活映画の看板女優で石原裕次郎などと共演して日活の黄金期を盛り上げた人だそうです。これは明らかに大じいちゃんかおじいちゃんの世代なのに、若いお父さんがなぜか彼女のファンだったのです。お父さんは、昔の映画をテレビで見て、東洋のオードリーヘップバーンの彼女に一目ぼれをしたそうです。

その芦川いづみ似の女性が、その日の夕方比留間家のチャイムを鳴らしました。

「雄三、おまえにお客さんだよ」とのおばあちゃんの声に玄関に降りると、さっきの女性が立っていました。その女性は、職場の同僚が赤ちゃんを産んだのでお祝いに来たのですが道に迷い困っていたところ大変助かりました、これはその同僚の手づくりなのですが、お裾分けですと言ってケーキを差し出しました。

「まあ、そんなことでわざわざありがとうございました。ちょっとお上がりになってお茶でも」

 とおばあちゃんがお父さんの代わりに挨拶すると、

「バスの時間もありますのでここで失礼します」

と言って帰って行きました。これが姑と嫁の初の出会いになるとともに、お父さんとお母さんの初の出会いでした。これも出来過ぎた話ですがほぼ本当のことらしいです。赤ちゃんを産んだ足立さんの娘さんとお父さんは小学校の同級生だったことから、芦川いずみ似の女性を紹介してくれないかと持ち掛けたそうです。鬱病のお父さんとしてはなかなか積極的な行動でした。

足立さんの娘さんの仲立ちでお父さんとお母さんの交際が始まったそうです。芦川いずみに似た女性は山崎麗奈さんと言う女性で青梅市にある病院で事務をやっている人でお父さんとは同年齢でした。ただ僕はいつも思うのですが、お母さんとスマホの写真で見る芦川いづみがどうしても結びつきません。芦川いづみに似ていなくはないと思いますが、そんなに似ているかな。

お父さんとお母さんの結婚式は立川駅前のホテルでやったそうです。今は結婚式も簡素化されたそうですが、当時はまだ昭和の雰囲気もわずかに残っていて、結構盛大なものだったそうです。お父さんは、その頃、大じいちゃんの口利きで学習塾の講師を始めたばかりのころでした。東大法学部出身の講師は人気があって塾の経営者は大喜びだったそうですが、お父さんには結婚費用などあるわけなく、当初は式は上げないつもりだったのですが、大じいちゃんが費用丸抱えで無理やり式をやらせたそうです。やはり孫が可愛かったのです。大じいちゃんは地元の名士のようなところもあって、孫と嫁さんをみんなに披露したかった、と言うのが本当のところだったらしいです。大じいちゃんは会う人ごとに、嫁さんを見てくれよ、昔の映画女優の芦川いづみにそっくりだろう、そう言われた人たちは嫁さんを見てニコニコしながら頷いていたそうです。そうかい、似ているのかな、などと正論を言う人はいなかったそうです、当たり前ですが。翌年僕が生まれると、大じいちゃんは孫のために家を建ててくれました。何もかも大じいちゃんのおかげでした。

僕は今のところ、お父さんのように優秀ではありません。我が家族は誰一人として僕に勉強をしろとは言いません。学習塾や英語塾などには一切通わずにのんびりと小学校生活を送っています。その割には、自分で言うのも変ですが成績はまあまあです。この前、こんな作文を書いて野口先生に褒められたことがありました。遠足に行った作文ですが、

「暑い中、少し疲れてうつむき加減に河原の道を歩いていると、急に涼しくなりました。見上げると大きな木の下にいました。大きな木で広い枝葉が僕たちに涼しさをくれていました。その枝葉の上には、雲一つない空が大きく広がっていました」

 野口先生は、

「大五郎の作文には感性がある」

 と褒めてくれました。僕はこれをきっかけに小説を書いてみようかと思いましたが、まだ、一遍も書けていません。なぜ小説を書こうと思ったかと言うと、先生に褒められたこともあるのですが、今のお父さんは、学習塾の掛け持ちをやったり大学の非常勤講師をやったりして稼いでいますが、その傍ら、ひそかに小説を書いているのを僕は知ったからです。今だ比留間雄三の本は本屋に並んでいないところを見ると、作家の誕生はまだまだ先のことのようです。

 おじいちゃんが大じいちゃんに転院の話をしてから一週間後、大じいちゃんは青梅の山あいにある長期療養型病院へ移ることになりました。これも不思議な縁で、昔、お母さんが事務員として勤めていた病院でした。家族全員で付き添いました。大じいちゃんはワンボックスの寝台車でゆっくりゆっくり走って行きます。その後を僕たちが乗る車が付いていくのですが、後ろの渋滞が気になるほどの遅い速度でした。

「さすがに病人を乗せた寝台車だけあって運転が慎重だね」

 お父さんがおじいちゃんに言うと、おじいちゃんは、

「親父、俺達には平気な顔をしていたが余命ないことを覚悟したんだろうな、この世の見納めとして窓から奥多摩の山々を上目遣いで見ているんじゃないだろうか」

 まさか運転手が大じいちゃんにこの世の見納めとして速度を落としているとも思えませんが、そんなことを考えてしまう山道でした。病院へ着くと大じいちゃんは四人部屋の窓側のベッドに案内されました。お母さんは、僕が生まれるとこの病院を退職したとのことで、まだ知り合いの職員も何人かいて、

「この度は祖父がお世話になることになりまして」

 とあちこちで挨拶をしていました。病室の壁には「〇時~〇時窓向き、〇時~〇時廊下向き」との表示があったので、お母さんに、

「これはなに」と聞くと、

「寝返りを打たせる時間よ、おじいちゃんはまだそこまで行っていないから大丈夫だけど、自分で寝返りを打てない患者さんは介護士が寝返りを打たせるのよ。そうしないと床ずれが起きるから」

 と言いました。病院や病室は静かそのものでした。前の病院のように救急車があわただしく入って来ることもありません、ストレッチャーが走り回ることもありません、病室に老人たちが静かに寝ているというか、自分のゴールを静かに見据えているかのようでした。でも、前にいた老人ホームよりも大じいちゃんには親しみやすそうでした。ここには、うす暗さも、湿っぽさもありました。ワンルームの老人ホームにはないものがありました。

 大じいちゃんを病院へ送り届けた翌朝、病院から電話がありました。今朝から大じいちゃんが意識がなくなったと言うのです。家族全員で病院へ向かいました。先生が言うには、ここ二三日が山でしょう、と言うことでした。昨日までは元気とまでは言えませんが、しっかりと歩いて会話もしていたのに、みんな信じられませんでした。そして先生の言うとおり、四日後早朝に亡くなりました。苦しみもせずに息を引き取ったそうです。こうして大じいちゃんは、死んだことにも気が付かず、ノンちゃんの雲に乗って行きました。

 大ばあちゃんの時と同じお寺で葬式が行われました。大じいちゃんは、この土地では名士と言ってもいい存在だったので、弔問者は後を絶たず、お焼香には長い行列ができました。近くの駐在さんが交通整理を買って出てくれました。

おじいちゃんが重傷を負ったときの鶴見副隊長が杖をつきながらやってきました。これを知ったおじいちゃんが、慌てて来賓席の最前列に案内しました。後ろの方には髷を結った着物姿の若者がひときわ目立っていましたが、あの大村山関でした。

 おじいちゃんが、鶴見副隊長にひどく恐縮しているようです。自席に戻って来たおじいちゃんがおばあちゃんに何やらささやいています。

「鶴見さんが自分に弔辞を読ませろ、と言うんだよ。お父さんよりは少しは若いが、それでも九〇歳だよ、あの年で大丈夫かな」

「椅子に座わったままマイクを持ってもらえば大丈夫でしょう」

「それはいいんだけど、呂律が回るのかな、ちょっとあやしい、本人に気の毒にならないかな」

 読経もお焼香も終わり、鶴見さんの弔辞となりました。用意していた椅子には座ることなく立ったまま弔辞を読み上げました。おじいちゃんの心配をよそに副隊長は呂律も心配することなく、朗々とまではいかないものの、参列者を見回しながら堂々と読み上げ始めました。

「人間はいくら年とっても、そのオーラは変わらないな」

その時、おじいちゃんは思ったそうです。

「比留間君と私は、夜間高校の同級生でした。もちろんこの年ですから、あとの同級生はほとんどがあの世の人となってしまい、数少ない生き残りでした。そんな比留間君に先立たれて何とも悲しいことです。老人には過去があるばかりで未来はないよ、よく人は言いますが、そんなことはありません。

老人には未来はないとともに過去もありません、恥多き過去なんか、そんな重たいものをいつまでもひきずっている訳にはまいりません。老人には今日、今のこの一瞬しかないのです。今この一瞬をいかに精一杯生きて行くか、それしかないのです。今日が終われば、明日も終わる、明日が終わればそのまた明日も終わる。この繰り返しです。ただ、今日この一瞬が、繰り返されていくだけのことです。多分今頃も、比留間君は、自分が死んだことに気が付きもせずに、この一瞬を精一杯生きているでしょう。

比留間君も私も、戦時中を生き延びて、高度成長期も生きて、バブルも体験して、昭和天皇の崩御、平成天皇の生前譲位も見てきました。平成天皇のことをどうこう言うつもりは全くないのですが、誤解を恐れずに言わせてもらえば、生きる限り天皇を続けていただきたかった。どんなに耄碌しても天皇は天皇なのです。これを支えるのは国民の役目です。義務です。天皇と我々国民を繋いでいるのは「縁」に他なりません。こんなことを比留間君と話し合ったことがありました。今となっては、そんなことを本気で話し合える人がいなくなりました。実に悲しいことです」

おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも泣いていました。

葬儀を終えておじいちゃんが涙ながらに言いました。

「親父もお袋も、実にいい人ばかりに囲まれて幸せだったな、あんないい葬式を見たら、守衛なんか馬鹿らしくてやっていられないよ、明日退職届を出しに行こう」

 「いい葬式」と「いい人」と守衛を辞めることがどこで繋がるのか、僕には不思議でした。おばあちゃんも、おじいちゃんの顔をしばらく不思議そうに見ていました。僕はスーパーマンを思いだしました。おじいちゃんは、本当はいつまでも世の悪に立ち向かう誰もが知る力強いスーパーマンでいたかったのではないでしょうか。事件が起きるたびにいなくなる、うだつが上がらない新聞記者のクラーク・ケントを装って守衛をやっていましたが、そこには鬱々としたものがあったのではないでしょうか。それとは別に、おばあちゃんが、

「守衛なんか辞めちゃいなさいよ、畑は形ばかりだけど、まだあるんだから、家庭菜園でも二人で始めましょうよ、年金だけでも、やり繰りしていけば何とか行けるでしょう」

 と言うと、

「そうだな、比留間家の家庭菜園の始まりだ、本当はこういう老後の生活がしたかったんだ」

 おじいちゃんは嬉しそうでした。と言うことで夫婦で家庭菜園を始めたのですが、慣れぬことで二人ともすぐに足腰が痛くなりました。

「守衛の方が楽でよかったな、親父はこんな辛い仕事を毎日毎日やっていたんだ、お百姓さんは偉いな」

「私も、民生委員であちこち回っている方が性にあっているわ」

半月もしない内に二人は音を上げて家庭菜園は打ちきりになりました。裏の納屋には肥料などの大きな袋が幾つも積み上げられたままです。おじいちゃんもおばあちゃんも、せっかちでやることは早いのですが、諦めも早いのです。これが我が家の家系なのでしょうか。その後、おじいちゃんは煙草を吹かしながら「暇だな、何にもやることがない」とぼやいています。

 さてさてこれから我が家はどうなって行くのか。楽しみなようで、そうでもないような。でも僕はこの家族の一員であることに誇りを感じている、とまでは言いませんが、それに近いものを感じています。そうだ「楡家の人々」ならぬ「比留間家の人々」と言う小説を書いてみようかと思いました。そう言えば、楡家の人々を書いた北杜夫は、誰もが知る躁鬱病の本家のような人です。我が家にはお父さんに限らず、少なからず躁鬱病の血が流れているのかもしれません。

 最後に付けくわえますが、あの葬儀の末席でひときわ目立っていた大村山関ですが、十両から幕下に落ちて相撲界をあっけなく引退したそうです。今では実家を改装してうどん屋「大村山亭」を始めました。当初はちゃんこ屋をやろうとしたそうですが、この田舎町でちゃんこ屋をやってもだめだろうからとして、村山うどんを始めたそうです。店の入りはまあまあだそうです。これで大村山関の鬱病も良くなったでしょう。

 これで比留間家の人々は終わりです。ちょうど今日は二学期の終業式、野口先生に作文「比留間家の人々」を提出してほっとしたところです。


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