蜜柑奇譚
創作昔話です。
むかしむかしの話。
ある深い山の奥で、道に迷い、もう幾日も彷徨い続けている旅の男がおったそうな。
喉の乾きと空腹で、目はかすみ、身体に力が入らない。
ある日とうとう、男は立ち上がれなくなり、その場に倒れ込んでしもうた。
(ああ、喉が乾いた……水……水飲みてえ……)
男にはもう瞼を持ち上げている力さえ残っておらず、そのまま目を閉じ、永遠に眠ってしまおうか……そんな風に考えた、その時だった。
手を伸ばせば届きそうな藪の中に、土がこんもりと盛り上がっており、その上に、艶々と輝く大きな実をつけた蜜柑の木が一本、すっくと生えているのが見えた。
(……み、蜜柑? あれは蜜柑か!? )
男は必死で這いずり、腕を伸ばし、垂れ下がるほどたわわに実ったその蜜柑をもぎ取ると、皮を剥くのももどかしく、夢中でかぶりついた。
(あああ!! うめえ! うめええええ!)
その蜜柑はめっぽう甘く、溢れんばかりの汁を含み、男の乾いた喉を潤してゆく。
汁が口の端からだらりだらりと滴り落ちることなどお構いなしに、男は次から次へとその蜜柑を貪った。
(ああ、助かった……これで、しばらくは命が繋がった……)
ほっとした男は、そのまま気を失うように眠ってしもうたそうな。
◇
気が付いたときは、翌日の朝だった。
男の体には、昨日までは無かった力が戻り、むしろ元の体より元気が溢れているような気さえするのだった。
何やら、山の中を縦横無尽に駆けることさえできそうで、人里へ下りることもいとも簡単なような気がする。
(なんじゃ、この湧き上がる力は……!)
男は駆けだした。山の中をひたすら駆けて、駆けて、駆け抜けた。
草木が勝手に男をよけてくれるような気がする。
鳥や獣がやけに騒がしく、その声がまるで人の言葉のように聞こえる。
「こちらです、こちらです……」そんな声がそこかしこから聞こえる。その声に導かれ、ひたすら深山を駆けてゆく。
(体が軽いぞ! しかも何だか鼻も利くようだ。人の匂いがする……)
一気に山を駆け下りると、男が思った通り、そこには小さな村があり、村人たちが何やら寄り集まってひそひそと語り合っておった。
「もし、村の衆、どうなされたのじゃ」
「なんだおめえ、旅の者か。よそ者には関係のねえ話じゃ」
「それはそうじゃが……」
「おじちゃん、おいらのおとうが病気で死にそうなんじゃ」
「こ、これ! よそ者に余計なこと言うでねえ!」
「聞き捨てならぬな。その病人はどんな様子なんじゃ? 儂が何とかしてやることができるやも知れぬ」
「何言ってやがる。あいつはもう手の施しようもねえと、医者にも見放されておるんじゃ」
「なんと。いつからそのようになってしもうた? 良かったら聞かせてはくれまいか」
「おめえに言うてもしょうがねえが、そんなに言うなら聞かせてやる。あいつはな、山の主の猪神亡き後、我が物顔で暴れまわっておった大熊を仕留めたんじゃ」
「なに? あの大熊を! やつは数百年生き長らえて、霊力を持つに至った魔獣ぞ!」
「そうじゃ。その熊を仕留めた後からじゃ、奴がおかしくなり、病の床に伏したのは……」
「そうであったか……これは捨ておけぬな。して、その病人はどこじゃ」
「何だか知らねえが、そこまで言うならしょうがねえ。おい!坊、この男をおめえの父ちゃんのとこへ連れてってやんな」
「うん。わかった。おじちゃん、こっちだよ!」
子どもは小走りで、父親の臥せっている家へと男を案内した。
その後から、村人たちもぞろぞろとついて来る。
男が黙って病人の額に手を置き、なにやらぶつぶつと呪いのような言葉を呟くと、手を置いた額の辺りからどろどろと真っ黒な煙が流れ出し、それはあっという間に醜悪な大熊の形をとった。
「おのれ!よくも儂をこやつの体から引き剥がしおって!何者じゃ!ただではおかぬぞ!」
「おっ、おい! ありゃあこいつが仕留めた大熊でねえか!」
村人の一人が叫ぶと、皆、悲鳴をあげて震え上がり、必死に手を合わせて拝みだす者もおったそうな。
その大熊は恐ろしい咆哮をあげて大きな鉤爪を振り上げ、男に襲い掛かろうとしたのだが、男の顔をしかと見ると、しおしおと縮みあがり、なにやら言い訳めいたことを呟きながら、跡形もなく消え去った。
するとどうだ、さっきまで臥せっておった病人がぱっちりと目を開け、がばりと布団を剥いで起き上がったではないか。
「おとう! おとう!」
「……儂はどうしたんじゃ?」
「おめえ、病を得て長く寝付いておったこと、覚えてねえのか?」
「えっ!?」
「このお方がおめえを助けてくださったのじゃ。こりゃあ神仏の化身に違いねえ、有り難いお方じゃ」
男は村人に懇願され、そのまま村に住み着くことになった。
その後も、病人や怪我人の身体から魔を退散させ、たちどころに治してしまうと評判を呼び、近隣の村々からも、遠く離れた都からも男を訪ねて来る者が引きも切らずとなっていったそうな。
◇
あるとき、旅姿の僧侶がやってきて、男の家に一夜の宿をもとめた。
男はこれを快く承諾し、この僧侶と差し向かいで夕餉の粥を食べているときだった。
実はこの僧侶、都で名高い高僧らしく、男の正体をいとも簡単に見抜いておった。
「そなた、深山のヌシであろう?」
「なっ、何を仰るのですか!」
「惚けずともよい。ヌシの化身でないとしたら、そなたもしや、ヌシの肉を喰らったのだな?」
「滅相もございません。そのような恐ろしいこと、神仏に誓ってやっておりません!」
「ふむ。ではなぜそなたから深山のヌシの気配を強く感じるのじゃろう……そなた、近頃何か変わったことが無かったか?」
「変わったことと申しますと……半年ほど前のことでしょうか、都を目指して旅をしておったところ、山で道に迷うてしまいまして、瀕死のところで不可思議な蜜柑を見つけ、それを喰らった後から、このような妖力を身につけたのでございます」
「なんと! そうであったか。それは深山のヌシの身体から生えた、妖力を秘めた果実であろう。近くにヌシの遺骸は無かったか?」
「あっ! そういえば、あの木が生えていたのは、こんもりと土が盛り上がっている場所でございました」
「やはり。それがヌシの遺骸じゃな。しかし、そなた気の毒に……ヌシの肉から養分を吸って生えた果実を口にしてしもうたなら、そなたの身体、久しく朽ちることなく、数百年は生きながらえる事になるじゃろう」
「えっ! それはまことにございますか……ああ、何と言うことじゃ……」
「うむ。その長き命と妖しの力、民のために役立てて生きてゆくがよいぞ。それが、そなたの極楽浄土への道となろう」
「……承知いたしました。覚悟を決めて、皆のために尽くして生きようと存じます……」
それからと言うもの、男はますます多くの人々のために働き、生き神と崇め奉られながら、八百歳まで生きたという。
むかしむかしのものがたり……おしまい。
昔話なので、「蜜柑」ではなく、「橘」とした方が良いかなぁと思ったのですが、やはりわかりやすく蜜柑にしました。
私の故郷の三重には、日本固有の柑橘と言われているヤマトタチバナの原木があるんですよ。
それは全然甘くなくて、むしろかなり苦くて酸っぱいとか。