サッカーボールと楓のお尻
気がつくと、ぼくの体は病院の上空を、ふわふわと浮かんでいた。
「なんでこんなところに……。というか、どうして浮いて……あれ……体が透けてる……?」
ぼくは病院着を着ているのだけれど、それを触ろうとしても、通り抜けてしまう。というか、体のどこも触れない。
〈あなたは死んだのです、一か月前に。十二歳七ヶ月でした〉
背後から声がし、振り返ると、頭に輪っかを付け、背中から羽を生やした天使がいた。ふわふわの白い布を身にまとっている。見た目は女の子。どこかで見た顔だ。
「死んだ? ぼくが? あ、そういえば、病院のベッドで寝ていて、夜に急に気持ち悪くなって、目の前が暗くなったような……」
〈そうです。その後あなたはお医者さんや看護師さんの処置を受けたのですが、残念ながら命を落としてしまいました〉
たんたんと話す天使の声を聞いて、ぼくはようやく思い出した。死んだのだと。
「もっと生きたかったなぁ……」
病院の空の上で浮かびながら、ぼくは腰が抜けて座りこんだ。
やりたいことがいっぱいあった。サッカーしたり、友達と遊んだり、おいしいもの食べたり、好きだったあの子に告白したり……。
ん、好きな子……? ぼくは、目の前の天使の顔を知っている。
「楓……?」
その天使に指さしながら、尋ねた。
〈わたしは、楓ではありません。あなたが死ぬ間際に思い描いた人の姿を、真似しているだけです〉
篠原楓。ぼくが好きな子だ。髪の毛はショートカットで、男の子みたいに日焼けしていて、とても明るい性格だ。
ぼくと同じサッカークラブに入っていて、誰よりも速く走ってボールを追いかけ、膝や肘を少しすりむいても、全然気にしない子だ。
そのクラブではしょっちゅう、男の子をからかってケラケラ笑っていた。
でも、練習や試合では先頭に立って、チームを引っぱっていて、ぼくはとてもかっこいいと思っていた。
ある日、ぼくが試合で活躍したことがあって、試合後に楓が駆け寄ってきて、
「よくやったなぁ! さすがだよ、お前なら絶対、キーパーの死角にシュート決めてくれるって思ってた!」
肩を抱いてほめてくれたのは、とっても嬉しかった。
でも、試合着の薄いシャツ越しに、楓の火照った体温を感じ、息が上がっているのが間近で聞こえ、ぼくはドキッとし、心臓の鼓動が大きくなった。
「た、たまたま運が良かっただけだよ。か、楓、ちょっと近い……」
周りの目があって、恥ずかしくて顔が熱くなってきたぼくは、肩に回されている彼女の腕をほどいた。
「あ、ああごめん。つい嬉しくて。やっぱ、お前とサッカーやってると楽しいわ!」
そう言って楓は、短い髪をなびかせながら、一足先にベンチへ走って戻っていった。
あの時肌で感じた彼女の体温は、まだ忘れていないし、少し香った汗の匂い、走り回って荒くなった息づかいも、はっきりと覚えている。
何より、とても近くで見る楓の汗まみれの笑顔が、まぶしくて可愛かった。
〈わたしのこの姿の楓という女の子は、あなたにとって大切なのですね〉
天使は、まじめな顔で言った。楓にそっくりだ。
「うん、できれば告白したかったけど、楓はみんなとサッカーしたり遊んだりするのが好きだから、結局言えなかったんだ。はぁ、今ごろ楓は何してるのかな」
こほん、と天使はせきばらいをした。
〈あなたが望むなら、その願い、叶えましょうか?〉
「え、どういうこと?」
〈あなたは若くして亡くなりました。そういう方には、神様からささやかなプレゼントがあるのです。『探し者』というサービスです。天国へ昇る前に、あなたが今一番会いたい人に会わせてあげましょう〉
「え、そんなことできるの⁉︎ だったらもちろん……」
お父さんやお母さんにも会いたいけれど、ぼくは今、楓に会いたい。なぜだかそういう気持ちになった。
「ぼくは、楓に会いたい!」
〈分かりました。篠原楓は、あと三時間後に、ここから少し離れた所にあるお寺の、あなたのお墓を訪ねる予定です。連れて行ってあげましょう〉
「うん、ありがとう。ちなみに、声をかけることはできるのかな」
〈それはできません。ただし、一回だけ、物に触れます。楓本人に触れることもできます〉
「一回だけか。悩むなぁ」
ぼくは楓そっくりの天使に手をつながれ、ゆっくりと空を飛んだ。
時間になり、ぼくのお墓の前に、楓がやってきた。
今日の彼女は私服で、涼しそうな夏の服がよく似合う。サッカーボールを持っている。
でも、楓の表情は暗い。いつも明るい彼女のこんな顔は、今まで見たことがない。
楓はぼくのお墓の前まで来ると、墓石の前にサッカーボールを置いた。そして、手を合わせて少しの間目を閉じた。
ぼくは地上まで降りて、自分の墓石の裏に立った。そこから様子をうかがうと、彼女の目には涙が浮かんでいた。
楓は涙声で、ぼくのお墓に話し始めた。
「ごめんね涼太、あたしがよそ見なんかしてボールを蹴ったせいで、涼太がこんなことになるなんて……。いやだよ、こんなの。どうしてだよぉぉぉ!」
楓は泣き崩れ、その場にペタンと座りこんだ。
その時、ぼくは思い出した。なぜぼくが死ぬことになったのかを。
「楓が蹴ったボールで、ぼくは死んだの……?」
ぼくは独り言を言ったつもりだったが、天使がそれに答えた。
〈はい、その通りです。あなたは、彼女の蹴ったボールによって負傷し、それが元で亡くなりました〉
ぼくはその場に立ち尽くした。そして完全に思い出した。
練習の合間に、先生から「休憩!」と呼びかけられて、ぼくたちはベンチに向かっていた。
その時楓は、ベンチに戻る前に、ぼくに向かってボールを思いっきり蹴ったのだ。
ボールはぼくの頭に直撃し、何で楓が、と思う暇もなく、意識を失った。
〈説明しますと、楓は遠く離れたゴール目がけてボールを蹴ったつもりでした。しかし、横を歩いていたあなたに気づかなかったのです。そのことを、彼女は悔やんでいるようです〉
楓はいつも、休憩の時間になると、遊びでゴールに向かって勢いよくボールを飛ばしていた。
それをぼくたちは見ていて、「すげえなぁ」と感心していたのだけれど、今日はたまたまシュートコースにぼくがいたのだ。
「そんなことで、ぼくは死んだの?」
だからぼくは死ぬ間際に、彼女の顔が目に浮かんだのか。
大好きな楓が、ぼくを死なせた。
楓の遊びなんかで、ぼくは人生を奪われた。
ぼくは生きるはずだった。
練習が終わったら、お母さんのおいしいお昼ご飯が待っているはずだった。
夕方になったらアニメを見て、またおいしいご飯を食べるはずだった。
ずっとサッカーして少し勉強して、同じクラスメイトでもある楓と一緒に楽しい学校生活を過ごして、小学校を卒業するはずだった。
中学校も楓とは同じ校区だから、また一緒の学校で楽しい時間を過ごせるはずだった。
そしたらきっと、ぼくは楓に告白を……。
「ねえ天使さん、ぼくって死ななくちゃいけない理由でもあった? 前世で悪いことでもしてた?」
〈いえ、そういうものは特に〉
隣に立つ天使を見上げると、感情のない表情をしていた。楓の顔だ。
「何で楓は生きてて、ぼくは死んでるの? どうして、ねえどうして⁉︎」
ぼくは怒りが込み上げてきて、天使に向かって怒鳴ってしまった。
「ぼくは楓が好きなはずだった。可愛い顔だし、性格も肌の色も汗の匂いも好きだった。でも、今は憎たらしくてたまらない。何で? どうしてぼくは今、好きな子を憎んでいるんだろう」
少しの間、ぼくの荒々しい息づかいと、楓のすすり泣く声だけしか、しなくなる。
そして、天使は言った。
〈わたしは、あなたの願いや欲望を叶えるお手伝いをします。そろそろ時間です。決めてください。あなたは一回だけ物に触れます。楓本人に触ることもできます。でも、ずっと触り続けることはできません。ちなみに、この後楓は、車通りの多い道を歩いて帰ります。そこには大きなトラックも通ります。あなたは車道に向かって、楓を突き飛ばすこともできます〉
「君って、天使……だよね? それとも、悪魔……?」
〈それは、その人次第です。あなたにとってわたしは、願いを叶える天使。でも、仮に彼女が突き飛ばされたら、彼女はわたしを悪魔だと思うでしょう〉
「……」
時間がないとのことだから、考える。どうしよう。
気がつくと、楓はついさっきから、何かをブツブツと言っている。
「ごめんね涼太ごめんね涼太ごめんね涼太。いくら謝っても足りないよね……。あたし、あなたを死なせたサッカー、もうできそうにないよ。あたしね、転校することになったんだ。ここから、とっても遠くに離れた所の、全然知らない名前の町の学校に。もうこの町にいられなくなったの。だからもう、ここにも来れないかもしれない。ごめんね。本当は今でもサッカーは好きだけど、ボールを見ると思い出すの。グラウンドで倒れたあなたを。だから、あたしにサッカーをやる資格ないって思うの。だから、ボール、ここに置いておくね。涼太、サッカー好きだったよね。あたしはずっと、楽しそうにサッカーをやる涼太を見てたよ。ありがとう、一緒にサッカーをやってくれて。楽しかったよ。本当にごめんなさい」
楓は立ち上がると、もう一度両手を合わせ、長い時間目を閉じた。
「……」
ぼくの、やるべきことが決まった。
「ねえ天使さん、ぼくってもう物に触れる?」
〈はい、もう触れますよ〉
楓と同じ声を聞き、ぼくは立ち上がる。
楓は目を開けると、ゆっくりと墓場の出口へと、ぼくに背を向けて歩いていく。
彼女の行く通路は、途中で左斜めに曲がっていて、楓はちょうどその角にさしかかっていた。
背後で天使が翼を羽ばたかせる音がした。その後すぐ、墓石の近くに置いてあったボールが、ゆっくりと転がっていく。
ボールは、墓場の通路の真ん中辺りで止まった。
「楓ー! 受けとれ!」
ぼくは斜めに走りこみ、サッカークラブでも評判だった、正確なシュートを決めた。
そのボールは楓に向かって飛んでいったが、彼女みたいに誰かの頭にぶつけるような下手くそなシュートではないから、ぼくの蹴ったボールは、狙った通りにカーブを描き、彼女の引き締まったお尻にまっすぐ当たった。
「うわっ!」
楓は悲鳴をあげ、一瞬背中を反らした。
少しだけある凹凸がはっきり分かるくらい、胸を弓なりに大きく張らせると、前につんのめってうつ伏せに転んだ。
ボールは彼女のお尻で跳ね返った後、別の墓石に当たり、楓のすぐ近くに戻った。
〈涼太さん、あなたは楓を許したのですか?〉
天使がぼくに尋ねる。
「許してはいないけど、ボールをここに置いていくことで、ぼくと楓との間にある、いい思い出と悪い思い出を忘れてほしくなかったんだ。ぼくが死んだのはもちろん嫌だし、楓にはなぜぼくが死んだのかってことを忘れてほしくないんだけど、楓のことが好きになるくらい楽しいことも、確かにあったんだよ。それにさ」
ぼくは、立ち上がって混乱した様子で辺りをキョロキョロしている楓を見ながら言った。
「次は気をつけてボールを蹴ってねって、伝えたくて」
ぼくは自然と笑顔になっていた。
楓は遠くから、ぼくのお墓に向かってボソボソと言っていた。
「え、これって、今あたしが置いたボール……? どうして……? もしかして、涼太の幽霊? 幽霊なの? 涼太、いるの? ねえ!」
そして、楓は震える手でボールを拾った。
「ボールから逃げちゃダメってこと? ずっとボールのことを考えて、追い続けろってこと? 涼太、そういうことなの?」
楓は深呼吸した。
「分かったよ涼太。あたし、ボールを置くことで涼太から逃げようとしてたんだね。ごめんね、もう忘れない。このボールは一生手放さない。約束する。サッカーを再開するかは……まだ考えられないけど、今涼太があたしにボールを蹴ってくれた意味、これからちゃんと考える。そして探すよ、あたしの進まなくちゃいけない道を」
そして楓は、ボールをしっかり胸に抱えながら、墓場を後にした。
その途中、彼女は片手でお尻をさすった。
「痛っ、たぶん跡ついてるよね……。ううん、嫌がっちゃダメだ。この痛みは絶対忘れない。だって涼太はこの何倍も痛い思いをしただろうから……」
彼女は、またすすり泣きしながら、歩いていった。
楓が町の中に消えるのを、ぼくは見届けた。
その瞬間、ぼくの体はふわりと浮き、ゆっくりと天へと昇り始めた。
〈天使であるわたしの役目はここまでです。後は、ひとりでに天国へ行けます〉
天使の輪郭が少しずつぼやけてきて、それはだんだん人の形ではなくなり、やがて直径一メートルくらいの光の玉になった。
「一つ聞いていいかな? 楓はこの後、どういう風に生きるの?」
〈この後楓は長い時間をかけて、サッカーやあなたと向き合い、やがて女子サッカー部に入ります。彼女はそこで、かつて得意だった豪快なシュートを封印し、的確かつ正確なシュートを蹴ることを意識します。そしてめざましい活躍をし、日本代表になるのですが、マスコミに涼太さんを死なせてしまったことを報道され、再びサッカーをやめてしまいます。そして、楓はまたこのお墓にやってきて、あなたに会いにきます。そして問うのです、まだサッカーを続けてもいいかを〉
ぼくは鼻を鳴らした。
「そんな時は、またボールを楓のお尻にぶつけてやる」
〈それは……〉
「できないんでしょ? 分かってるよ。気持ちの問題だよ」
〈見守ることはできます。そして、いずれ天国へやってくる楓から、それまでの人生のことを聞くこともできます〉
「そうだね、その時が楽しみだよ」
ぼくはしばしの別れに、楓へ手を小さく振った。
どうか、ぼくのことを忘れないで。
できれば、ずっとボールを追いかけ続けて。