1.タイムリミット
はじめまして。都姫です。
拙い文章、表現ではありますが、楽しんでいただけると嬉しいです。
「はっ…はぁっ…」
寒くて寒くて、暗い夜。
ただ必死に、足を動かして逃げる夜。
「どこだっ!?あのガキ…」
「さっさと探しだして取っ捕まえな!あいつがいなきゃ金ももらえないんだ!!」
こわいおとなの声がすぐ近くから聞こえる。
いやだ。いやだ。いやだ。
もう、あんな場所に戻りたくないーー。
「いたっ!!あそこだ!!」
「!?」
こわい目をしたおとなと目があって、すぐに反対の方向へ走り出す。
しばらく走ると夜は一気に明るくなり、キラキラと光る店の多い場所に出た。道には人がたくさんいる。派手な化粧をしたドレスのおねえさん。赤い顔のおじさん。エプロンを腰に巻いて大きな声を出すおにいさん。その人たちの間を通って、走る。
「くそッ、待ちやがれ!!」
後ろの方から怒鳴り声が聞こえたけど、私はひたすらに走り続ける。
足を止めたのは、隠れられそうな細い路地に入ったときだった。
「はぁっはぁっ……」
しゃがんで、身を小さくする。
捕まりたくない。いやだ。いやだ。
。。。。。。。
。。。
「いやぁぁっ!!!」
朝の優しい光が差し込む部屋。
ぼやけた視界に映るのは、見慣れた天井とそれに向かって伸ばした自身の手だった。
「はぁっ、はぁっ、……」
心臓がうるさいくらいに鼓動を打つ。息も荒く、寝汗はいつのまにか冷え切って冷汗にかわっている。
響き渡った自分の声を聞いて、佐伯 琉泉は深いため息をついた。
(あぁ、また、だ…)
どこへ向かって助けを求めたのかも分からない手を力なく下ろし、布団から身を起こす。
(また…あの夢……)
夢を見ていた。記憶からずっと消えることのない、あの悪夢を。
「カタン……」
体を起こしたままベッドの上でボーッとしていた琉泉は、隣から聞こえた音にハッとする。
(……向こうまで聞こえてたかな)
そう思ったのと同時に、足音が聞こえてきた。
(やっぱり…)
琉泉はこの足音の主を知っている。
「琉泉?入るぞ」
了承の返事も聞かずに開けられたドアの外には、整端な顔立ちの男のが立っていた。
八神 響、27歳。琉泉とは2つ年上の幼馴染で、国内でも大企業として名高いYAGAMIグループの御曹司だ。
180cmの長身に、丁度良いくらいに付けられた筋肉。世間では細マッチョというのだろう。
キリッとした目元が、黒髪との絶妙なバランスでイケメンの相乗効果を発揮している。
「…おい、大丈夫か?」
ボーッとその美しすぎる容姿を眺めていると、さすがに相手も不審がったようだ。
切れ長の目がさらに細められる。
「…ごめん、大丈夫。いつものだから」
響は返ってきた言葉に少し眉根を寄せるも、そうか、とだけ呟いた。
「先に行ってる。落ち着いてからでいいから、ゆっくり来い」
「うん」
響が去り、ドアが閉まったのを確認してから琉泉は大きなため息をついた。
改めて部屋の中をぐるりと見渡す。
8畳ほどある面積に、質の良いベッド、鏡台、本棚、クローゼット、作業机などが配置された統一感のある部屋。
(私は、恵まれてる…)
あの悪夢には続きがある。
どこまでも追いかけてくる大人たちの恐怖にひたすら耐え、裏路地で震えながら隠れていた時だった。
「…はて。なぜこんな場所に子どもがいるのかな?」
頭上から降ってきた少し低めの声に、ビクッと体を振るわせる。早く逃げなければ、と思うのに、走り続けた身体は言うことを聞かず、一歩も動くことができない。
「ここは子どもがくるような場所ではないよ。お家はどこかな?」
「…………帰りたくない」
もう、帰らない。あんな悪魔が住む場所には。
そんな意思を持った目で、話しかけてきた男を下から睨みつける。暗くて顔は見えないが、高そうなスーツにハットを被り、杖をついているのはわかった。
「おや……君は……」
男は驚いたような声で呟いたあと、なにやら考え込むように黙り、また口を開いた。
「帰るところがないなら、うちに来なさい。なーに、心配することはない。君を傷つけたりはしないよ」
ネオン街の光でかすかに見えた、男の目。それは、まっすぐで力のこもった強い瞳だった。
これが、佐伯 琉泉とYAGAMIグループ現会長、八神 偀との出会いだった。
琉泉は偀の養子という形で八神家に迎えられ、響と共に育った。
高校まで出してもらった琉泉は八神に恩返しをするため、12歳の時に開花した空手の才能を生かし、YAGAMIグループの傘下である七条警備会社に就職し、響の専属のボディーガードとして生活している。
「…急がなきゃ」
逸脱していた意識を戻し、ベッドから出て準備を始めた。
琉泉と響の部屋は、八神家の本邸から少しだけ距離のある離れにある。といっても、同じ敷地内にあり、本邸までは廊下で繋がっている。
これは響の意思で、響曰く「人が少ない方が落ち着くから、自室は離れがいい」らしい。離れといえど、その大きさは一般的な一軒家と変わらないほどの広さで、2LDKの二階建てだったが、誰も住んでいない。
流石に御曹司であり次期社長でもある人間を離れに一人で放っておくわけにもいかず、八神家は隣室にボディーガードをつけるつもりだった。
…のだが、「むさい男たちに監視されて生活するのも、真っ平御免だ」と本人が言い放ち、結果的に琉泉がこの離れの一室に住むことになったのだ。
ちなみに、この件に関して琉泉は拒否権を持っていない。というより、拒否する間もなかった。気付いた時には全ての家具や服などが、元いた本邸の部屋から移動されていたのだ。
つまるところ、この離れには実質二人しか住んでいない。
そのため、朝は本邸まで出向き、朝食をとってから仕事へと向かう流れが日常だった。
いつもなら響と共に本邸へ向かう琉泉だったが、今日は悪夢を見て寝坊してしまっていた。
肩甲骨くらいまで伸びた黒髪をお団子にまとめ、動いても落ちないようにピンでしっかりととめる。服装はいつもと同じ、黒のパンツスーツにヒールの低い黒のパンプス。
オシャレとは無縁の世界で生きてきた。キラキラしたものに魅力を感じなかったわけではなかったが、自分はどこかのOLさんとは違うのだと言い聞かせることで、いつのまにかその感情は薄れていった。
琉泉はメイクの仕上げにダークレッドのルージュを控えめに引いて、本邸へ足を向けた。
…………………………
「おはようございます、奥様」
「あら琉泉さん、おはよう。今日は随分とごゆっくりなのねぇ」
「申し訳ございません」
本邸の広いダイニングルーム。すでに席について優雅に朝食をとっている、現社長の妻 沙織にチクチクと小言を言われながら、琉泉も朝食の手伝いに入る。
「そんな意地悪を言わないであげてください。琉泉も、疲れているのでしょうから」
沙織の向かい側に座って食事をとる響が、笑みを浮かべながら言った。
一応、助けてくれたらしい。
(愛想笑いだわ)
本人はうまく隠しているようだが、長年側にいた琉泉には分かってしまう。
この笑みは、完全な愛想笑いだ。
響は、この沙織のことが苦手なのだろう。沙織は響の母親が亡くなった後、後妻として八神家に入った人間だ。もちろん、響と血縁関係はない。響自身、父親が後妻を迎えること自体に抵抗はなかったようだが、その相手が問題だったらしい。正直、琉泉もこの女性のことが苦手だった。悪い人ではないのだが、お小言がいちいち多い。前の奥様、つまり響の実の母親の鈴音はとても優しく、思いやりのある人だった。
(響のお母様は、響が10歳の時に亡くなられたのだっけ…)
そんなことを考えながら、響のグラスが空になったのをみて琉泉は水を入れる。
「おい」
「はい?」
「…何回も言わせるな。お前はそんなことをしなくていいんだ。使用人じゃないだろう」
声から不機嫌さがにじみ出ている。先ほどの笑顔とは別人のような表情に、琉泉は軽くため息をついて静かに答えた。
「何回も申し上げていますが、私は会長のご好意でここに置いてもらっているだけで、立場としては使用人と変わりません」
琉泉は会長である偀のご好意で、高校まで出してもらっている。偀自身は何も返さなくていいと言っていたが、そんなわけにはいかない。八神家に住み始めてから、琉泉は少しでも役に立とうと使用人の手伝いを学校以外の時間はずっとしていた。それでも、使用人として、ボディーガードとして両方で八神家に尽くしても足りないくらいだ。
だが、琉泉が使用人の真似事をするのを、響はよく思っていないらしい。
「お前はそんなことしなくていいんだ」と何度も言われた。今でもそれは変わらず、言われ続けている。琉泉も大概頑固なため、譲らない。さっきの会話がここ数年の間続いているのも、周りはみな知っているほどだった。
「ご馳走さま」
響は綺麗な所作でナフキンをたたみ、席を立つ。使用人云々の話はもう終わりらしい。
「琉泉、10分後に出る」
「承知しました」
響の専属ボディーガードである琉泉は、当たり前だが、響の行き先に必ずついていく。そのため、毎朝同じ車で一緒に仕事場へ向かうことになっている。朝食の片付けを軽く済ませ、琉泉は外へ向かった。
…………………………
黒塗りの高級車はすでに門の近くに付けられており、琉泉は運転手の戸部と車の点検を行う。これは毎朝のことで、響に危険が及ばないようにするためのものだ。
「では、今日もよろしくお願いします。戸部さん」
「はい。畏まりました」
うやうやしく頭を下げ、戸部は運転席へとむかった。
「車にまで詳しくなって、お前は一体何を目指してるんだ?」
ハッとして振り向くと、門に寄りかかりこちらを見つめる響と目が合う。
(かっこいいな…)
腕を組み、不審げに寄せる眉も、琉泉を映す瞳も、全てがかっこいい。こんな人とこんな距離で会話できるのは、あの日あの時、会長の偀に自分が救われたからだ。本来ならば、琉泉のような人間が出会うはずのない殿上人。
「…私は死ぬまで、貴方を守る盾です。盾として必要な技能は全て身につけるつもりです」
「………」
当たり前のことを言ったつもりだった。響にとって自分は一介のボディーガードで、また琉泉にとって響は守るべき主人だ。盾になるのは当然。だが、近づいてきた響は眉間にシワを寄せ、険しい表情になる。
「…自分のことを、盾なんて言うな」
ポンポンっと頭を優しく撫でられ、響は車に乗った。少しの間、琉泉は固まっていたが、なんとか意識を戻して後ろのドアを閉める。
「……なんて目をしてるんですか…」
琉泉に向けられた瞳には、驚き、動揺、悲しみ、怒りなど、沢山の色を滲ませていた。
凪であったはずの心に、一滴の感情という名の雫が落ち、水面を揺らす。
(…ダメ。この感情だけは、わたしが持ってはいけない)
あの日。あの、17歳の春の日。
自分の出自の真実を知ってしまった琉泉は、芽生え始めたかのように思えた感情に蓋をしなければいけなくなった。
(それでも…わたしは……)
琉泉も車の助手席に座り、車は走り出した。
…………………………
YAGAMIグループ。
元財閥で今もなおその栄華を誇る、この巨大グループ企業を経営する家系の御曹司として生まれた響は、小さい頃から英才教育を受けていた。
もちろん、人々の上に立つ者としての教育だ。
それに加えて生まれ持った才能なのか、経営に関して響は抜群のセンスをもっていた。
幹部としても着々と成果を上げていき、現在はYAGAMIグループの中でも規模の大きい八神建設の社長に就いている。
全国展開していて誰もが知っている“ホテル和”シリーズや、休日は長蛇の列をつくるCafe 椿などを手がけたのは、他でもない響だ。
ハイブランドのスリーピーススーツを美しく着こなし、凛とした姿で堂々と歩く響に、目を奪われない者はいない。挨拶をしながら会社へと入っていった響は、たくさんの熱い視線(特に女性から)を浴びながら20階の自室へといくためのエレベーターを待つ。
(こんなのが毎日続くなんて、大変よね…)
後ろからその様子を見ていた琉泉は、そんな周りの様子を見ながら考えていたとき。
「大変だな」
「!!」
心の中の声とシンクロしたように感じて、反射的に後ろを振り返る。
そこにいたのは、同じ警備部のボディーガードでついでに同期の一ノ瀬 蓮だった。
インカムなどをつけていないことから、一ノ瀬もこれから出勤するところなのだろう。
「イケメンで才色兼備な副社長も、その人に付きっ切りのお前も」
「ビックリした…驚かさないでよ!」
「後ろから声かけただけじゃん。佐伯こそ、振り向いたときの殺気、めちゃくちゃ怖かったからな」
ジャニーズ系の爽やかフェイスを少し歪ませながら、琉泉を見下ろす。
それにしても。
(殺気って……)
まぁ確かに、話しかけられた直後は心を読まれたかもしれないという焦りと驚きで、つい身構えてしまったかもしれない。
だが、これについては琉泉だって言い分はある。
一ノ瀬は出勤前かもしれないが、琉泉の場合は出勤も退勤もない。
家にいようが会社にいようが、響を警護している最中は全て仕事だ。
仕事中に「おはよう」もなく、急に人の心を読むように後ろから話しかけないでほしい。
「…琉泉?」
ハッとして呼ばれた方に視線を移すと、エレベーターはすでに到着しており、響がこちらを見ている。
「すみません」
「開」ボタンを押してくれていた女性社員に頭を下げ、琉泉も一ノ瀬とともにエレベーターに乗る。
「えっと、18階…っと」
一ノ瀬が警備部のある18階のボタンを押す。
琉泉の所属している七条警備会社は、YAGAMIグループの傘下にある子会社だ。
そのため、八神グループそれぞれの会社に七条警備の警備部が入っている。
ちなみに、今いる大きな建物は八神建設本社で、その中の18階ワンフロアが八神建設の警備部として、七条警備が入っている。
ポーンと心地の良い音とともに、エレベーターが18階に到着する。
「それでは、失礼します。社長」
「あぁ」
他の社員はすでに各階に降りており、エレベーターの中には社長室のある20階で降りる響しか乗っていない。
エレベーター前で一ノ瀬とともに一礼し、扉は閉まった。
「さて、今日も働きますか!!」
一ノ瀬は伸びをしながら琉泉たちが所属している『4号警備課』へと歩き始める。
要人を警護する4号警備、つまりボディーガードは、警備部の中でも色々と特殊だ。
YAGAMIの警備部はさっきも言った通り、施設警備が圧倒的に多い。
それに比べてボディーガードは一乃都建設の社長、副社長のみつくため、人数自体はそこまで多くはない。
「おはようございまーす」
「おはようござます」
社長付きのチームが集まるデスクについた一ノ瀬と琉泉は、すでに出勤している田隈 真也、鶴橋 修に挨拶をする。
「おーす」
「おはよう」
田隈は琉泉より10歳上の上司で、このチームのチーフだ。角刈りの厳つい顔に、黒く焼けたマッチョなボディといかにも強そうな体格で、見かけ通り武術はかなりの腕前らしい。
鶴橋は田隈と同じ歳で、彼の右腕とも言われているほどの頭脳の持ち主。
普段はニコニコと愛想が良く、体格もそこまで良いわけではないが、怒らせると部の中で一番怖いと評判の人物である。
「あー!!いいなーコーヒー!!クマさん、俺にも入れてくださいよー」
「自分でいれろボケナス。お前にはミルクで十分だろ、童顔」
「あ、ひどい。気にしてるのに」
「悪口のオンパレードだったね、いま」
ガハハと豪快に笑う田隈に、頬を膨らませて怒る一ノ瀬を見て、ふふっと笑いあう鶴橋と琉泉。
ちなみに、琉泉の隣にいる一ノ瀬は琉泉と同じ25歳。
最近の悩みは童顔のため、お酒を買うときに年齢確認をされることだそうだ。
現在、副社長である響についているボディーガードは、田隈、鶴橋、一ノ瀬、琉泉、そしてまだ出勤していない三嶋 太郎(29)の5人。
チーフの田隈の性格もあってか、このチームは比較的仲が良く信頼関係もあって、とても働きやすい。
「そろそろミーティング、始めるよ」
そう言って鶴橋が印刷した書類をみんなに配る。
「あー、三嶋さんがまだ来てないんすけど」
「アイツはいつものことだろ。悪いが佐伯、お前あとで三嶋に…」
「ミーティングの内容、伝えておきます」
「あぁ、頼んだ。よし、じゃあ始めるぞー。まず、今日の社長の予定だが10時に……」
こうして、琉泉の一日は始まった。
…………………………
時刻は15時。
この後は、開発地区である河原町の方々に、諸々の説明をしに行く予定が入っている。
「そろそろだな。佐伯、エントランス見回ってこい」
「了解です」
河原町の公民館までは、車での移動だ。
響が車に乗る場所であるエントランスの見回りを隈川から命じられ、琉泉は元いた副社長室の前から動き出す。
(不審者、か…)
実を言うと、響はこれまで何度か死にかけたことがある。
前社長であった響の叔父は、かなり横暴なやり方で経営をしていたため、社内外ともに恨みを持つ者は少なくない。
その恨みは、その甥であり現社長でもある響にぶつけられるものも多い。
石が投げられ窓ガラスが割れるなどという小さなものから、刃物を持った男が突進してくるという危険なものまで、その被害は様々だ。
それでも、現在の八神の横暴なイメージを払拭するため、内側から改革しようと響は誰よりもハードスケジュールで働いている。
そんな響を誰よりも近くで見ていた琉泉だからこそ、危険も伴うボディーガードという職を引き受けた。
(響だから…あの人の力になりたい)
経営の助言や営業の助けをすることはできないけれど、ならせめて、この身一つで響の役に立てるようになりたい。
それが、今の琉泉の動力源だ。
『それは、本当に響への忠誠心?』
「!?」
頭に響く声。
ハッとして周りを見渡す。
しかし、エントランスには受付嬢二人と清掃員一人しかいない。
『それとも、拾ってくれた先代への恩義から?』
(誰…?)
声は止まらない。
『違うでしょ?貴方が響を護るのは…捨てられたくないから』
「っ!!」
『結局、自分のためなのよ』
「誰っ!?出てきなさい!!」
大声で叫んで、周囲を警戒する。
でも、琉泉の目に写るのは驚いてこっちをみているさっきの三人だけだ。
他に不審者らしき人物は、見当たらない。
(…幻聴?)
「おい、大丈夫か?」
背後からポンと肩を叩かれ、反射的に身構える。
が、そこにいたのは不審者ではなく、琉泉と同じようなスーツを着た童顔の男だった。
一ノ瀬が、見回りにしては長いと心配し、琉泉の様子を見に来たらしい。
「…脅かさないでよ。背後から近づくなんて…」
「なんだよ、機嫌悪いな」
思ったよりも余裕がなかったのだろう。
琉泉は言い方が少しキツくなってしまったと、反省する。
「ごめん、大丈夫。……エントランスの見回り、OKです」
無線で異常なしを報告し、向こう側から了解の合図をもらって、琉泉は一ノ瀬と一緒に社長室へと向かった。
「遅かったな。何かあったか?」
戻った時には、丁度部屋から響と隈川が出てくるところだった。
今口を開いたのは隈川だったが、隣の響も同じようなことを言いたげな顔をしている。
「いえ、何でもありません」
幻聴が聞こえてエントランスの真ん中で叫んでいた、なんて正直に話したら、隈川からげんこつが飛んでくるのは間違いない。
響には、心配をかけてしまうかもしれない。
一連の様子を見ていたであろう一ノ瀬には『黙っていろ』という合図を目で送る。
それを正確に理解した一ノ瀬は、呆れながらも何も言わなかった。
そのちょっとしたやりとりを、一人の男が不審げに、不満げに見ていたことに、琉泉は気づかなかった。
ーーーSide of Kyoーーー
最初の印象は、小さくて細い子だった。
肌は白雪のように白く、ぱっちりしているわりに意志の強そうな目。
花がほころぶように笑う姿。
惹かれないわけがなかった。
河原町に向かって高速道路を走る、車中。
響は前の助手席に座る琉泉を見た。
(白いな…)
髪をオールアップにしているため、首筋から鎖骨にかけてあの頃と変わらないきれいな肌が目に映る。
護衛としてしっかり鍛えているからか、初めて会った時ほど細くはない。
でも男の響と比べたら、やはり小さくて華奢だ。
本当は、危ないことをしてほしくない。
それも、自分を守るためになんて。
だからといって、彼女を自分から手放すことなんて、到底できない。
琉泉が今、この八神家にいるのは「護衛」という名目があるからだ。
琉泉は孤児だ。
先々代である祖父 偀が、ある日突然連れてきた、細くて小さな女の子。
偀は、児童養護施設から虐待にも似た嫌がらせを受けていた琉泉を、養子として引き取ったのだと響の両親に説明した。
養育費をはじめとする琉泉にかかる全ての費用を自分がもつから、響と一緒に育てて欲しい、と。
娘がほしかった母 鈴音は喜んで承諾し、父も「鈴音と響が良いなら歓迎する」と柔軟だった。
響も一人っ子だったこともあり、妹ができるのは嬉しかった。
(結局、妹のように思ったことは一度もなかったけどな)
最初はとても仲がよく、琉泉は響の後をずっとついてくるような子だった。
そんな琉泉が、とても可愛かった。
ただ、いつからか彼女は変わってしまった。
響を仕えるべき主人として、自分を使用人として、明らかな壁を作っている。
そもそも、偀が琉泉にボディーガードの仕事を与えたのは、琉泉が八神に対して引け目を感じないようにするためだ。いつまでも八神家に甘えていられない、という琉泉の意思を尊重したまでであり、八神家に尽くせと言っているわけではない。
本来、琉泉には自由を得る権利がある。
響が琉泉を自由にすべきなのだ。
たが、それを響はしない。
もし護衛の役を解いてしまったら、琉泉はもう側にはいてくれないかもしれない。
家もきっと出てしまうだろう。
自由になって欲しいと願う一方で、その願いを壊しているのも自分なのだ。
さっきも同僚の一ノ瀬と、何かアイコンタクトを取っていた。
やれやれ、とでも言うような一ノ瀬のあの態度が、妙に心をざわつかせる。
自分の知らない琉泉が増えていくことに、変な焦りを感じる。
「はぁ……」
手が届く距離にいるのに、手を伸ばすことができないのが辛い。
そんな感情を紛らわせるかのように、響は琉泉から目をそらし、窓の外を眺めていた。
…………………………
高速道路を降りて、緑豊かな道を行く事15分。
目的地である河原町公民館に二台の車が到着した。
周囲が安全かどうか、確認するために琉泉たちボディーガードが先に降りる。
住民がやや遠くから、不安げにこちらを眺める姿がちらほら見えるが、特に危険性はなさそうだ。
今日のバディである一ノ瀬と確認し合い、無線に報告を入れる。
「駐車場、異常ありません。降車お願いします」
今度は響の秘書が車を降り、後ろ側のドアを開ける。
真打の登場だ。
紺のブランドスーツを華麗に着こなし、優雅な佇まいで車を降りる響。
まさしくその姿は、大企業の御曹司だ。
誰もが響に釘付けで、その美しさに息を飲むその場で、琉泉は妙な気配を感じた。
住民が集まる場所から、鋭く刺すような視線。
それは、周りの羨望や感嘆に飲まれることなく、ただ純粋に負の感情だけが伝わってくる。
その視線をたどると、一人の男にたどり着いた。
普通の服を着ている、普通の男のように見えるが、その瞳からは、恨み人を地獄の底へ叩き落とすような執念の炎が見える。
(危ないかもしれない…!)
本能が思考よりも先に結論を出し、琉泉は動きだしていた。
と同時に、視界に入れていたその男は、ポケットに手を突っ込んだまま響がいる方向に向かって歩みを進める。
(まずい…!!)
タイミング悪く、その男が近づいてくる方向には、ボディーガードが誰もいない。
そして、誰も気づいていない。
ちょうど、響が影となって男の姿は死角に入ってしまっている。
さらに言えば、男の方が琉泉よりも響への距離が短い。
文字通り“絶体絶命”の状況。
(なら、一か八か…かけてみるしかない!!)
琉泉は全速力で走り出した。
と同時に、男が響まであと15mというところで走り出す。
手に、刃渡り約3㎝ほどの刃物が握られているのを目視し、早口で無線を入れる。
「5時の方向の死角、不審者あり!!佐伯、鎮圧します!!」
全員が男の方向を見て、身構える。
…が、もうすでに男はあと5mという距離まで迫っていた。
間に合わない。
誰もが、そう思った。琉泉以外。
「死ねぇぇぇぇ!!!」
「キャーーーッッ!!」
男のドスの効いた声と、誰かの悲鳴が響き渡った、その瞬間。
琉泉は、男と響の間に飛び出した。
男の方に正面を向きながら、何のためらいもなく、スムーズに。
「なっ!?」
目の前に突然知らない女が滑り込んできたことに驚きを隠せず、一瞬だけ怯んでしまった男。
わずかコンマ1秒ほどの、一瞬。
だが、琉泉にとっては十分な時間だった。
手拳を胸元に叩き込み、回し蹴りで刃物を吹っ飛ばす。
何が起きたのか理解が追いつかない男をよそに、琉泉は続けて足をすくい、地面に叩きつけ、絞め技で相手を完全に落とした。
「誰か、テープを!!」
周りで呆然とその様子を見ていた仲間も、ハッとしたように動き出し大事には至らなかった。
男は、以前に再開発の対象となった旭町で、強制立ち退きを横暴なやり方でされた、パン屋の主人だった。
その再開発と立ち退きを担当していたのは八神建設だ。
自分の店でパンを売ることが生きがいであった妻は、その後心労がたたり、亡くなったらしい。
これも先代がかった恨みが原因で起こった、事件だった。
「佐伯。お前は怪我してないのか?」
男が警察に付き添われながら救急車に乗る姿を見送っていた琉泉に、一ノ瀬が話しかける。
「あぁ、うん。平気」
特に痛みは感じない。
強いて言えば、回し蹴りした時の部分がまだ熱を持ってるくらいだ。
しかし、琉泉のことを心配そうに見る一ノ瀬の視線が、下の方で止まる。
「平気……じゃねぇだろ!!足!!」
「え?足……」
一ノ瀬の視線を辿って自分の右足を見てみると、スネのあたりに約5cmくらいの切り傷から、血がツーっと流れていた。
「うわっ」
「気づかなかったのかよ…。ほら、手当てしてやるから来い」
足から血が出るほどの切り傷。
ということは、必然的にスーツのパンツも切られたわけで。
ボロボロのスーツでは流石に歩き回ることができない。
どちらにしろ、早く中に入らなければと琉泉は考え、一ノ瀬の言葉に甘えようと後を追おうとした。
そのとき。
「キャッ!?」
琉泉の腕が強く掴まれ、そのまま後ろに引っ張られたと感じたときには、すでに身体が突然宙に浮いていた。
(え、私…誰かの肩に担がれてるの?)
ふわっと香るシトラスのコロン。
視界に入ったブランド物のスーツと、触れた場所から感じる引き締まった体。
それが誰なのかをすぐに理解し、必死にジタバタする。
「お、下ろしてください!!」
「怪我してるんだろ?ジタバタするな、落ちるぞ」
(怖…)
明らかに不機嫌な響の声音に、思わず口をつぐむ。
「あっ、副社長!!いくら女だって言っても、コイツは戦闘職種で規格外です。無理なさらないでください。俺が代わります」
響の前を塞ぐように、一ノ瀬が慌てて申し出る。
(ちょっとまって、規格外?要は重いってこと!?)
若干失礼すぎることを言われたような気がするが、響にガッチリとホールドされている琉泉にとっては、一応救世主だ。
「いい。お前は状況説明をしている隈川のヘルプにでもついてくれ」
「いや、でも…」
「いいから」
救世主、撃沈。
(一ノ瀬の臆病者!!)
響に担がれた琉泉は心の中で、去っていく一ノ瀬に思いつく限りの毒を吐いた。
。。。。。。。。。。
公民館の中の一室。
救護室として使われるこの部屋は、あの独特の消毒液の匂いが充満していた。
響は、担いでいた琉泉をベッドに座らせ、自分はキャスター付きの椅子を移動させてきて正面に座る。
「ほら、足出せ」
「いえ、自分でできますから…」
「いいから。あと、今は敬語じゃなくていい。二人きりだろ?」
琉泉と響は主従関係だ。
だから、本来ならば琉泉が響に対して敬語を使うのは当たり前だし、会社ではそうしている。
だが、響は琉泉に敬語を使われるのが好きではないらしい。
小さい頃から一緒に育ったこともあり、兄妹のように思っているからだろう。
(私はそんな風に思った事、ないんだけどね…)
琉泉がそんなことを考えている間に、響はスーツパンツが破れ血が滲んだ足を持ち上げる。
「んっ……」
「っと、悪い。痛かったか?」
「ううん、大丈夫」
本気で心配している響の顔を見て、なんだかいたたまれない気持ちになる。
本当に痛かったわけではなく、自分の足に触れた響の指の感覚に驚いただけなのだ。
(変な声…出ちゃった…)
響はパンプスを脱がせて自分の腿の上に、琉泉の脚を置く。
「しみるぞ」
消毒液に浸した脱脂綿を、ピンセットでつまみ傷口をなぞる。
「うぅっ…」
思ったより深く切られていたのだろうか。
痛い。
ただ、それ以上に琉泉の身体は熱を帯びていた。
響はなるべく痛くしないように優しく触れているのだろう。
だがそれは、逆に琉泉の感度を刺激してしまっている。
太ももに触れる、大きな手。
長い指。
スーツの生地越しに伝わる、柔らかな熱。
(あ……やだ…)
なんとも言えない気持ちになる。
主人に対してこんな感情を持ってしまう自分に、嫌悪感すら覚える。
幸いと言うべきか、響は琉泉のそんな様子に気づいていなかった。
「ん。こんなもんか」
傷口にカットバンを貼り、スーツを元に戻す。
「ありがとう…」
「いや、いい。元はと言えば、俺のせいだしな」
「そんなこと…」
響は険しい顔を見せる。
「…痛かっただろ」
「えっ?いや、そうでもないよ。途中まで気づかなかったし…」
琉泉は本心を言ったつもりだった。
だけど、響の綺麗な顔に深く刻まれた眉間のシワは、一向に戻らない。
「ごめんな、琉泉」
同じ高さから伸ばされた大きな手で優しく頭を撫でられ、その手はやがて琉泉の頬に触れる。
温かくて、優しい手。
上を見上げると、悲しげに揺れる瞳と目が合う。
時間が、とまる。
至近距離で恥ずかしいはずなのに、目を逸らさない。
胸が、締め付けられたように苦しい。
考える前に、身体が動いていた。
気づいたら、立ち上がり、自分の胸の中に響を抱きしめていた。
シトラスのコロンが、鼻をかすめる。
(違う…)
謝って欲しいわけじゃない。
(そんな権利、わたしにはない…)
だって、謝らなければいけないのは……
(わたしの方だから)
『あなたが響を守るのは、捨てられたくないから』
さっきの声が、頭をよぎる。
(そう…かもしれない。私は結局、自分のためにこの人を利用している)
この国の誰もが知っている大企業、YAGAMIグループ。
その経営陣である八神家の御曹司。
琉泉が響のそばにいることができるのは、ボディーガードという職があるからであって、琉泉そのものに価値があるわけではない。
本来であったら、琉泉が出会うことすらできないようなところにいる人なのだから。
そして、いつ追い出されてもおかしくはないのだ。
それが、琉泉はとても怖い。
自分は要らないのだと、そう言われるのが。
真実が明るみになり、裏切り者と彼に蔑まれるのが。
だから、せめて今は不要物にならないように、響の盾となると偽の忠誠心を捧げているのだろう。
卑怯だとは理解している。
ここにいてはいけないことも、重々承知だ。
だけど……
(もう、誤魔化せない…)
『あなたのことが、好き』
ふっと湧き出た、気持ちだった。
それは、八神側でない琉泉がもつことを許されない、小さな感情。
脆く、いとも簡単に壊れてしまう感情。
絶対に、相手には伝えてはいけない感情。
琉泉は、ゆっくりと響から離れた。
見下ろした響の瞳には、動揺とともに隠しきれない熱情が浮かんでいる。
その瞳の中に灯った熱情をみたとき、琉泉の心のどこかで、箍が外れた。
時間が、とまる。
その行動は、もはや衝動だった。
琉泉は、響に近づきーー響の唇に自分のをそっと重ねた。
…………………………
ガシャンッ…
YAGAMIホールディングス、18階。
警備課の広いフロアに響いた割れ物の音に、皆が振り返る。
視線を集めていたのは、自分に何がおきたのか分かっておらず、ボーッと割れたコップを見ていた琉泉だった。
「ねぇ…さーちゃん?」
「えっ、あ…」
コピーしたばかりの書類を手にした三嶋に声をかけられ、琉泉はやっと自分を取り戻した。
床にはブラックコーヒーと割れたカップの破片が散らばっている。
「すみません、すぐ片付けます…」
状況を飲み込み、片付けるためにほうきとちりとりを持って来ようとして、今度は足を椅子のキャスターにぶつける。
「ちょっと、大丈夫!?」
「…ボーっとしてて。ごめんなさい」
本気で心配している顔の三嶋に、苦笑いを浮かべながら謝る。
そんな様子を、少し離れたところから他のチームのメンバーは見ていた。
「どう思う?あれ」
「明らかにおかしいな」
「何かあったんすかね?佐伯」
鶴橋、隈川、一ノ瀬が声を潜めてお互いの顔を見合わせる。
ボディーガードとしても優秀で、何事にもきっちり取り組む、隙のない琉泉がこんなことになるのは珍しい。
「男か?」
「まさか!あんな凶暴な女に男なんてできないですよ!!」
「いや、分からないでしょ。警備課では結構人気あるんだよ?佐伯さん」
「えっ、そうなんすか!?」
本人がいないのをいいことに、あーだこーだと話を進める3人に、呆れ顔のままの三嶋が話に合流する。
「今日は厄日?さーちゃんもそうだけど、社長もあんな感じなのよね…」
どうしましょうと言うようなニュアンスで頬に手を置きため息をつく三嶋。
ちなみに彼は、オネエだ。
モデルのような長身に、肩くらいまであるサラサラの茶髪を一つに結んでいる。
とにかく美形で儚げな印象があるが仕事はしっかりとできるので、オネエについては誰からも黙認されている。
その三嶋の話に鶴橋と一ノ瀬がつかさず喰いつく。
「え?社長も…って…」
「…あんな社長、初めて見たわよ。いつもなら30分で終わる仕事を、2時間経っても終わらせてなかったんだから。身に纏ってる空気も、いつものピリッとした感じじゃなくて、ぼーっとしてるような感じだったし」
「あぁ、俺も朝見たが、ありゃひどかったな」
思い出すようにつぶやく隈川に、その本人を見ていない二人は驚きを隠せなかった。
細かいことを基本気にしないタチの隈川がこれほど言うということは、相当だったのだろう。
ふと、4人の脳内に、全く同じ状態に陥っているひとりの女性が浮かぶ。
「まさか…佐伯と何かあったってことは…」
ボソッと呟いた一ノ瀬の言葉に、全員が硬直する。
琉泉と響が幼なじみで、同居(というか、琉泉の居候)していることは、この場の全員が知っている。
たっぷり数十秒。無言のなんともいえない空気が漂う。
「……いや、そんなことないでしょ」
「ないな。あの佐伯だぞ?」
「ないわよー、さーちゃんに限って」
はははと四人の乾ききった笑いがその場に響き渡った。
…………………………
ーーーSide of Kyoーーー
YAGAMIホールディングス本社の一室。
自分に割り当てられた副社長室で、響は深いため息をついた。
(わからない)
寝ても起きても考えるのは琉泉のことだ。
あの日。琉泉が自分をかばって怪我をした日。
なぜ、彼女はあんな事をしたのか。
いくら考えても、答えは見つからない。
「っすみません!!」
たっぷり数十秒。琉泉がなにかをしてから、響は動くことができなかった。
体はおろか、頭さえ働かせることができない。
琉泉が目の前で必死に誤っている姿を瞳に映しながら、しばらくしてその「何か」がキスだったことにようやく気づく。
「あの…その…ごめんなさいっ」
弾丸のように部屋を出て行った琉泉を目で見送り、響は指で唇をなぞった。
「え……」
呟いた言葉は、アルコール臭がただよう空虚な部屋に、静かに消えて行った。
あれから琉泉とは話していない。
もちろん、仕事に関する連絡などはしているのだが、以前のような他愛もない会話をすることはここ数日なかった。
というか、一方的に避けられている気がする。
「はぁ……」
溜まった仕事も手につかない。
それほど、響の脳内はあのふにゅっとした感触に蝕まれていた。
「……柔らかかったな」
ぎこちなく押し付けられた桜色の唇。
確かに感じた、優しいぬくもり。
(期待…してもいいのか…?)
向こうからそういう事をしてきたということは、その行為に意味があったととっていいのだろうか?
琉泉の気持ちも、自分に向いていると、自惚れてもいいのだろうか?
なにせ、長年の片思いだ。
実らないと分かっていた、それでも手放すことの出来なかった想いだ。
(…期待しないほうがおかしいだろう)
「はぁ………」
もう何度目かもわからないため息は、社長室へと消えていった。
…………………………
「はぁ……」
同時刻、本社ビルの4階。
表通りとは逆の裏通りに面する外裏階段に、琉泉はいた。
ここは琉泉が響のボディーガードとして働き始めた頃からお気に入りの場所で、よくきている。
「どうしよう…」
あのとき。こともあろうか自分から近づき、してしまったあの瞬間。
最初に浮かんだ感情は、「やってしまった」だった。
口から勝手に出た謝罪の言葉を投げかけてみたものの、相手は呆然としたまま。
居た堪れない気持ちになり、逃げ出してしまった。
あれから、響に何を言われるのかが怖くて、ろくに目も合わせることができない。
ひどい話だ。
自分から勝手にしておいて、ちゃんとした謝罪の言葉もないまま逃げ回っているなんて。
このままではいけないということも分かっている。
分かってはいるが……。
「気まずい……」
恋愛感情を持っていない相手からのキスは、不快なだけだと以前読んだ女性誌には書いてあった。
愛されているとは思う。
ただそれは、家族に向けるような、妹に向けるような“愛情”だ。
年頃の妹にキスをされて、果たして相手は不快感を持たずにいられるだろうか。
琉泉には血の繋がった兄妹がいないため、全て職場の人たちから聞いた印象にすぎないのだが。
もし。もしも。
響に嫌われてしまったら…。
引かれてしまったら。
それほど怖い事実は、きっとこの世にない。
「…謝ろう」
生きていくのに必要な資金は一応ある。
許される、許されないは置いておいても、謝ることは絶対にしなければならない。
何気なく見上げた空は、今にも雨が降りそうな曇り空だった。
…………………………
午後7時30分。どうしてもあのキスが頭から離れず、全く手に付かなかった仕事を残業していた琉泉たったが、三嶋から「帰って休みなさい」と半ば無理やり追い出されたのだ。
だからといって、琉泉は1人では帰れない。
なにせ、響の護衛として一緒に帰宅し、響と同じ家へと帰るのだから。
響も今日は残業しているらしく、結局帰れないと三嶋にいったのだが、「今日は私が社長を護衛するから大丈夫よ」といわれ(圧を押され)、仕方なく琉泉は電車で先に帰ることにした。
会社から出て、駅に向かおうとしたとき。
「佐伯 琉泉さん、ですね?」
「え?」
右側から声をかけられ、振り向くとそこには黒いスーツをかっちりと着た眼鏡の男がいた。
「あの…?」
「失礼。私、皇グループの会長である皇 鶫の秘書を務めております、相模と申します」
その名前を聞いた瞬間、琉泉の顔色がサッと変わる。血が通っていないのかと聞きたくなるほど、真っ青に。
皇グループ。
国内の中でも、八神と並ぶ規模の大企業だ。
なかでも会長の皇 鶫は経営について全く知らない琉泉でさえ、その名は聞いたことのあるほど有名な人物。
「……私に何か?」
「会長から貴女へお話ししたいことがあるそうです。時間が許すのならば、皇邸へ来ていただけますか」
「……………」
ついに、この日がきてしまった。
隠し通せるとは、思っていなかった。
いつかはこうなってしまうことも、わかっていた。それでも、見つからなければいいと、願ってしまった。
「タイムリミット…ね……」
小さく呟いたその一言は、今にも雨が降りそうな、どんよりとした空へと吸い込まれていった。