act16 気持ちの変化の始まり
あの日から数日後、彼はイギリスへと旅立った。本当に思い出と彼女を残し、たった一人で自分の苦悩と闘う為に。
そして、それからさらに二ヵ月後……
「浅井く〜ん!」
背後からそう呼びながら駆け寄ってくる彼女は、彼がいないという寂しさを感じさせないくらい元気だった。
「やぁ、ホント元気だね」
どうしてそう元気なのか、羨ましくもなる。
この春から俺は無事に法学部へと編入を果たし、何とか夢に一歩進み始めている。これからがもっと大変になるだろうけれど、俺の夢を受け入れてくれた両親、そして協力してくれた人達の為にも頑張らなければならない。
「でも、ホント凄いよね。マジで編入しちゃうんだから」
「凄くないよ。今までだらけていた分をしっかり取り戻さないといけないからね」
それくらいの覚悟は出来ている。せっかく自由を手にする事が出来たから、夢を掴む為の努力は決して惜しまないつもりだ。
「そうだね、私も頑張らないと!」
彼女もまた将来について悩んでいたが、とうとう教職の道を選択した。萩原は介護士、倉田は医者。一ノ瀬は彼女と同じく教職を選んで、東條はデザイナーの勉強を進めている。そして……宇佐美は?
あれから、時々みんなの口から彼の話題が出たりしていた。みんなには留学と偽ってイギリスに行ったので、今頃は自分たちと同様に一生懸命勉強しているのだろうと話をしていた。けれど、実際のところはそうでは無くて……
宇佐美、イギリスに行って少しはお前の心は癒されたのか? 彼女と離れて支えを失っても、その心は満たされているのか? あの時俺に話したお前の過去の事を思うと、俺にはとてもお前が今そっちで満たされているとは思えない。俺にだけ明かされた彼の心中だから、誰にも俺の気持ちを伝えられないもどかしさが存在している。
「あのバカも今頃はイギリス女とじゃんじゃんお楽しみ中じゃないかしらね」
ほら、やっぱり勘違いしているし。何も知らない彼女たちの勝手な想像には最初は気分も悪くしたが、今ではもう慣れてしまって一緒に笑って済ませるようになっていた。それは仕方の無い事だから、俺や宇佐美自身が口を開かない限り真実が明かされる事は無いのだから。
「今日さ、渉と蓮子と飲みに行くんだけど、浅井クンも行かない?」
「あぁ、ごめん! 今日も行かないといけないんだ」
法学部に編入しただけでは安心できない。俺は今でも羽山先生の家にお邪魔しては勉強をしている。時間は無いのだから、こういう時は積極的に行動を起こさないといけないのだ。
「そっか、じゃあまた今度行こうね!」
こうして彼女と普通に会話して思う。いつの時か抱いていた恋愛感情は、ただの憧れでしかなかったという事を。きっと彼女がいつでも頼りにしていた宇佐美に対して、何らかの対抗心が芽生えていたのだ。
彼女と別れて校門の方へ行くと、そこには見慣れた人物が立っていた。
「紘佳さん?」
「あっ、こんにちは。今日、自宅にいらっしゃると父から聞いていたので……」
最後の方は何を言っているかよく聞き取れなかったが、いつここに来るか分からない俺をずっと待っていてくれたかと思うと……ねぇ? 何だか自然と顔が赤くなってしまうような……。
「あっ! 尚弥だ〜!」
「あら、ホント! 尚弥〜」
こんな所をあまり人に見られたくないと思う時に限って、非情にも声を掛けられてしまうんだよな。それもよく知っている一ノ瀬と東條に……。二人はすぐに視線を俺ではなく、隣りにいた紘佳さんへと移した。
「あら、彼女かしら?」
「ホント、見かけない子だね」
じわりじわりと近付いてきそうな二人から逃げるべく、とりあえず俺は紘佳さんの手を引っ張ってその場から走り去った。
「あっ! 尚弥〜っ!」
二人の声も無視してとりあえず当ても無く走る。あの二人に捕まると本当にうるさいし、それに今度は倉田達にも広がっていくからなぁ……。そんな風に考えながら走っている時にかすかに聞こえた紘佳さんの荒い息遣いにやっと我に返ってその場で立ち止まった。
「あっ! すいません。俺、つい手を掴んで走ってしまって……」
何とか息を整えようとしている紘佳さんの手をとりあえず離してひたすら謝る。紘佳さんはそんな俺を見て、息を整えながらクスクスと笑い始めた。
「えっ、俺何かしました?」
何も言わずただ笑っている紘佳さんに顔を傾げながら尋ねると、それでも彼女はクスクスと笑い続けていた。
「ごめんなさい。ただ、あんなにも必死な尚弥さんを見たのは初めてだったものですから」
そう言うと再び笑っている彼女を見て、改めて自分の顔が赤くなるのを感じた。どうして赤くなったのかは自分でもよく分からないが、それでも俺はこの何とも言えない感情を彼女にはばれない様にと必死に隠そうとした。
何て言い表していいのか分からないこの感情は……何の始まり?