act14 愛情と苦悩の間で
急いで自宅へ向かったので、着いた頃にはもうまともに呼吸が出来ないくらいの状態だった。肩で息をしながら玄関へたどり着き、そのまま応接室へと向かう。徐々に聞こえてくる母と来客者の会話。
そして、応接室の前に着くと一旦深呼吸をして自分を落ち着かせてから扉を開けた。そこには……
「いや、ホントホント! すっごい綺麗なお肌ですよ! いいなぁ、俺好きかも」
「あ、あら。でも、特に何もしていないのよ」
とりあえず、一回扉を閉める。つい先日、これと同じ様な光景を見たような気がするのは俺の気のせいだろうか? その時は確か近所の奥さんだったけれど、今回は俺の実の母親。そして、その母をまたも同じ手口で口説いている来客者……宇佐美琉依。
「ていうか、何してるの? 宇佐美」
「あ、おかえり〜。留守って聞いたから待たせてもらってたんだけど、その間ずっとこんな美女とお話できてさ〜」
改めて扉を開けると宇佐美は何も慌てる事も無く、“ね〜?”と母に言っていた。そして、いつもなら堅物の母もさすがに宇佐美には弱いのか少し顔を赤らめていた。いや、この人俺の母親だし! でもそんな母を見ると、母もやはり女性なんだと思い知らされた。
「イギリスへの準備はどう?」
母が去った二人だけの応接室で、とりあえず挨拶代わりに聞いてみる。
「うん、ほぼ出来てるよ。もう部屋の中は段ボールばかりで、やっとイギリスに行くんだって実感したって感じ」
ソファに座ってくつろぎながら宇佐美は答える。以前の闇はどこに行ったのやら、彼の表情はとても明るいものだった。
「それで、今日はどうしたの?」
何もないただの世間話をしにわざわざ家に訪ねる訳が無い、こうしてやって来るのだからきっと大事な話でもあるのだろう。大学では言えないような、彼女の話。
「うん、やっぱり君は勘が鋭いね」
参った参ったと軽く笑いながら話す彼に、また馬鹿にされたかと少しムッときた。
「イギリスに旅立つ前に、君にお願いしておきたかったんだ。夏海の事を見守ってやってと」
コーヒーに口をつけた後、さっきまでとは打って変わって落ち着いた口調で話し始めた。
「彼女は宇佐美と行くんじゃないのか?」
彼が先日、俺達にイギリスの事を話した時には既に彼女はその事を知っていた。俺はその時、彼女も付いて行くと思ったのにそれは違うのか?
「この間さ、夏海が家に来たんだよ。その時にはっきり言われたんだ。“イギリスには行けない”ってね」
えっ? 言葉にならなかった。俺の中では絶対彼女は行くと決め付けていたから。彼と彼女は離れられないくらい絆が深いものだと俺も思っていたから。それなのに、彼女は行かない?
「夏海はね、俺が思っていたよりも大人だったんだ。あいつはちゃんと自分の事も考えている、だから俺の勝手な誘いを断ったんだよ」
本当は無理矢理にでも連れて行きたいんじゃないのか? そう言いたかったけれど、あえて口に出さなかった。そんな事聞かなくても、答えは分かりきっていた。
「だから、在学中の間は夏海の相談とかに乗ってやって? なんだかんだ言っても弱い所の方が多い子だから」
そう言って宇佐美は立ち上がると、俺の肩をポンッと軽く叩いて部屋を後にした。それを追う事も無いままその場で呆然としていると、玄関の扉が開く音と母と彼の会話が聞こえてて、やがて元の静けさへと戻った。
その夜、自室で昼間に羽山先生から教わった事を資料見ながら復習していたが、集中力が欠けてしまい思うようにそれがいかなかった。
“なんだかんだ言っても弱い所の方が……”
宇佐美の言葉が頭を駆け巡る。彼はもう少ししたら、イギリスに行ってしまう。彼女を、弱い彼女を置いて。それでいいのか? 彼女も、彼も……
「俺は……」
どうしたい? このまま彼を行かせてしまってもいいのか?
「いいわけない」
そう呟くと、ジャケットを持ち出し階段を駆け降りて玄関を飛び出した。