私が縫った花嫁衣装で妹と結婚するそうです
「姉妹なのだから、少し直せば着られるだろう。式までに仕上げてくれ」
ロベルトが指したのは、窓際に広げてある私の花嫁衣装だった。白い絹の裾には、大小の薔薇が輪になって咲いている。最後の一輪は、花びらがまだ三枚しかない。今朝も続きを縫っていたので、針に通した糸が布の上に長く伸びていた。
私はその糸を見つめ、彼の言葉を頭の中でもう一度繰り返す。少し直す。式までに仕上げる。そのあいだにあるはずの説明を、うまく拾えない。
「……これを、アネットが着るの?」
「そういう話をしているんだよ」
隣に立つ妹が、ロベルトの腕に添えた手を離した。衣装の前にしゃがみ、胸元のレースをつまんで自分に当てる。その仕草があまりに自然で、止める言葉が遅れてしまう。
「お姉様、腰のところをもう少し細くしてくださる? 私には余ってしまいそう」
式まで、あと六週間。今朝まで、この衣装を着るのは私だった。
父に呼ばれたのは昼食のあとで、話は応接間で済んでいた。ロベルトとアネットは互いに想い合っている。気持ちのないまま私と結婚するより、今のうちに正したほうが三人のためになる。父はそう言い、ロベルトも頭を下げた。アネットは泣いていたけれど、私は泣き方まで忘れたように、膝の上で手を重ねて聞いていた。
だから、いったん自分の部屋へ戻ったのだ。追いかけてきた二人は、謝り足りないのだと思っていた。
「裾の長さは、同じでいいわよね。お姉様と背丈はあまり違わないもの」
アネットが、衣装を持ち上げようとする。私はようやくその手を押さえた。
「針がついているから」
「あら、ごめんなさい」
布を受け取り、針を抜いて針山へ戻す。糸の端を切るだけなのに、鋏の持ち手に指がうまく入らない。ロベルトは小さく息をつくと、私の作業机に置いてあった椅子を引いた。
「ミレーヌ。君に悪いことをしたのはわかっている。でも、このまま置いておくのもつらいだろう。誰かに着てもらったほうが、衣装だって無駄にならない」
この人は、私がどこまで縫っていたか知らない。訪ねてくるたび、少しずつ出来上がっていく裾を見せていたのに。彼が読書をしている横で針を動かした午後もある。薔薇がお好きだと聞いたので、と話したときには、似合うと思うよ、と笑ってくれた。
「無駄にはならないわ」
「けれど、君はもう着ないだろう?」
悪意を隠す様子もなく尋ねられて、胸の奥がひどく痛んだ。私は衣装を抱え直す。胸元のレースに、さっきまでアネットの指があった。
「それでも、渡さない」
妹の目が丸くなる。ロベルトも椅子に座りかけたまま、私を見上げていた。
「お姉様?」
「これは私が着るために縫ったの。あなたの衣装は、あなたたちで用意して」
「今からでは、こんな刺繍の衣装は間に合わないわ」
「半年かかったもの」
毎日、夕食のあとに少しずつ。雨で外出できない日は、いつもより長く。指を刺して布を汚しそうになり、慌てて手を離したこともある。あのとき血がつかなかったのが嬉しくて、私はひとりで笑ったのだった。
膝の上の薔薇が歪む。瞬きをすると、ぽつりと手の甲が濡れた。
「その半年を、少し直せばあなたのものになると思わないで」
ロベルトが何か言いかけたところで、廊下から父が顔を出した。私が泣いているのを見ても、二人を責めることはない。父の視線は衣装と妹のあいだを動き、最後に私へ戻る。
「ミレーヌ、衣装くらいで争うのはよしなさい」
私は子どもの頃から、アネットの服を直してきた。外れた釦も、引っかけた裾も、妹は私に持ってくれば安心だと思っている。父も、少し待てば私が裁縫箱を開けると信じているのだろう。
けれど、今日は針を持てなかった。私の手は衣装を押さえるので精いっぱいで、誰かのために動かせる余裕がない。
「衣装くらいでしたら、新しくお買いになってください」
父の眉間に皺が寄る。その顔を見ると、いつもなら言いすぎたかしらと不安になるのに、今日は次の言葉が出てきた。
「絹も糸も、伯母様からお祝いにいただいたお金で私が選びました。お父様に持たせていただく家具や銀器とは別です。これは持っていきます」
「持っていくとは、どこへ」
「伯母様のところへ。しばらく置いていただけるか、お尋ねします」
父は困ったように口を結び、アネットはロベルトを見た。誰も私を引き留めなかったけれど、誰も部屋から出てくれない。私は三人の前で、衣装の上にかけていた薄布を広げた。
薔薇を潰さないように包む。最後の一輪の短い糸を、布の内側へそっとしまう。その手順だけは、間違えずにできた。
*
イレーネ伯母様からは、その日のうちに馬車が来た。私を見た伯母様は事情を聞き出すより先に、二階の部屋へ案内してくださった。衣装の箱は箪笥の上へ、裁縫箱は窓辺へ。温めたスープを半分ほど飲むと眠くなり、目が覚めたときには翌朝だった。
結婚しなくなっても朝は来るし、お腹もすく。そのことにほっとしたあとで、少しだけ自分を薄情に思う。
窓辺の裁縫箱を開けたのは、三日目の午後だ。手を動かせば落ち着くだろうと考えたのに、針山を見た途端、ロベルトの声が耳によみがえった。君はもう着ないだろう。蓋を閉じてしまうと、部屋にはすることが何もない。
階下から伯母様の笑い声が聞こえる。顔を洗って下りていくと、食堂の椅子の上に立った青年が、壁の時計へ手を伸ばしていた。
「あと少し右よ、ユアン。そう、そのくらい」
「右へ動かすと、この椅子が倒れそうですが」
「では下りて。もう充分見やすいわ」
ユアン・ベケットは、伯母様の隣家の次男だった。父親の領地の仕事を手伝いながら王都とのあいだを往復していて、伯母様とは私より気軽に言い合う。子どもの頃にこの家へ遊びに来ると、よく一緒に夕食の席についていた。
彼が椅子から下りたので、私は思わず時計を見る。少し傾いている。
「左が下がっているわ」
「……イレーネ様、やはり」
「ミレーヌが気にするなら、直してちょうだい」
ユアンは笑って、また椅子に上がる。私が右、もう少しだけ、と伝えるあいだ、伯母様は料理人に昼食を一人分増やすよう頼んでいた。誰も私の赤い目に触れないのがありがたくて、私は時計だけを見ていられた。
食後、伯母様が届いた手紙を読みに書斎へ行くと、ユアンは向かいの椅子に座り直した。
「結婚のことは聞いた。何も知らずに、お祝いを持ってきてしまったんだ」
卓上に置かれた細長い包みが目に入る。そうだったの、と答えた声は、自分でも驚くほど平らだった。
「気にしないで。持ち帰ってもらってかまわないわ」
「見てから決めないか。君がいらないと言うなら、持ち帰る」
包みの中には、小さな鋏が入っていた。刃先の細い刺繍用の鋏で、持ち手の輪には花模様が彫ってある。古い鋏の噛み合わせが悪く、糸を切るたび引っかかるとこぼしたのは、いつだったろう。
「覚えていたの?」
「店先で見かけて思い出した。去年の冬、糸に向かって怒っていたから」
「怒ってはいないわ。切れてちょうだいってお願いしていたの」
「ずいぶん怖いお願いだったな」
少し笑ったら、喉が詰まる。私は鋏に触れず、包み紙の端を折り直した。
「ごめんなさい。今は、使えそうにない」
「そうか。預かっておくよ」
彼はすぐに包みを引き寄せた。せっかくだから、と勧められないことが、今の私には何より助かる。窓の外を荷馬車が通り、食器を片づける音が遠くから届いた。話題を変えようと思うのに、口から出たのは衣装のことだった。
「薔薇をね、たくさん縫ったの。彼が好きだと言っていたから」
「うん」
「花びらの重なりが難しくて、何度もほどいたわ。あと一輪で終わるところだった」
ユアンは急かさずに待っている。だから私は、誰にも言えなかったことまで話してしまった。
「私も、楽しみにしていたのよ」
ロベルトと並んで歩く日のことを。衣装を褒めてもらえたら、あなたの好きな花です、と答えるつもりだったことを。うまく縫えない夜にも、そのやり取りを思い浮かべるだけで、もう少し頑張れたことを。
涙が頬を伝う前に、ユアンが清潔なハンカチを差し出してくれた。私はそれを受け取り、両手で顔を覆う。彼が困るかもしれないと思っても、もう止まらなかった。
「知ってる。春に会ったとき、式の日を教えてくれたから」
そういえば、この食堂だった。伯母様に報告するついでに、居合わせた彼にも話した。あの日の私は、どんな顔をしていたのだろう。
「綺麗に縫えたかどうかより、まずそれを思い出した」
私は頷きながら、しばらく泣いた。衣装を惜しんでいるだけだと思われたくなかった。誰か一人にでも、結婚するのを楽しみにしていた私のことを覚えていてほしかった。
顔を上げる頃には、借りたハンカチはすっかり湿っている。洗って返すと言うと、彼はいつでもいいと答え、そのまま窓へ目を向けた。
「ミレーヌ自身は、どの花が好きなんだ?」
窓の下には、伯母様が植えた秋の花が揺れていた。答えようとして、なぜかすぐには言葉にならない。衣装の図案を考えたときも、家の庭をどうするか相談したときも、私の好きな花を選ぶつもりがなかったからだ。
「……矢車菊」
「青い花か」
「ええ。夏に、畑の端に咲いているでしょう。あの青が好き」
口にすると、簡単なことだった。ユアンは頷き、もう季節が過ぎてしまったな、と残念そうに笑う。代わりの花を買ってくるとも、来年は庭いっぱいに植えるとも言わない。その日、彼は鋏の包みを持って帰った。
私はひとりになってから、窓辺の裁縫箱を引き出しにしまった。今日は開けなくていい。そう決めると、夕食までの時間が少し楽になった。
*
一週間後、父から手紙が届いた。ロベルトから贈られた婚約のブローチを返し、私が彼の屋敷に預けていた本を受け取る。そのために父が二人を連れて来るという。文末には、アネットが衣装のことで困っている、落ち着いたなら考え直してほしい、とあった。
私は返事に、ブローチは返すこと、衣装は渡さないことを書いた。衣装については二度読み返し、曖昧な言葉がないのを確かめて封をする。
当日、伯母様は応接間にいてくださった。私の隣ではなく、少し離れた椅子に座り、必要なら口を出すけれどまずあなたが話しなさい、と目で伝えてくれる。父に続いて入ってきたアネットは、新しい帽子をかぶっていた。縁に白い薔薇が飾られているのを見て、私は一瞬だけ息を止める。妹は気づかず、膝の上に小さな紙を広げた。
「お姉様。お針子に測ってもらったの。これがあれば、私が何度も来なくても直せるでしょう?」
差し出されたのは、妹の寸法を書いた紙だった。父もロベルトも、しまいなさいとは言わない。私の返事を読んだうえで、三人ともここへ来たのだ。
「直さないと、お手紙に書いたわ」
「それは読んだ。でも、話し合う余地はあるだろう」
ロベルトが妹の代わりに答えた。私は持ってきた小箱を卓上へ置き、蓋を開ける。婚約した日に贈られた真珠のブローチが、紺色の布に収まっている。
「こちらをお返しします。本も、そこに置いてください」
「ミレーヌ、そんな事務的な態度を取らなくても」
「返すものを決めていただけよ」
彼は口をつぐみ、脇に置いた本の包みを押し出した。私は冊数を数え、借りていた彼の本が混ざっていないことを確かめる。指先が冷たいけれど、ここまでは練習したとおりにできる。
「衣装代は払おう」
ロベルトが言った。アネットはほっとした顔で彼を見る。私が意地を張っているだけなら、お金を払うことで話がつく。二人には、そう思えたらしい。
「お金の問題ではないわ」
「君の手間にも、もちろん礼はする。何も、ただで譲れとは言っていない」
「売るつもりがないの」
アネットが寸法の紙を握り直した。新しい手袋の指先に、小さな皺が寄る。
「お店では、刺繍まで入れるなら三か月は必要だと言われたのよ。式は来月なのに。お姉様のは、ほとんど出来ているのでしょう?」
「ええ」
「それなら、仕上げてくれてもいいじゃない。着る予定もないのに、しまっておくなんて」
その言葉を聞いた途端、頭の中で用意していた返事が消えた。私にはもう着る予定がない。それは事実だ。楽しみにしていた日だけがまだ暦の上に残り、私の場所には妹が立つ。
膝の上で手を握ると、針の当たっていた中指の皮膚が少し硬いのがわかった。半年かけて覚えた手の感触は、婚約がなくなっても消えてくれない。
「私が着られなくなったのは、あなたたちが結婚するからよ」
アネットが目を伏せる。私は一度息を継いで、続けた。
「私が楽しみにしていたことは知っているでしょう。それを着て、あなたたちが結婚するところを見せられるのは嫌なの。どうして、それくらい嫌がらせてくれないの」
最後は声が震えた。格好よく断りたかったのに、喉が痛くて、泣くのを堪えるだけで苦しい。伯母様が身じろぎした気配はあったけれど、私は首を横に振る。ここから先も、自分で言いたかった。
「生地から選んで、図案を描いて、私が縫った衣装なの。渡さないし、あなたの寸法にも直さない」
「では、いつまで置いておくつもりなんだ」
ロベルトの問いに、私は顔を上げた。
「いつまででも。仕上げるのは、私が着ると決めたときです」
彼の目が初めて衣装のある二階のほうへ動き、それから私へ戻る。今までとは違う沈黙だった。頼み方を変えれば手に入ると思っていたものが、ようやく届かない場所へ移ったのかもしれない。
父が咳払いをして、伯母様を見る。
「姉さんからも、何か言ってもらえませんか。式の手配は済んでいるんです」
「では、間に合う衣装を買えばよろしいでしょう」
「あの家との婚礼です。あまり粗末なものでは」
「私の姪が半年かけて縫うものを、衣装くらいと言ったのはあなたでしょう」
父は赤くなり、手にした帽子を膝へ置いた。伯母様はそれ以上責めず、私が出したブローチの箱をロベルトのほうへ寄せる。
「持ち主の返事は聞いたわね。今日は返却を済ませましょう」
アネットは、紙をまだ持っていた。折り目を指でなぞりながら、私を見る。
「私のこと、そんなに嫌いになった?」
子どもの頃なら、その顔に弱かった。喧嘩をしていても、嫌いじゃないわよと答えて、それで私が折れてきた。今も妹の泣きそうな顔を見ると、胸のどこかが軋む。
それでも、妹を泣かせたくないからといって、あの衣装を渡すことはできない。
「その話と、私の衣装を渡すかどうかを一緒にしないで」
妹の指が止まる。やがて紙は小さく畳まれ、手提げの中へ消えた。三人が帰ると、私は背もたれに体を預け、長く息を吐いた。返してもらった本の角が一冊、擦れて白くなっている。それを撫でているうちに、本当に終わったのだという感じが、少しずつ胸へ広がってきた。
「疲れたでしょう」
「ええ。手が、まだ冷たいわ」
伯母様が私の両手を包んでくださる。しばらくそうしてから、用事で外へ出るけれど一人で大丈夫かと尋ねられ、私は頷いた。今日は誰の機嫌も取らず、何もしないでいたかった。
玄関まで見送ると、ちょうど隣家からユアンが出てくるところだった。伯母様に挨拶をしてから、私の顔を見る。何があったのか、とは尋ねない。
「今日は、帰ったほうがいいかな」
私は少し考えた。明るく話せる気はしないし、また泣くかもしれない。それでも、彼に帰ってほしくはなかった。
「話をしなくてもよければ、少し一緒にいてくださる?」
「もちろん」
私たちは食堂に戻り、並んで窓の外を眺めた。壁の時計は、今日もまっすぐ掛かっている。その下にいると、ちゃんと断れたのだと、やっと思えた。
*
アネットたちは、予定どおりの日に結婚した。衣装は王都の店で仕立ててあったものを買い、寸法を直したという。刺繍の代わりにレースを足したので予算を超えた、と父からの手紙にはあったけれど、私は返事でその話に触れなかった。式にも出席しなかった。
その日は伯母様と買い物に出て、帰りに揚げたての菓子を食べた。夕方には疲れて眠くなったけれど、夜中に一度目が覚めて、やっぱり少し泣いた。
冬になると、ユアンが領地から戻る日に、隣家の門へ目が行くようになった。彼は伯母様に用事があるときだけでなく、私を散歩に誘うためにも訪ねてくる。最初は十五分ほどだった散歩が、川沿いをひと回りする長さになり、帰り道に市場へ寄ることも増えた。
何を買うかと聞かれるたび、私はいちいち考え込む。あなたと同じものでいい、と答える癖は、すぐには抜けなかった。
「同じにしたいなら、それでもいいんだ。ただ、俺はこれから酢漬けの鰊を買う」
「……私は、焼き栗にするわ」
「そうしてくれ。二袋食べるのは俺もつらい」
笑いながら栗の袋を受け取り、一つ渡すと、彼は熱そうに指先を持ち替えた。馬鹿な話をして帰れる日が増えていく。その頃には、彼に会いたい理由が、つらい話を聞いてもらうためではなくなっていた。
裁縫箱を開けたのは、伯母様の袖口から釦が落ちた日だった。たまたま私が拾い、そのまま針に糸を通しただけで、特別な決心はしていない。二、三度留めて糸を切ろうとすると、古い鋏がいつものように引っかかった。
私は糸を引く手を止め、少し考えてから、隣家へ短い手紙を書いた。
『あの鋏を、まだ預かってくださっている?』
翌日、ユアンは自分で届けに来た。包み紙は秋と同じもので、私が折り直した端に筋が残っている。鋏を指にはめて糸を切ると、驚くほど軽く刃が閉じた。
「よく切れるわ」
「よかった」
「もう糸にお願いしなくて済みそう」
ユアンは笑ったあとで、少しだけ困った顔になった。私は鋏を箱へ置き、何かあったのかと尋ねる。
「君が元気になったら言おうと思っていたんだ。でも、何を見てそう決めればいいのか、わからなくなった」
彼の声につられて、私も姿勢を正した。窓の近くに座っているせいか、彼の耳が赤いのがよく見える。
「ミレーヌが好きだ。イレーネ様への用事がなくても会いに来たいし、散歩の帰りに、もう少し一緒にいたいと思っている」
心臓が速くなる。期待していなかったと言えば嘘になるけれど、はっきり聞くと、返事がすぐに出てこない。彼は待ってくれた。秋に泣いたときと同じように、けれど今日は、彼のほうも落ち着かない様子で両手を組んでいる。
「いつから?」
「婚約がなくなる前から。でも、それを今言うのは、君に気を遣わせるだけだと思っていた」
私は食堂で結婚の日を知らせた春を思い出す。あのとき彼は祝ってくれた。そのあとも、鋏を選んでくれた。
「……あのお祝いを用意するのは、つらくなかった?」
「つらかったよ。でも、君は楽しみにしていたから」
ユアンはそこで言葉を切り、私の顔を見た。
「今度は、俺といるのを楽しみにしてもらいたい」
胸がいっぱいになって、うまい返事など思いつかない。私は卓上に置かれた彼の手へ、自分の手を重ねた。
「もう、楽しみにしているわ。領地からお帰りになる日も、次に散歩へ行く日も」
「それは、期待していいということかな」
「ええ。私も、あなたに会いたいの」
彼の指が動き、私の手を握り返してくれる。嬉しいのに、少し怖かった。また誰かと結婚する日のことを考えれば、あの午後を思い出すかもしれない。それでも今、手を離したくない相手が、目の前にいる。
「ただ、しばらくは、衣装の予定を立てたくないの」
「わかった。では、まず次の散歩の予定を決めよう」
私は笑って頷いた。次の日曜日は、市場の先まで行くことになった。
春を迎える頃、私は伯母様の手を借りて、箪笥の上から衣装の箱を下ろした。薄布を開くと、白い薔薇があの日のまま現れる。すぐには触れなかったけれど、蓋を閉めたいとも思わなかった。花びらの重なりを目で追うと、難しかった場所ほどよく覚えている。ここは三度ほどき、こちらは伯母様に教わった縫い方を試した。
半年のあいだに、私はずいぶん上達していたのだ。
「どうする?」
伯母様に聞かれ、私は最後の一輪を指で撫でる。
「仕上げたいわ」
誰と結婚するにせよ、二度とこの衣装は着られないと思ったこともある。けれど、綺麗に縫えたと喜んだ夜まで、全部嫌いになれたわけではなかった。鏡の前で当ててみると、自分で選んだ襟の形も、柔らかく落ちる裾も、やっぱり好きだと思う。
私は胸元へ手を当てた。ここには、まだ刺繍を入れていない余白がある。
「それから、青い花を足そうと思うの」
「あなたによく似合うでしょうね」
その午後、私は新しい図案を描いた。胸元に、小さな矢車菊を三輪。裾の薔薇を全部ほどいてやり直す必要はない。あの花も、私が縫ったものだから。
ユアンから正式に結婚を申し込まれたのは、それから二か月後だった。私は迷わず頷いた。衣装を見せると、彼は胸元の青に目を留め、触れてもいいかと尋ねた。私が頷くと、花びらの端を指先でそっとなぞる。
「これを着てくれるのか」
「ええ。私が、着たいの」
彼は嬉しそうに笑い、私もつられて笑った。以前の衣装だと説明する必要はなかった。彼は知っていて、そのうえで私が選んだものを喜んでくれる。
結婚式の朝、伯母様が背中の釦を留めてくださった。鏡の中で、青い矢車菊が私の胸元に咲いている。裾の薔薇は最後の一輪まで揃い、歩くたびに絹と一緒に揺れた。
扉の前で待つユアンの姿が見えて、私は少しだけ足を速める。彼が差し出した手に指を重ねると、いつもの散歩のときより強く握られた。
「綺麗だ、ミレーヌ」
何度も練習した返事は、もういらなかった。私は彼の顔を見上げて、今、いちばん伝えたいことを口にする。
「ありがとう。今日を、ずっと楽しみにしていたの」




