あの山小屋
――おれは……行きたい……いや、帰りたいんだ。なぜかわからないが、あの場所に……。
山を登る一人の男。その顔には焦燥にも似た険しさが浮かび、瞳にはぎらつく光が宿っている。まばたきの回数は極端に少なく、まるで何かに取り憑かれているようだった。
足取りに迷いはなく、ただ一直線に進む。しかし、彼が目指しているのは山頂ではない。ただ一つの、ある場所だった。
彼はひたすらに歩き続けた。空はじわじわと暮色に染まり、山の稜線が沈み始めた。空気は刺すように冷え込んでいき、息を吐けば白く曇り、耳の奥まで冷気が刺さった。
だが、彼は一度も振り返らなかった。荒れる風にも足を取られず、ただ前へと進んだ。
やがて、夜が完全に山を呑み込んだ頃、頬にぽつりと冷たい雫が落ちた。とうとう雨が降り出したのだ。
彼は無言でザックを下ろし、ヘッドライトを取り出してスイッチを入れた。光は頼りなく、闇をほんのわずか押し返すだけだった。
いつしか、自分が登っているのか下っているのかさえ曖昧になり、平衡感覚が狂っていく。
だが彼はふっと、笑った。
――いいぞ。あのときと同じだ。
胸の奥で、探し物に近づいているという確信が静かに灯った。根拠はない。だがそれは、単なる錯覚ではなかった。
「あった……あったぞ……!」
彼は顔を手の甲で乱暴に拭い、鼻をすすりながら駆け出した。滑りそうになる足を必死に踏みとどめ、前へ。そして、ドアの前にたどり着くと、凍えた指で震えながらドアノブを握った。
そう、彼が探していたのは、この古びた山小屋だった。
中に入ると、湿った木の匂いが鼻をついた。
広さはそこそこ。木の床は踏み込むたびにギシリと軋み、頭を覗かせた錆びた釘が、光から顔を背けるように後ろめたげに影を落とす。
壁には隙間がいくつもあり、そこから冷気と外の音が忍び込んでくる。窓はひとつ。外の景色をまったく映さず、土のような汚れに覆われている。割れていないのがむしろ意外なくらいだった。
家具も道具もなく、部屋はひとつきり。外にトイレがあるかもしれないが、使おうとしたことがないから知らない。もしかすると、ただの廃屋なのかもしれない。
外からよく見れば、その崩れ具合がはっきりとわかるだろう。だが、今もあのときも気にしていなかった。
そう、あのとき。彼はかつてこの山で遭難し、そしてこの山小屋に命を救われたのだ。
針のような雨が降っていた。闇は胃袋の中に閉じ込められたかのように希望を閉ざし、風は皮膚を裂くほどに冷たかった。足はかじかみ、感覚がなくなりかけていた。
そんな中で、偶然この小屋を見つけた。
ドアを開け、中に入ると安堵と同時に力が抜け、そのまま意識を手放した。
翌朝、目を覚ますと外は晴れ渡り、下山することができた。山麓で力尽き、通りかかった登山客に発見され、救急搬送された。青ざめた顔で病院に駆けつけた妻と娘は、彼をこっぴどく叱り、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
短い入院生活を経て、やがて元の生活に復帰した。何の問題もなかった。平穏で、静かな日々が続いた。
――なのに、なぜおれは。
『どうして? どうして行くの!』
『パパ!』
――わからない。だが、どうしようもなくこの山小屋に来たくて仕方がなかったのだ……!
彼は影際にそっと腰を下ろし、背を預けた。ライトの光の中、舞い上がる埃の粒子をぼんやりと眺め、深く息を吐く。白い吐息は光の中で小さく躍り、すぐに消えた。
「落ち着く……だが、なんでなんだろう……」
「あんたもかい?」
不意に声がして、彼はびくっと肩を跳ねさせ、頭を壁にぶつけた。「いって……」と呻くと、闇の中からくすくすと笑う声が返ってきた。
彼が顔を向けると、相手は片手を顔の前にかざし、眩しそうに目を細めながらその手を振り、ニヤッと笑った。
老人だった。
「あっ、すみません……」
彼は慌ててヘッドライトを外し、床に置いた。光がかすかに老人の足元を照らす。
「いや、こちらこそ。驚かせてしまったようで、すまなかったね」
「いえ……でも、まさか他に人がいるなんて思いませんでした」
老人も同じように壁に背を預けていた。暗闇に溶け込んでいて、見えなかったのだろう。
「あの……“あんたも”って?」
彼が訊ねると、老人の口元がにやりと歪み、ネチャリと湿った音を立てた。
「あんたも、この小屋に来たくてたまらなかったんだろう?」
「え、ええ、そうです……じゃあ、あなたも……」
「そう。私たちも同じさ」
「そうなんですか……私“たち”?」
老人の手が、ゆっくりと光の中に浮かび上がり、壁際を指差した。
彼がライトを引きずるようにして向けると、その光の中に人影が浮かび上がった。複数の人間が、同じように壁に背を預けて座っている。一番奥の一人を除き、皆が穏やかな笑みを浮かべて、こちらに手や足を軽く振った。
「みんなそうさ。帰りたくてねえ。何を置いてでも……」
「そうなんですね……僕もです。……でも、なぜなんでしょう。なんていうか、ギャンブル……はほとんどしたことありませんけど、たぶん、あれに夢中になっているときの感じに似ていて……。四六時中この山小屋のことが頭から離れなくて……。誰に話してもわかってもらえそうになくて。もう、来るしかないと思ったんです……」
話し始めると堰を切ったように言葉があふれた。胸の奥に溜め込んでいたものが、吐き出されていく。暗闇の中、彼らの顔ははっきり見えなかったが、頷いているような気配が伝わってきた。時折「ああ……」や「ははは」と同意の声が、低く静かに響いた。
「わかる。わかるよ。みんなそうさ……なあ……」
「ああ」
「うん」
「ふふふ……」
彼は安堵の息を漏らした。
久しぶりだ。こんなにも心が落ち着いたのは……。そうだ、あの日からずっと焦燥の火種が胸の奥で燻り続けていた。だが今は違う。ただ同意をもらえたからではない。この山小屋そのものが、不思議と心を静めてくれるのだ。まるで空気が違う。呼吸のひとつすら妙に安らいだ。
「未練ってやつがあってねえ……」
「……え?」
「死ぬには死にきれなくて、それでここへ来ちまうんだ」
「……あ、ああ、そうですね。あのとき、この山小屋を見つけてなかったらと思うと……」
「ふふふ」
「ははは」
短い笑い声がいくつも重なり、すぐに静まった、静寂が外の雨音を際立たせた。ざ、ざ、ざ、と一定のリズムで壁を叩く。こちらへ迫る足音のように。その音が冷えた空気に質量を与えた。
「あんた、家族は?」
暗闇の中から、低く湿った声が投げかけられた。
「ええ、妻と娘がいます」
「そりゃいいな」
「はい。でも……家に置いてきてしまいました。ほんと、どうしてなんでしょうね。前に遭難したときは、何が何でも二人に会いたいと願っていたのに」
「それが登山ってやつさ……なんてな」
「ははは」
「ふふふ」
「ははは……本当に、なんでだろう……」
「うるせえな」
部屋の奥から別の声が響いた。苛立ちが滲んだ濁った声だった。
「静かにしてくれよ」
「あ、すみません。お休み中でしたか……」
「なあ、あんた。ここを出て行ったらどうだ?」
舌打ちのあと、その男は突き放すように続けた。
「え、いや、でも……」
「はっきり言って目障りなんだよ。死にたいのか?」
「えっ」
「まあまあ、同じ境遇なんだから仲良くしようじゃないか」
老人がやわらかく、宥めるように言った。
「すみません……」
彼は小さく頭を下げて謝った。
「いいんだよ。君も死にたかったんだろう?」
「え……」
「みんなそうさ。死にたくて、この山に来たんだ。でもね、なかなか割り切れなくてねえ……」
「ははは」
「ふふふ」
「いや、え? あの、意味がよく……」
「いらいらするな、そいつ……」
ざり、と布が擦れる音。続いて、みしりと床板が鳴った。彼が反射的にライトを向けると、その先で何かが一瞬、光を弾いた。
――ナイフだ。
「死にたくねえなら、ここから消えろよ」
「いや、あの、おれは――」
足音が近づき、床が軋む音がした。何箇所からも。暗闇が膨らむようだった。
「死のう」
「このまま、ここで死のう」
「ここにいなよ……」
ぬめるような声が幾重にも耳にまとわりついた。背中にじっとりと汗が滲み、冷えた空気が肺に重くのしかかった。
――おれは……家族に会いたい。
その想いがよぎった瞬間、体が勝手に跳ねた。彼は弾かれたように立ち上がり、ドアへと駆け出した。
背後で誰かが叫び、引き止める声が迫る。だが彼は振り返らず、雨風に叩かれながら闇の中をただ必死に走った。
『パパ、行かないで……! もう会えなくなっちゃう!』
『あなた、戻ってきて!』
家族の声が頭の奥で響いた。彼は喉が裂けるほど叫んだ。会いたい、会いたい――。
口に入った雨を吐き出しながら何度も叫び、闇雲に走り続けた。
そして――前方に一筋の光を見つけた。
――あっ。
その瞬間、足を取られた。視界が反転し、全身が冷たい衝撃に包まれた。
◇ ◇ ◇
「山小屋で発見した男性一名。もう間もなく救急車に乗せます」
「救急車、到着しました」
――ここは……。
意識を取り戻した彼は、眩しい光に思わずまたまぶたを閉じた。頬に風が当たり、耳の下で靴音が響く。枝を踏み折る乾いた音と、不規則な揺れ。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこには青空が広がっていた。
「あ、男性、意識が戻りました」
「あちら、通報者の方です」
――そうか、おれは……遭難して……。
「どうも、ご家族の方ですか?」
「いえ、会社の後輩です」
――後輩? ああ、たぶん、あいつだろう。でも、なぜ……。
「意識は戻りました。聞こえますか? この方の通報で、あなたを捜索していたんです」
「先輩、すみません。でも、無事でよかったです……」
――そもそも、おれはなんで登山なんか……。趣味でもなかったはず……。
「ご家族への連絡は?」
「いえ……その、先輩のご家族は事故で……」
――そうだ。そうだった。おれは……死ぬために来たんだ。
「救急車に乗せます。三、二、一」
「た、頼む……帰してくれ……あの山小屋に、今すぐ……じゃないと、もう……家族が……頼む、頼む……!」
救急車のドアが閉まった。その瞬間、山の空気が途絶えた。
耳に残っていた家族の声も、気配も、すべてが糸を切られたように消え失せた。




