第一話 穏やかな日常
終末戦争によって環境が破壊され、数百年の時を経た今、人類は荒野に点在するコロニーで新たな歴史を刻み始めていた。
そんなコロニーの一つ、第16コロニーは、立法をつかさどるエイドス、司法をつかさどるノエマ、行政をつかさどるアレクシオンの、それぞれの人工頭脳によって管理、運営され、人々は穏やかに過ごしていた。
そして...。
第16コロニーの司法省の一室...。
今日もまた、朝の挨拶ともいえる、不毛な儀式が進行していた...。
日々の、この繰り返しにうんざりしながらも、当事者である二人は立場上、この儀式を執り行わざるを得なかった...。
「Human1分署長兼1課長ミナト・カンジ。司法人工頭脳ノエマの命により、報告に上がりました!」
元軍人らしいがっちりとした体格のミナト・カンジは、一分の隙もない直立不動の姿勢で、ノエマのホログラム投影に敬礼した。
かつて、コロニーに組織されていた軍隊は、戦争どころか小競り合いすらなくなった世界で 解体され その任は司法直轄の1〜20のアンドロイド分署に移譲されていた。軍の解体と共に職を失ったミナトは、かつての軍での功績により、司法直轄のHuman1分署の分署長という職に就いていた。
Human1分署は、立法人工頭脳エイドスによって定められた法により、人間が司法に関与する目的で設立された組織だったが、この法を越権行為と考えるノエマによって、Human1分署は、分署内に1課しか存在しない、体裁だけの組織と化していた。
しかし、ノエマの涙ぐましい努力にもかかわらず、Human1分署第1課は、第16コロニーで事件が起こる度に何かしらの問題を起こし、そして今日もまた、ミナトからその報告を受ける羽目になっていた。
ーー 「それで?」ノエマは人工頭脳らしからぬ表情で、こめかみをピクピクと痙攣させながら、ミナトを冷たく睨みつけた。 「今朝の大通りで起こった大惨事について、聞かせてもらえるでしょうね!」
ミナトは喉の奥で言葉を詰まらせ、「そ、それはですな…」と口ごもりながら、事件の報告を始めた。
ーー 早朝のコロニーの大通りに悲鳴が響き渡る。
「うわぁぁぁ!」
ナギ・セイのネームを着けたポリスジャケットの青年が、悲鳴を上げながら大通りを全力で駆けていた。彼の背後には、炎上し黒煙を上げる無人のドローンが、火の粉を撒き散らしながら一直線に滑空してくる。操縦者の姿はすでになく、ドローンは今まさに、大通りのど真ん中に墜落しようとしていた。
その背後で、ルリ・アマネのネームの小柄な女性が、左手にアサルトライフルを抱え、静かに祈りを捧げていた。
「神よ。迷える子羊たちに道を照らしたまえ。そして、悪しき者にはその報いをお与えくださいませ。アーメン。」
ルリは静かに頭を垂れ、右手で胸に十字を切ると、祈りを終え、アサルトライフルを構え、ドローンに狙いを定めた。
「おい!よせ!こんなとこでそんなもの使うんじゃねぇ!」
ルリの声に振り返ったナギは、彼女に叫びながら、前方に飛び込むように身を伏せた。
その刹那、「神の御心のままに!」と叫びながら、ルリが、ドローンに向けてアサルトライフルを乱射する。彼女の穏やかだった表情は消え失せ、瞳には恍惚とした光が宿っていた。
ルリの放った銃弾は、ドローンの両翼を砕き、その破片がガラスの建物を直撃して粉々に砕け散る。翼を失ったドローンは、炎上しながら急加速し、第16コロニーの建設記念塔に激突。轟音と共に大爆発を起こし、辺りに破片と瓦礫をまき散らした。
ナギはノロノロと立ち上がり、辺りの惨状を呆然と見回す。そして、立ち上る黒煙を背に、未だ恍惚の表情を浮かべ天を仰ぐルリのもとへ、ゆっくりと歩み寄った。
「おい…。ルリ。この状況…。いったいどうすりゃいいんだ…?」
震える声で静かに呟いた彼の隣に、見るからにロボットという姿のアンドロイドD-58が、他人事のように泰然とした態度で立っていた。
「まあ、まあ。しでかしてしまったことは仕方ないじゃありませんか。どうです?向こうで私の用意したドーナツとコーヒーでブレイクしませんか?きっと落ち着きますよ。」
「うるせぇ!でこっぱちは黙ってろ!」
「ああ。もお…」
ナギは、未だ恍惚の表情を浮かべ呆然自失のルリの前に膝をつき、手で顔を覆いながら、途方に暮れていた。遠くで、消防、救急、そして警察のサイレンがけたたましく鳴り響いていた。
ーー 「で?」ノエマは堪えきれないといった様子で、こめかみをピクピクと痙攣させながらミナトを睨みつけた。彼女は最後の冷静さをかき集め、静かに告げた。
「貴方の報告はいつも要領を得ませんね!そもそも、いったいどうすればそういう状況になるんですか?」
「そ、それはですな…」
ーー 夜明け間近のコロニー交易所。その屋上に、黒装束をまとった人影が、人目を忍ぶように静かに動き回っていた。
「な。情報通りだろ?」
トオル・カザマのネームを着けたポリスジャケットの壮年の男が、静かに周りの人影に呟いた。
「で、どうするんだ?このまま突入してもこの人数じゃあいつらに逃げられちまうぞ?」
「アンドロイド3分署に応援を頼んだから到着待ちってとこね。それにしても、遅いわね。」
ミミ・ハラのネームの妙齢の女性が、苛立ちを隠せない様子で答える。
「そろそろひと暴れさせてほしいぜ。」
ゲン・サカイのネームの筋肉質の男が、指をゴキゴキと鳴らした。
やがて、日が昇り始めた街の静寂を破り、薄闇の中から有人のドローンが姿を現す。
「やばいな。」
ナギは静かに呟くと、手にしたハンドガンに素早く実弾を装填し、ヘッドセットマイクに呟く。 「こちら、H1・1課のナギ・セイ、実弾の使用許可を申請する。」
ヘッドホンから即座に冷たい声が返ってきた。「上長の許可のない実弾使用は許可できない。繰り返す、実弾使用の許可はできない。」
「よし。言質は取った。」
そう呟いたナギを、その場にいた全員が振り向く。
「ナギ!いま、だめっていわれましたよ!?」
慌てた口調でルリがナギをたしなめる。
「あー。あー。聞こえない。聞こえない!」
ナギは立ち上がながら言い放ち「このまま逃がすわけにもいかねぇだろ。」
ナギは押し殺した声で静かに、そう呟くと、ハンドガンでドローンのエンジンに狙いを定め、全弾を撃ち込んだ。
コンマ数秒の間を置いて、ドローンのエンジンから煙が上がり、火が噴き出し始めた。慌てた操縦者がコントロールを失い始めたドローンから飛び降り、交易所の屋上の人影と合流すると交易所の中へと姿を消した。
「俺たちはあっちを追いかける。」
トオルが、ミミとゲンに手招きをして、交易所に向かいながら、ナギに「あれは、お前が何とかしろ!」と、上空でフラフラと旋回し始めたドローンを指差した。
「いや、何とかしろって、何ともならないだろ!」
ナギはハンドガンに新たな弾丸を装填すると、旋回するドローンの方向舵を器用に打ち抜き、大通りを直進する方向へと滑空させた。
「やっべ。どうする…。どうする!」
ナギが、ドローンを先導するように、大通りに向かって走り始めた。その後ろを、「ふふっ…。」と笑みを浮かべながら、パトカーからアサルトライフルを持ちだしたルリが追いかける。
ーー 「はぁ…。」
ノエマは顔をうつむけて深いため息をついた。「今回の惨事で、行政をつかさどるアレクシオンから苦情が寄せられ、わたくしの危機管理能力が疑われているのですよ?」
「で、ですが、司法人工頭脳ノエマ。今回の惨事で死傷者はなく、交易所からのレアメタル強奪は未然に防ぎました。」 ミナトは静かに反論する。 「街への被害額と強奪されたはずのレアメタルの価値を相殺して考えれば、最良とは言えないまでも、そこそこの成果のある働きとは言えないでしょうか?」
「わかりました。納得はできませんが…。」
ノエマはうつむき、指でこめかみを揉むように抑えながら言った。 「そこそこではだめなのです。常に最良を目指してください。」 「そして、今回の件。実弾使用について命令違反があったと聞き及んでいます。ミナト・カンジ。貴方には、違反者に対しての厳正な処罰を期待しています。」
「今回の命令違反については、信憑性の低い情報との判断でアンドロイド3分署の応援が遅れたことにも原因があります。その点を考慮した上での処分となることをご理解ください。」
「解りました。下がりなさい。」
「はっ。失礼します。」
ミナトは姿勢を正し、ノエマのホロ映像に敬礼すると、足早にノエマのもとを後にした。
ーー 「ばっかもん!まったく、おまえらはいつもいつも問題ばかり起こしよって!」
Human1分署1課に、ミナト・カンジの怒鳴り声が響き渡る。机を挟んで向かいに立つナギ・セイとルリ・アマネは、その怒声をどこ吹く風と受け流していた。
「でもさ、課長」「分署長と呼べ!」
「はい。はい。分署長」「はい。は、一回でいい!」
頭の後ろに両手を組み、ミナトの剣幕を気にすることなく、ナギは飄々とした口調で口答えする。
「はい、分署長。でも、あの時ドローンを見逃してたらレアメタルを強奪されてたじゃないですか。アンドロイド3分署の到着を待って、見逃した方がよかったってことですか?」
「う……それは……。」
ミナトは言葉に詰まり、口ごもる。ナギの言葉に反論できない自分に苛立ち、額に青筋を立てた。
「あの場合は、現場判断で最良だったと思うんですよ。」
「そ。それはそうだったとしても、実弾使用許可での命令違反は見逃せない。れっきとした服務規定違反だ。」
「わたしは、あのとき、ナギに実弾使っちゃダメって言いましたよ。」胸の前で手を組み合わせ、頭をたれたルリが静かに口を挟むと、ミナトは「使用許可も取らずに街中でアサルトライフルを乱射した、お前が何を言っとるか!」と口を荒げてルリを怒鳴りつけた。
「落ち着いてください。分署長。わたしはあの時、神様の許しを得ていたのです。神様の許しは絶対なのです。」
ルリの言葉に、ミナトは怒りを通り越して呆れた表情になった。 「お前が許可を取るのは神じゃないと何度言えばわかるんだ。この尼!」
「ですが、分署長。もしわたしが神様の導きに従ってドローンを撃ち落としていなければ、あの先の第16コロニー・スクエア・ガーデンに甚大な被害が及んでいましたよ。」
「う……それは……。」
再び言葉に詰まるミナトの様子を、二人の背後で見ていたトオル、ミミ、ゲンは、口元を押さえながら肩を震わせ、笑いをこらえていた。
その横から、D-58は三人の前にひょっこりと顔を出し、お盆に乗せたドーナツとコーヒーを差し出す。
「まあ、まあ。しでかしてしまったことは仕方ないじゃありませんか。どうです?向こうでドーナツとコーヒーでブレイクでもしませんか?きっと落ち着きますよ。」
その能天気な一言に、我慢の限界を迎えたトオル、ミミ、ゲンの三人は、机を叩きながら腹を抱えて爆笑し始めた。
「でこっぱちは黙ってろ!」
ミナトは怒りに任せて叫び、両手で頭をかきむしった。
「とにかくだ!今回の二人の服務規程違反は看過できない!別命があるまで謹慎処分とする!」
「え~。そんなの横暴だよ。」
ナギとルリは声を揃えて抗議するが、ミナトは聞く耳を持たない。 「うるさい!謹慎だ!さっさと家に帰れ!」
「は~い。」これ以上抵抗しても無駄だと悟った2人は、気の抜けた返事を残して、とぼとぼと1課を後にした。
ナギとルリが部屋を立ち去ると、ミナトは落ち着いた表情になりトオルに問いかけた。 「黒幕は…やはり、奴らか?」 「ああ。間違いない。完全に裏をかかれて誰一人逮捕することはできなかったがな...。間違いなく《黒曜の環》の仕業だ。」
ーー 重厚な黒曜石のテーブルが据えられた一室。煌びやかなシャンデリアが放つ光の下、ヴァルター・クロイツは豪奢な革張りの椅子にゆったりと腰かけ、落ち着いた口調で正面に立つグラウ・シュタインに問いかけた。その手には、白磁のカップから立ち昇る湯気が揺れていた。
「さて。グラウ。今回の作劇について、君の視点からの報告を頼めるか。」
「誠に申し訳ありませんでした、ヴァルター様。此度の失態、面目次第もございません…」
任務を終えたばかりのグラウは、肩を落とし、疲労に滲む声で謝罪した。その言葉をヴァルターは、優雅に右手を上げて静止させる。
「作劇の失敗が、失態であったか、それとも必然であったかは、私が判断することだ。芸術家が失敗を嘆くのは野暮というものだよ。君にはただ、その舞台の顛末を、ありのままに報告することを望むだけだ。」
グラウは顔を上げ、ヴァルターの冷徹な眼差しに一瞬怯むが、すぐに姿勢を正した。 「はっ。仰せのままに。」
ーー 日の出を合図にしたかのように、静かにローターの音を響かせながら、荷物運搬用の有人ドローンがコロニー交易所の屋上上空に姿を現した。すべては順調に進んでいた。屋上では、グラウが部下たちと共に、強奪したレアメタルを屋上へと運び終えたところだった。
グラウがドローンをレアメタルの集積場所に誘導していると、突然、夜明けの街に銃声が響き渡る。直後にドローンのエンジンから煙と炎が噴き出し、機体はコントロールを失って旋回し始めた。
グラウはドローンを操縦していた部下に、ヘッドセットで緊急離脱を指示すると、すぐにその場を放棄し、階下へと走り出した。
背後ではコントロールを失ったドローンが、フラフラと彷徨うように旋回を続けていた。
グラウが、部下たちにヘッドセットを通じて、ミッションBで離脱すると告げていると、ヴァルターの腹心、エリス・ノワールが通話に割り込んできた。「まちなさい。離脱はミッションDで行いなさい。」エリスの命令に、グラウは「はっ。エリス様。仰せのままに従います。」と告げ、部下たちに「離脱はミッションD。ミッションDで離脱する」と告げた。
グラウと部下たちは、ワンシーの上着とマスクを脱ぎ捨てると、一階のフロア奥に発煙筒を投げ込み、煙が充満したフロアをハンカチで口を覆いながら駆け抜けた。交易所のフロア入口には、ポリスジャケットを身につけたトオルが駆け付けていたが、「ガスだ、気を付けろ!」と叫びながら、駆け抜けるグラウとその部下たちに、外へと押し戻された。
そこにけたたましいサイレンを鳴らし、救急車が到着した。中から現れたアンドロイドの救命隊員は、「なにがあった。ここで、何があったか話せ」と警備員たちに詰め寄るトオルに、「まずは、彼らの検査が先です。取り調べは、第16コロニー中央病院でお願いします」と告げ、救急車に警備員たちを乗せて、その場から連れ出していった。
トオルはヘッドセットで、交易所に通じる地下道で待ち伏せをしているミミ、ゲンに連絡を取った。「そっちはどうだ?奴らそっち向かってないか?」「いや。人影どころか。足音一つしないぜ。」ゲンの返事に、トオルははっと気が付き、早すぎる救急車の到着に、「やられた!」と、頭からヘッドセットをむしり取ると固く握りしめた。
医療機器の無機質な光が静かに揺れる救急車の内、グラウは隣に座るエリス・ノワールに深々と頭を下げた。「見事な手際でした。エリス様。ありがとうございました。」アンドロイドのような無機質な風貌を持つエリスは、グラウの謝意に、表情一つ変えずに答える。「貴方たちはこのままアジトへ。急ぎヴァルター様への報告を」その冷たく静かで機械的な口調に、グラウはわずかに身をこわばらせた。ヴァルターの腹心である彼女の言葉に、グラウは言葉を失い、ただ静かに頷くしかなかった。
やがて、救急車は裏路地に入り、急停車した。救急車を運転していたのは、ヴァルターの腹心カイ・ヴァレンだった。彼はにやりと笑い、傍らのレバーを引く。けたたましい音をたてながら、救急車の外装がバラバラに落ちる。その中から現れたのは、どこにでもあるような地味な運搬用バンだった。カイは再びアクセルを踏み込み、何事もなかったかのように表通りへと走り去って行った。
ーー 1課を後にしたナギは「ん~」大ときく伸びをして、ルリを連れ立って柔らかな午前の日差しの街を歩いていた。
「ナギ。このあとどうするの?」
「特にすることもないし。部屋に帰ってふて寝するかな」
「え~。せっかくの長期休暇なのにもったいなくない?」
「いや。ルリ。休暇じゃなくて謹慎だぞ。き・ん・し・ん。お前は何でそう能天気なんだ...」
「どっちだっていいじゃない...まとまった休みなんて、そうそうないんだから...」「それよりさ。ナギ。少しは記憶戻ったの?」
「いや。ぜんぜんだな...ここに来る前の事は全然思い出せない」
「いまどきさ。コロニー出て荒野さまよってるとか、すごい悪党だったんじゃ…?」「身体能力とか射撃の腕とか尋常じゃないじゃない。」
「ん~。それはないな。たぶんだけど。記憶なくても悪党じゃないのはなんとなくわかる。」「それより、お前こそ、いつまで神様、神様って言い続けてるの?お前のいた教会の宗教信仰は異端認定で解散させられたんじゃないの?」
「あ~ね。それね。わたしは、別に宗教信じてたわけじゃなくて、神様信じてるから、教会なくなっても関係ないの。神様はいつもわたしの傍らにいらっしゃるのよ。」
「ん~。そういうもんか?」
「ええ。そういうものよ。」
ナギとルリが、とりとめのない会話を続けながら、街の広場へと差し掛かると、広場に設置された大きなスクリーンに、ニュースキャスターのホログラムが映し出され、早朝に起こった交易所でのレアメタル強奪未遂事件のニュースが流れていた。
「…早朝にコロニー交易所で発生したドローン墜落事故は、当局の迅速な対応により、被害は最小限に抑えられました。現在、原因究明のため、アンドロイド第3分署が捜査にあたり…」
ナギは呆れたように口を開いた。「よりによって、アンドロイド3分署かよ。俺たちの手柄は全部そっちに持って行かれそうだな。」
ルリは静かにスクリーンを見つめていたが、突然、彼女の足が止まった。 「ナギ、見て。あれ」 彼女が指差す先には、ニュース映像に一瞬だけ映り込んだ、黒い服を着た男の横顔があった。
その男がまさに、広場を挟んで、ナギとリルの姿をうかがっていた。
「あっちにいる。あの人。あの人と同じじゃない?」
ルリが指し示す方向にナギが目を向けると男は身をひるがえし広場から足早に立ち去って行った。
「俺は奴を追いかける。ルリは1課に連絡を頼む」ナギはルリに声を掛けると男を追いかけて人込みの中に消えていった。
「ああ。もう。勝手なんだから」ルリは小さく地団太を踏むと、上着からヘッドセットを取り出し、1課へ連絡を入れた。
「課長!」「分署長だ!」ヘッドセットから即座に返事が返る。
「そういうのどうでもいいですから!」「よくない!」
「ああ。もう。今朝の事件の犯人を街の広場で見かけて、いま、ナギが後を追ってます。」「わかった。トオルをそっちに向かわせる。5分待て。ルリはその場を動くな。いいな。余計なことはするな。」
ーー ヴァルターは、黒曜石のテーブルに肘をつき両手を組んで、グラウの報告を静かに聞いていた。
「ふむ。なるほどね。だが、レアメタルの事は気にする必要はない。あれは元々私の会社が購入する予定のものだ、強奪できなかったからと言って、結果として特に問題はない。」
「それよりもだ、グラウこの映像を見て何か思うことはないか?」ヴァルターが指を鳴らすと傍らにホログラム映像が浮かび上がり、交易所の傍で待機しているHuman1分署の様子が映し出された。
グラウは映像を見て顔をこわばらせ「待ち伏せされていた?事前に情報が漏れていたと?」
ヴァルターは、グラウに満足そうな表情を向けると「察しが良くて助かる。君の想像通り、作劇のシナリオは事前に彼らに漏出していた。まったく。興ざめだとは思わないか?」
「まったくもって、その通りです。ヴァルター様」グラウは恐縮してヴァルターの問いに答える。
「これは、今回の公演の2番目の目玉だ。君には内通者の特定を頼みたい。特定までだ。あとはそのまま監視を続けて泳がせておけばいい。」
「それはいったい?」グラウの問いかけにヴァルターが静かに告げる。
「その内通者と黒幕にもわたしの作劇の中で演じてもらいたい役割があるからさ」
「そしてだ。今回の公演の1番の目玉。彼だ!」ヴァルターが指を鳴らすと、ハンドガンを構えたナギの姿がズームアップされる。
そして、ナギがドローンのエンジンを打ち抜き、コントロールを失って旋回するドローンの尾翼を打ち抜いて大通りにドローンを誘導するさまを映し出す。
「どうだ?グラウ。君にこんな芸当が出来るか?」と尋ねるヴァルターに「正直にいって、出来るかどうかは運次第で、たぶん失敗するでしょう。」グラウの言葉に「そんなに自分の能力を卑下しなくても良いよ。追い詰められれば、運は味方してくれるものだ」とヴァルターが静かに告げる。
「実は以前から彼とは接触したいと考えていたんだ。是非ともわたしの作劇のキャストとして迎えたい。彼との接触を果たしたいのだ、できるだけ早くに、頼めるねグラウ。」
グラウは、ヴァルターが全ての結末を予想していた上で、あえて公演を催し。そして、自身が彼の舞台の上で、踊らされていた事実を理解し、背筋に寒いものを感じていた。
「はい。仰せのままに、ヴァルター様。迅速に対処いたします。」
ーー 「くそっ。どこだ。」ハアハアと息を荒げながら、ナギは男の影を追って裏路地を駆け抜けていた。濡れた舗装が靴音を吸い込み、ナギが角を曲がった瞬間、突然視界が閉じ袋小路に行き当った。
「誘い込まれたか…」壁際に立ち止まり、ナギは周囲を見渡す。逃げたはずの男の姿はない。そして、ナギは周りの建物の上から複数の人の気配を感じ取っていた。
そのとき、袋小路の突き当りに青白い光が浮かび上がり、ホログラム装置が起動した。そこに映し出されたのは、白いスーツを纏い、窓の外を眺めながらナギに背を向けて立つ男の姿だった。
「大丈夫だ。安心してくれたまえ。君に危害を加えるつもりはない。ナギ・セイ君」ナギは一歩後ずさり、男を睨みつけ、言葉を吐きだす「お前は誰だ!」「背中を向けて話すことはあらかじめ許しておいて欲しい。それに、まだ君に名を名乗る気はないが、わたしの事は、仮にXとでも呼んでくれ。」
「X。交易所の事件の首謀者はお前か?」「ああ。あの公演の主催者というなら、わたしで間違いない。君たちにしてやられたがね。そんな、ささいなことよりも、今日は君に話があってこうして話す機会を設けさせてもらった。」
「何の用だ?」「率直に言うと、わたしの組織に君を迎え入れたいというのがわたしの願いだ。」
ナギはいぶかしげな表情を浮かべ、即座に「断る。悪党の手下になる気はない。」と告げた。
男はナギの答えに動じることもなく「ああ。わたしは、今この時点で君の敵であることは間違いない。表向きは、そうだ。だが、君とわたしに共通する“敵”がいるとしたらどうだろう。仲間とはいかないまでも協力は望めるのではないかな?」
「共通の敵…?何の話をしている。」ナギが眉をひそめる。「まあいずれ解るよ。今のところ、君にとっては何のメリットもない話だからね。だが、わたしが、君の失った記憶を解くカギを私が持っているとしたらどうかね?君の卓越した能力と、失われている記憶、わたしがその秘密のカギを持っているとしたら。」
ホログラムの光が、ナギの顔に影を落とす。「まあ。今すぐに答えが欲しいわけじゃない。きょうは、ほんのご挨拶だ。いずれまた日を改めて話の場を設けたい。それまでに、よく考えていておいてくれ。」「いずれ君にもわかるだろう。君が相対するものが“誰”なのか…いや、“なん”なのか。 覚悟を決める時が来る。それまで、わたしは君を見続けよう」
「ふざけるな!」ナギがホログラムに向かって突進しようとすると、ホログラム装置から煙が噴き出し始めた。ナギが慌てて飛びのくと、ホログラム装置が爆散し、辺りに白い煙が立ち込めた。
呆然と佇むナギの背後からルリの声が響く。「ナギ~。だいじょうぶ~?」
ルリとトオルが、まだ煙の残る路地に息を切らせながら駆け込んできた。ルリは心配そうにナギの様子を確認し、トオルは爆発の痕跡を見て険しい表情を浮かべる。
「おい、ナギ。何があった?」 ナギはホログラムが消えた空間をじっと見つめ、トオルの問いかけには答えず、静かに、しかし有無を言わせない口調で告げた。 「すぐに、でこっぱちを呼んで、この場所を徹底的に調べさせてくれ。」
ナギの、ただならぬ雰囲気に、トオルは一瞬たじろぎながらも、すぐに状況を察した。
「わかった。手配する。」
トオルはヘッドセットを装着し、1課に連絡を入れ始めた。
ナギが踏み込んだときに感じていた人の気配は既にこの場所から消えていた。