動画越しの執念 27
朝の九時くらいに家を出て、よしふみといつも遊んでいたあの空地へ向かうと、既に車に撥ねられていたよしふみが道路の脇で横たわっている姿を見つけたときの記憶が、脳の奥に残っている。
幼過ぎたわたしにできることなどあるはずもなく、よしふみが死んだという事実にただ泣きじゃくるだけで、その後の様々なことは全て大人たちが対処してくれた。
それから暫くは、実はまだよしふみは生きていてあの空地へ行けばすぐにでも会えるんじゃないかと、虚しい期待を抱きながら足を運び、その度に本当にもうこの世にいないのだと現実を突きつけられ、それがあまりにも悲しくいつの日からかあの空地へ近づくことは少なくなり、やがてわたしも大きくなるにつれよしふみと遊んだ日々の感覚や記憶は、頭の中の奥深くへ沈み込んでしまっていた。
完全に忘れてしまっていたわけではない。
時間が経つにつれ、わたしは成長し新しい人間関係を増やしていく中で、よしふみと過ごしたあの時間は過去のものとして咀嚼され、日々過ぎていく時間の底に沈殿していただけ。
避けていたあの空地も、中学生になった頃にはまた普通に通るようになっていたし、よしふみとの思い出も“ああ、昔はここで遊んでたなぁ”くらいの気持ちでほんのりと懐かしんだりする程度のものに落ち着いていた。
大人に近づくにつれて、わたしはよしふみとの思い出を遠い過去のものとして、無意識に整理してしまっていた。
だけど、きっとそれは、生きている者にとっては当然の処理なのかもしれない。
だけど、死んでしまった者にとっては当然ではなく、生者としての時間が止まってしまった瞬間から、遠い昔の時間にずっと留まり続けているのだろう。
「水沢さん。よしふみは、わたしと再会して……と言うか、わたしに気づいてもらえたことで成仏したって言いましたけど、それは普通に良いことだったんですよね? あの閉鎖した空間から解放されて、成仏して守護霊に変化したことは、わたしが進学したり就職したりして変わっていくことと同じくらい、喜べることって意味になりますよね?」
ずっとわたしを想ってくれていたよしふみに対し、わたしはセピア色の写真のように古い記憶だけを残して忘れかけていたという申し訳なさと薄情さに苛まれ、救いを求める気持ちでそんな質問を口にした。




