プロローグ 2
迷い込んだ時点でスマホの時間も停止してしまうため、正確に滞在している時間を把握することはできていないけれど、体感的に約一時間くらいで元の空間へ戻ることができる。
ここにはまず、人や動物は一切いない。風も吹かないし、音も自分が立てる物音以外は何も耳には届かない。
まるでバーチャル空間をリアルに引きずり出してきたかのようなこの不思議な場所で、毎日一時間の暇潰しをさせられるのはなかなかに容易なものではなかった。
「全部のものが静止しているのに、呼吸は普通にできるんだよね……何なんだろ? まぁ、できなかったら死んじゃうから助かるけど」
誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、わたしはただ立っているのも疲れてしまうため、適当に歩こうかなと右足を一歩踏み出した――その瞬間。
「――ふぅん。黄泉比良坂か。面白いな」
「――っ!?」
聞き覚えのない男性の声が背後から響き、わたしは驚きで身体を強張らせるようにしながら振り返った。
わたしの立つ位置から、約五メートルほど離れた場所に、見知らぬ若い男の人が立っている。
年齢は、わたしよりも明らかに上だとわかる。恐らくは二十二、三歳くらい。
女子のわたしでもその気になって突き飛ばせば、割と簡単に押し倒せるのではないかと思えるくらい細身の体型をしていて、その上に季節外れの黒い薄手のコートを纏っている。
色白で、体躯に合わせているかのような細い目を更に細めて周囲を見回すその姿に、わたしは恐いという感情や警戒心よりも、何故か綺麗な人だなという感情が一瞬だけ早く湧き上がった。
細く白い指を顎へと当てて、男の人は何かを思案するような様子を見せていたが、やがて彷徨わせていた視線をわたしへと固定し、不思議そうに首を傾げる仕草をした。
「これはまた珍しい。こんな所に、生きた人間がいるとはね」
「……は? え?」
まるで珍獣でも見つけたような口振りで呟く男の人に、わたしは返す言葉も思い浮かばず、ただおろおろとすることしかできない。
そんなこちらの態度はさほど気にする風でもなく、男の人は足音を立ずにゆっくりとした動作で近づいてくると、一メートルほどの距離を空けて足を止め、絵画でも鑑賞するような眼差しでわたしを観察し始めた。




