第9話 “無限ネギ”
公園の公衆トイレへ駆けこんだ。
個室トイレは、和式だった。
俺がマスクを脱ぐとチユも脱いだ。
息せき切った呼吸を落ち着かせた。ふたりの吐息が個室内にやや響く。
オーバーオールのジッパーを下ろした。
チユも真似て同じように下ろすと、胸元からノースリーブの白い布地が下着のように見えた。
カビと消臭ボールがまざったような臭いに、ふたりの熱気が混ざり立ち込める。
鼻腔に、チユの匂いがかすめた。
「置いてきてよかったの?」
「リヤカー?」
「ビョーク」
「大丈夫だ。ちゃんと逃げたはずだから」
「どうしてわかるの?」
「あれでも飛び級天才児だ。俺の挑発にのって、ビョークから目を離した時点で脚家の負けだ。戻ってもビョークは大通りにはいない。こういう場合を想定して、事前に集合場所を決めてある。しばらくここでやり過ごしたら行こう」
チユがジッパーを下ろし切ると、服の内側から八リットル大瓶が一本出てきた。
「それ」
チユが悪戯っぽく笑った。
「でかしたぞ」
チユの頭をぐしゃぐしゃにした。
笑みを含みながら嫌がった。
「オーバーオールは捨てて行こう」
「マスクは?」
「マスクも。また買えばいい」
俺たちはオーバーオールを捨てた。
目線をおろすと、汗だくのチユの姿があった。
肩と背中へ流れる艶っぽい髪が、夕日色を帯びている。
健康的な細い体。
日焼けしていない透きとおった白い肌。
胸のふくらみに、汗を吸った白いノースリーブシャツが張りついている。
透けている。
デニム生地の短パンから、白い生足が伸びている。
チユと目が合った。しばらく見つめた。
思考が途切れる。
九月だが、外の気温は三八度、真夏日だ。
蒸し暑く、臭い。
トイレの壁には、擦りつけた手垢のような茶色がある。
タイルの溝はカビで黒く汚れている。
誰かの排泄物が付着して乾燥したものかもしれない。
蓋ノ騎士や治安維持衛生局の手もここには及ばないだろう。
不衛生な密室にいるはずだ。
なのに沢に漂う、なつかしい涼しさを肌に感じた。
「さっき言ってた、熱線の事故って……」
チユの薄いピンク色のくちびるが動いた。
「誤射したんだ」
「誤射?」
「それで仲間の一人が死んだ。周囲の住宅を何棟か巻き込んで、火事が起きて死者も出た」
「熱線魔が誤射したってこと?」
「ああ」
「熱線魔でも失敗するんだね」
チユが俯いた。
ヘルデを前に、熱線を吐けなかったことで落ち込んでいるのだろうか。
「倒れないことが大事なんじゃない。倒れても、そのたびに起き上がることが大事なんだ」
「うん」
「あの連中の間抜けっぷり、見たか?」
トイレに俺の笑い声が小さく響いた。
昔を思い出した。
イカルガとビョーク、ハーレーとフォソーラ。
みんなと夢を見ていたころの記憶だ。
「上手いこと当たったな」
「当たったね」
チユの手の甲に擦り傷を見つけた。
逃げるとき、荷台かどこかで擦ったのだろう。
そっと、彼女の手を取った。
「チユ」
「……ん?」
「いっしょに、どこか遠くへ行かないか」
〇
公衆トイレの入り口から頭だけ出した。
公園内と路地へ目をやった。脚家の姿はない。
耳を澄ますが風を切る音も聞こえない。
トイレの裏も見た。
「出てきていいぞ」
小声で呼びかけた。
チユがトイレの入り口から出てきた。
汗だくで、目がとろんとしている。
黒目が明後日の方角を向いている。
「すぐそこだ、なにか飲もう」
チユを背負い公園を出た。
住宅街のど真ん中に、屋台が開いていた。
「遅いですよ」
ビョークはすでに屋台の席に着いていた。
「おっちゃん、スポーツドリンクちょうだい」
屋台の中で白髪の老人が頷いた。
チユを椅子に座らせ、出てきたものを飲ませた。
「どうしたんですか」
「走り過ぎたんだ。そっちはどうだった?」
「うまく撒けました。ハルタさんがあいつの気をそらせてくれたおかげです」
「チユが心配してたぞ」
「何をですか」
「捕まったんじゃないかって」
「僕が捕まる? いやいや、侮ってもらっちゃ困りますよ、チユさん」
ビョークが人差し指を振った。
コップのスポーツドリンクを飲み切り、チユは生き返ったような顔をした。
「こう見えて、一五歳で人間愛護協会から研究室をもらった天才ですよ?」
「おじちゃん、もう一杯ちょうだい」
チユが注文する。
今度はスポーツドリンクの二リットルペットボトルが出てきた。
チユはコップに注いで飲んだ。
しばらくして店主がカウンターにうどんを三つ置いた。
「ヘルデの頭をどうするか、チユ聞いてただろ?」
「うん」
「あれはな、ここで出汁をとってもらうんだよ」
チユの顔が歪む。
「……食べるの?」
「いい出汁が出るんだ。山羊汁うどんが一番の戦利品だ」
「でも今日は仕方がないですね」
「チユがひとりでヘルデを仕留められたときにしよう」
「そうしましょう。なんでも目標を持つことが大事です」
うん、とチユは微笑んだ。
「なんや、黒馬にでも見つかったんか?」
店主が訊いた。
黒馬とは、治安維持衛生局が移動に使う馬のことである。
「蓋ノ騎士です」
「そりゃまた」
店主が奥からひょっこり首だけだし、片目だけぱっちり開いた。
「気ぃつけーよ、連中はクソ容赦ない」
「まったくです」
うどんにサービスのねぎを入れた。
「わたしも入れる」
チユもねぎをトッピングしたがった。
「ちょっと待って」
「ねえ、入れすぎじゃない? 麺が見えないよ」
麺が見えなくなるまでトッピングした。
「これがうまいんだよ。やってみ」
「でも」
「大将がいいって言ってんだ。なあ大将」
「てめぇの飯くらい好きに食いーや」
「ほら」
「じゃあ……」
チユも真似して、ネギを大量にトッピングした。
「口ん中がネギ臭くなるのが難点だけどな」
「え……」
「俺はこれを無限ネギと呼ぶ」
ネギを口いっぱいにかき込んで頬張り、俺はうどんと汁をすすった。
「かまぼこ、入れといたで」
店主が言った。
ネギと麺を上手にかきわけ、どんぶりの中を探した。
ハート型のかまぼこを見つけた。ピンク色だった。
「あ、僕の方にもある」
「わたしも」
「偶に入れてくれるんですよ。ハルタさんのにも入ってました?」
おわんの底に、ハート型のかまぼこが見えた。
「ハルタさん?」
「ん?」
「かまぼこですよ」
「……ああ、かまぼこな」
「どうしたんですか、ぼうっとして」
箸でハート型のかまぼこを摘まんだ。
「何でもない」
口に入れた。