第6話 “悪夢《ナイトメア》”
薄目が開いた。
瞬きをして、視界の端の白い靄が取れるまで指でこすった。
肉と油、卵の焼ける匂いがした。
じゅうじゅうと音がする。
「起こしちゃった?」
キッチンからイカルガが言った。
「朝ご飯できたよ」
「スクランブルエッグとベーコンは?」
「うん」
テーブルに置いた皿へ盛りつけをしている。
蛇口をひねる音、水の出る音。
フライパンを流しに置いて、イカルガは席に着いた。
「さき食べちゃうよ」
何故だか布団から出られなかった。
毛布が重かった。
そう思ったが、普通に脱ぐことができた。
上体を起こした。
キッチンにイカルガの姿がなかった。
いまそこにいたはずだ。
「イカルガ?」
洗面所の方から水の音がした。
「どうかした?」
イカルガの声だ。
安心からため息が漏れた。
「なんでもない」
イカルガがキッチンへ戻ってきた。
「もう食べたのか」
「何が?」
「何って、スクランブルエッ……」
天井からロープが垂れていた。
イカルガが椅子を移動させた。
「イカルガ?」
「ん?」
「何してるんだ」
イカルガが椅子の上に立った。
ロープの先端の輪に首を入れた。
「先、逝ってるね」
にっこり微笑んだ。
「先って……」
彼女の足が椅子を蹴った。
椅子が倒れ、がたんと音がする。
ぴんと張った足先が痙攣している。打ち上がった魚みたいに。
影がぴくぴく動いている。そのうち止まった。
「なんで助けてくれなかったの?」
白目を剥いた上目遣いの目がこっちを見ていた。
「なんで気づいてくれなかったの?」
あんぐり開いた口元から涎が垂れた。
「同じ風無しなのに……同じじゃないんだね、きっと」
「イカルガ……」
「ハルには熱線がないもの」
「俺は」
「あのとき死んどけば良かったんだよ、ハルも私も……ねぇ、そうでしょ、ハル」
ぼちょん──。
イカルガの首から下だけ落ちて来た。
かと思うと液状化して、どろどろの血肉と黒い水が跳ねた。
糞尿と精子のにおいがした。涙が出た。
ヘルデの死骸から漂うのと似ている。
ローブの輪っかに引っかかった髪の毛、その先端に吊るされた彼女の首がこっちを見ていた。
「今度は助けてね」
〇
インターホンが鳴った。
玄関扉を開けるとビョークが立っていた。
「死人でも見たような顔ですね」
「何が?」
「唸り声が外に漏れてましたよ」
ビョークを部屋へ招いた。
「チユさんは?」
「学校」
ビョークはリビングへ入ると立ち止まった。
締め切られたカーテン。
「やめたらどうです? むかしの恋人が死んだ部屋に住むの」
「コーラは?」
ビョークが首を振った。
コップに注いで俺だけ飲んだ。
「趣味が悪いですよ」
「趣味で住んでるんじゃない。丁度いいだろ」
ビョークが机の上の本を勝手に開いていた。
クリーム色の表紙だ。
「勝手に見るな」
「教典でも書いてるんですか?」
「書けるわけないだろ。ただの日記だ」
「丁度いいって、どういう意味ですか? 夢日記でも書いてるんですか?」
「あれはイメージが大事なんだろ? イカルガを忘れずに済む」
「ああ」
ビョークは納得した。
あらかじめ準備しておいたリュックを俺は背負った。
〇
「忘れないうちに渡しとく」
ビョークに小袋を渡した。
「これは?」
「イカルガの乳歯だ。彼女の両親がくれたんだ。彼女が一二歳のときのものらしい」
「忘れてると思ってましたよ。彼女の両親に合わす顔がなくて、億劫になってるんだと」
無数の墓石が山肌に張りついている。
霊園の一画にイカルガの墓はあった。
手を合わせるわけでもなく、墓石を洗い、線香を上げると俺たちはしばらく黙った。
「今日の夜中、空いてないか?」
「急ですね」
「チユ、熱線が吐けるようになったんだ」
「ほんとですか?」
「熱線魔の話をしたんだ。チユ、英雄になりたがってる」
「潜りの世界に英雄なんかいませんよ」
「ヘルデを狩りたいって」
「本気で言ってます?」
「やりたいことにマジとか嘘とかあるのか?」
「どうでしょう……」
「そう言い返された」
「……口が達者ですね」
「年上を困らせるのが好きなんだ」
「どのくらい吐けるようになったんです?」
「射程距離は短い。線も細いけど、早いうちに実戦を体験させてやりたい。本人もやりたいって言ってるし」
「失敗してほしかったですよ。僕はもう、彼女のように傷つく人を見たくない」
ビョークはイカルガの墓石を見つめた。
「チユさんは強くなるでしょう。注目もされる。イカルガさんがそうであったように。でもそれがいいことだとは思いません。憧れは憧れのまま終わらせた方がいいときもある」
「あれは事故だ」
「あの力は大きすぎるんですよ。一二歳やそこらの子どもが背負えるものじゃない。イカルガさんにも無理だった」
「チユならどうにかする」
「熱線が、チユさんのすべてなんですか?」
「蓋魔じゃ誰も助けてくれない」
「ハルタさんのすべてなんじゃないですか?」
俺はしばらく黙った。
黙ってる間にビョークは立ち去った。