第3話 “不可能なことなんてないんだよ”
「どなたですか……」
「名前なんだっけ?」
「チユ」
「らしい」
ビョークの研究室は、古い講義室だった。
「また面倒ごとですか」
ビョークがため息をついた。
講義用の長椅子に座り込んだ。
「ハルタさんが頼んだんですよ?」
ワン、と犬の鳴き声がした。
黒板脇の扉奥から、いぬぺろが走ってきた。
チユに体をすり寄せ、顔をぺろぺろなめた。尻尾を振っている。
「なんて名前?」
「いぬぺろ」
「変な名前」
「失礼な……それで、歳はおいくつですか?」
「一二歳」
いぬぺろを愛でながらチユが答えた。
「ごりごりの未成年じゃないですか」
ビョークが耳元で言ってきた。
「おまえが言うのかよ」
ビョークは一七歳だ。
「他に言うことがあるだろ?」
夜中に見えなかったものが見える。
チユの髪色は、イカルガのものと同じだった。
夕日色だ。
「どういうことです?」
「チユを保護しようと思う」
「保護?」
「一時的にだ」
「何があったんですか」
「わからん」
「ヘルデ狩りに行ってたんじゃないんですか?」
「姥捨照小学校のグラウンドだよ。追悼花壇の傍で会ったんだ」
「どうしてそんなところに?」
「多分、親があの子を殺そうとしたんだと思う
「親が?」
「それより、聞いてほしいことがあるんだ。チユ、熱線が吐けるっぽい」
ビョークの目がやや大きく開いた。
「吐けるって、それはその、あの人のようにですか?」
「精度は微妙だな」
会話に一区切りつけるように、ビョークが席を立ちあがった。
「それで……それだけの理由で連れてきたってわけですか」
「嬉しくないのか?」
「僕が嬉しがると思ったんですか? そういうところは変わりませんね。ハーレーにも言われたでしょ、衝動で動くなって」
「あいつの名前は出すな」
「出されたくなきゃ考えて行動してください。例の件はどうするつもりですか」
「計画を進めながら保護すればいい」
「めちゃくちゃだ。そんなんだからいつまで経ってもっ──」
視界が眩しく光った。
ぱりん、とガラスの割れる音がした。
目が慣れてくると、割れた窓ガラスが見えた。
「いぬぺろの毛が!」
いぬぺろの毛がすこし焦げていた。
毛先に赤い熱が残っている。
ビョークは急いで駆け寄って手で払い、チユをぎろっと睨んだ。
「睨むなよ、まだ一二歳なんだぞ」
「そんな子どもを連れて来たのは誰ですか。いぬぺろが死んでいたかもしれないんですよ。窓だって割れてるし」
チユの口元に青白い火花が見えていた。
「ガムテープで補強しとけよ。古いんだし」
「適当なこと言わないでください。やっと手に入れた研究室なんです」
「このくらいでびゃーびゃー言うな」
「人間を知ると犬が好きになると言いますが、僕は人間より犬が好きです」
「喜ぶべきことだろ、何が不満なんだよ」
「あなたが次から次へ問題を抱えてやってくることがですよ」
チユが走って研究室を出ていった。
「余計なことを……」
俺は追いかけた。
「待ってくれよ。どこいくつもりなんだ」
渡り廊下で追いついた。
「帰る」
「帰るって、家に?」
「どこでもいいでしょ」
「そのうちバレて、施設送りになるぞ」
チユは黙った。
「ビョークを許してやってくれないか、不器用な奴なんだ。そのうち理解するはずだ。あいつなら助けてくれる」
「冷たそうな人だった」
「受け入れる時間が必要なんだ、いろいろと……そうだ、お腹すいてないか?」
〇
「食べたいものは?」
「ない」
鮮魚売り場を物色した。
「アレルギーとかは?」
「ない」
割引の寿司と茶碗蒸し、一・五リットルのコーラを買ってスーパーを出た。
アパートはL字の形をしている。
部屋は二階の角部屋だった。路地側だ。
「入っていいよ」
玄関で立ち止まっていたチユを手招いた。
「お風呂、入るだろ?」
間取りは1LDK。
フローリングのダイニングキッチンと和室に分かれている。
部屋奥が和室だ。
和室の丸テーブルに買ってきたものを置いた。
その足で風呂のお湯を溜めにいった。
和室へ戻ってくると、正座するチユの背中が見えた。本を読んでいた。
こちらに気づくと、焦ってそれを本棚へ戻した。
「読んでていいよ」
「知ってる本だったから」
「よく知ってるな。古い本なのに」
「“不可能なことなんてないんだよ”──」
思わず息を止めた。
心臓が脈打つ。
振りかえったチユの横顔が、イカルガそのものだった。
「お婆ちゃんがよく言ってたんだ。“不可能なことなんてないって”……この本に出てくる言葉だよ」
「“最後の子・アレキシ”の言葉だっけ?」
誰でも知っているおとぎ話だ。
タイトルは『開闢王と英雄の島』。
アレキシという村の子が、白い竜と喋る人面樹を仲間に加え、開闢王から毒虫の女王を救い出し、英雄の島へ旅立つ物語である。
チユの肩が小刻みに揺れはじめた。
すすり泣く声が聞こえてきた。
どう声をかけていいかわからない。
こんなとき、イカルガがいてくれたら……。
「お風呂沸いたら、先に入っていいから。上がったらお寿司たべよう」
涙を拭いながら、チユは頷いた。
〇
座敷の丸テーブルにレンジで温めた茶碗蒸し、それから寿司を用意して待った。
そのうちチユが上がってきた。
グレーの短パンとオレンジ色のシャツは俺のだ。
頬が赤く、体から湯気が立っていた。
「サイズ合った?」
「うん」
「さっき着てたやつはまた洗っとくよ。それよりほら、食べよう」
チユがテーブルに着く。
俺は寿司にがっついた。
「いただきます」
チユが小さな声で言って、割り箸で寿司を摘まんだ。
「イカ、嫌いなの?」
チユがイカを避けているような気がした。
「うん」
「じゃ貰う」
チユのイカを手で取った。
「エビも嫌い」
「なんか食べたいやつあった取っていいよ」
エビを自分の発泡トレーへ移した。
「いくらとたまご」
「いいよ」
チユが箸で、いくらとたまごを取った。
「俺、卵アレルギーなんだ。本当は食べちゃいけないんだけど、茶碗蒸しは一杯だけなら大丈夫なんだよなぁ」
「わたしも」
チユが驚いたような顔をして言った。
「チユも?」
「うん。わたしも卵アレルギーなんだけど、茶碗蒸しは一杯だけならいいの」
スーパーではアレルギーはないと言っていた気がする。
ま、いっか……。
「一緒だ」
エビを口に入れ、尻尾をちぎった。