第81話 将軍不在幕府と後足利幕府
お待たせしました!
いよいよ第三幕開始です。
東国・武蔵松山での足利将軍・義輝公の生存と幕府再興の報が全国に届くと、それは天下を揺るがす大騒動になった。
朝廷は危惧した通り『京の都に本拠地を置かない将軍は幕府将軍とは認めない』と発表し、ならばと名乗りを上げたのはしつこく引き下がらない阿波の足利義栄と史実通りの足利義昭。
義輝はそんな状況も意に介さず、相模北条家が鎌倉幕府執権北条家と分けて『後北条氏』と名乗ったのに習って『《《後》》足利幕府』と名乗り東国を基盤にした武家中心の天下の舵取りを唱え、東国のほとんどを味方に付ける。
出羽南部(現在の山形県)は最上、北部(現在の秋田県)は安東、陸奥北部(現在の岩手・青森)は南部、岩代(現在の福島内陸部)は蘆名といった有力大名たちが次々と義輝の東国での幕府再興を祝い、臣従の意を表すために武蔵松山を訪れた。
豊臣政権の頃になって大大名となるはずの宮城・仙台あたりを治める伊達政宗の居る伊達家が来なかったのは大きいが、周りの大国が全て義輝派閥となると表立って他の二人を支援する動きも無いだろう。
尾張と三河を除く越前・美濃より西、西国の大名たちは誰に味方するかは明言を避け、状況を日和見しているような状況だ。だがそれも仕方ない。蓋を開けたら周りの国全部が義栄・義昭どちらかの陣営に囲まれているってコトも有り得るのだ。そんな中で義輝派を名乗れるヤツはいないと思う。俺でも避けるよ、内心は義輝に付きたいって思ってても。
その義栄・義昭陣営だが、どちらもこれといって大きな動きは無く、拮抗状態となっていた。
四国から瀬戸内海を挟み、近畿地方の西半分を支配下に置く一大勢力・三好家ならば義栄を京都に無理やり連れてきて将軍を名乗るのなど簡単なように思えるが、当の義栄本人は身体が弱くて体調が整わないらしいのだ。
一方の義昭陣営も自分の為に動いてくれない朝倉家を見限り、織田信長に望みを託したらしいのだが信長がまだ尾張一国の守護でしかなく、上洛するには三河の徳川と連合でも力が足りない状態らしい。
そうなると信長が勢力拡大の為に再び美濃を攻めるか、遠江に攻め寄せるかと甲斐武田・遠江朝比奈は備えていたのだが、それを察したのか信長軍は本願寺と同盟を組んで伊勢北畠家を攻める方へと軍を進めていった。まあ、攻められる方を攻めとくかって感じなのかな?
そんなわけで束の間の平和な時間を手に入れた俺達は穏やかな毎日を過ごしていた。
もちろん攻め入られた時の為に軍備強化や訓練は続けていたし、内政にこの時代でも可能な新規食材や料理の開発、これまでに作って来たモノの量産と普及計画などやらないといけない事は山積みだったし、忙しい毎日だったけれど。
それでも数か月に1回は信玄・輝虎ペアや北条親子、義輝将軍に越前朝倉と面会する時間は作れたし、年末には北条家の一員として家族で温泉旅行にも行く事が出来た。この時代にも温泉は湯治として武将なんかの利用は多く、特に小田原の近くは箱根に熱海・湯河原・伊東と数多くの温泉が存在していたのだ。
「ふぅ~。やっぱり伊豆の温泉は落ち着くわね。水が合うっていうのかしら」
子供の頃から温泉に来慣れていてリラックスしきった大のお風呂好き・光が言う。『傷を癒すための湯治』以外にも温泉旅館とか家族風呂とかもどんどん作っていって、武士以外も温泉に行く文化とかも作っていけたら良いな。
輝虎は相変わらず出会った時から時が止まっているかのように歳を取らなかったが、信玄と氏康の二人は歳をとったんだなと感じることが少し増えた。
氏康が家族旅行で行った温泉自慢をすると『なにを~武田領内にも優れた温泉は星の数ほどあるわ! 今度案内してやろう』と信玄が張り合うところなんかは相変わらず自分が一番の唯我独尊オヤジだなって思わざるを得なかったけど。
でも二人とも、咳込んで面会が中断したり体調不良で会える予定が延期になったりという事が出てきたりしていたから、このままってワケではないだろうな、って何となく俺も周りもそう思っていたんだ。
そんな日々の、状況が大きく動いたのは2年後のこと。永禄13年(1570年)6月。
北条氏康が、亡くなった。
享年56。『人生50年』と言われる平均寿命が極端に短い戦国時代にしては良く生きた方だ。俺は最期には立ちあえなかったが氏政たちにはちゃんと遺言も残し、満足そうな最期だったという。氏政は当主で喪主なのにワンワンと泣き喚き、光もウチの孫一同も号泣していた。
俺でさえ貰い泣きで涙腺が崩壊しそうになったが、泣き喚く兄に代わって気丈に振る舞い、葬儀の段取りを卒なくこなし続ける氏照を見てちゃんとしなければと思い直せた。ともあれ、これだけ惜しまれながらも本人はやり切ったと満足した死を迎えたのはこの時代においては凄い事だ。最期まで立派な、こっちの世界での俺のダディだったよ、あなたは。
葬儀は7日7晩を通して行われ、関東中の諸将が弔問に詰めかけたのに対して親族衆が交代で対応していた。
だが、そこに驚きの報告がもたらされる。
時を同じくして病弱だった次期将軍候補・足利義栄が四国阿波で亡くなり、それを好機と見た足利義昭陣営の織田・徳川連合軍2万が上洛軍を揚げ、近畿に攻め入ったというのだ。




