閑話 ある女の転身
今回は主人公の元を離れた「ある女」の話です。
前編・後編の予定。
本編は4月から再開します。
永禄10年(1567)
最愛の男の元を離れ、自らの生まれ故郷である甲斐で『歩き巫女衆の頭目』という立場に戻った元はま家側室・若芽は主・武田信玄の命を受けて昨年、平定したばかりの美濃・稲葉山城下へと訪れていた。
目的は1つ。歩き巫女衆の者たちを使って遊女屋を作る事である。
この稲葉山の地は甲斐武田家が平定したとはいえ、元々美濃に住んでいた者たちも集まれば尾張からも近く、京の都のある近畿方面から中日本~東海~東国へ向かう者が通る交通の要所である。それだけに色々な人物と情報が集まるのだ。
その中には武田家の情報網だけでは掴みきれないようなものも沢山ある。ゆえに遊女屋という場所の特性を使って油断させ、他家の者や武田の者ながら良からぬ企みのある者から情報を引き出す、というのが若芽に命じられた役割である。
しかし美濃の最後の当主であった斎藤龍興が重臣共々酒と色に狂っていたせいもあってか、稲葉山城下にはすでに遊女屋が星の数ほども存在していた。更には衆道(男色)を売る店までもが存在していたし、店ではなく路地裏で個人として客を引き身体を売る遊女まで存在している。さすがにそのような者たちと同じ舞台で勝負は出来ないと判断した若芽はここで考えた。
(目的とするのは身分のそれなりに高い者ばかり。それならば……)
若芽が辿り着いた答えは、この時代にはまだ京都と堺以外では存在していなかった『本膳料理』つまり高級料亭である。
上質で洗練された料理や酒を出す事と、舞いや唄の上手な遊女が身体では無く『芸』を売る事で満足させる、という現代の京都の料亭のようなスタイルも、芸達者で楽しませる舞妓や芸者といった立場の女性もまだこの時代には存在していなかった。若芽はそこに目を付けたのだ。
幸い元の夫である浜寿四郎が東国にもたらした『寿司』『天婦羅』『蕎麦』といった料理はこの地域ではまだ広まっていないが、甲斐ならばそれらを調理できるものがいる。
そして舞いや唄ならば『歩き巫女』として鍛え上げた者ならば、それ一本で生活が成り立つほどに熟練している者ばかり。さらには不逞な輩が言い寄ってきたとしても並の武将ならばその場で即刻始末してしまえるほどの実力を全員が持っているので、酔った男の一人や二人、叩きのめして気絶させるなどワケは無い。これらを使わない手は無かった。
実際、始めてみると若芽の発案した高級料理遊女屋『穴山亭』は瞬く間に大繁盛を収め、数か月先まで予約が取れないような店になった。畿内や近隣にある国で城主・家老級の職を務めている人物や大名お抱えの商人、更には京の都に居るはずの公家までお忍びで訪れるようになり、京の都にもそれに似せた店が出来たと聞く。
若芽も店の経理に諜報にと多忙な毎日ではあったが、特別に対応が必要な来客(酔って手が付けられない等)の時に対応する場面以外では基本的に店で働く娘たちの状況と客たちとの会話を観察し、受けた報告を甲斐に届けるだけで充分な役割を果たせていた。
そんなある日。
いつものように『穴山亭』各部屋に来た客たちの言動と娘たちの対応を部屋から部屋へと廊下から観察していると、
「若芽女将! 三階の広間にすぐに来てください!! ちょっと手が付けられないんで」
店の中では新人というワケでもない、そこそこ古株の娘が血相を変えて飛び込んでくる。彼女ならばある程度の酔っ払いも、力づくで店の娘を手籠めにしようとする下衆な輩も軽く片付けそうなものだが、何事だろう?
三階の広間は今日だと確か、堺と東海を行き来する大商人の名で10名以上の団体予約が入っていたハズ。それに対してこちらも店の娘を10人近く付けている。集団で来られても乱暴狼藉の類などにも対応できると思うが……
急いで三階の広間に向かう途中、その手前の部屋からひそひそとした話し声が聞こえてきたので若芽は少しだけ足を止める。
「……長さまに置かれましては今回の取り成し、誠に感謝しておりまする」
「であるか」
「して婚儀でございますが内密の事ゆえ……」
「あのオヤジさえくたばってくれれば俺はいつでも……」
どうやら内密で婚儀の相談をしているらしい。この時代の婚儀といえば個人同士の結婚というよりも家と家が結びつく意味合いの方が強い。それを秘密裏にとなると……主家に対して対立するつもりなのだろう。何処の誰かまではまだ分からないが。
「話は以上であるな?ならばオレは戻るぞ。あまり席を外すとあの坊主あがりが五月蠅いのでな」
「はい、では私たちはこれで」
場がお開きになりそうな雰囲気を察して急いで離れる。廊下で鉢合わせでもしては一巻の終わりだ。若芽は気配を消しながら密会が行われていた奥の部屋、大広間へと移動した。




