海しか知らない女海賊長の幸福は陸の上にあれ
「貴様……っっ!!また私を裏切るのか」
怒りをあらわに目の前に佇む男を睨み付けるのは、まだ弱冠25歳、女でありながらこの海賊一派を率いていたアリエル・リュシェール。通称アリーだ。
彼女は今、丁度一年前に、当時の海賊長だった兄が仲間内の決闘の末に敗れ落とされた海の上にいた。その時兄に勝利したのも、目の前の男、フィデール・コート。アリエルの右腕であり、常に彼女を守り続けていた男の通称はフィー。二人は、船首から飛び出たバウスプリットの上で剣を交えていた。
「いいえ、私は貴女を裏切った事など一度も、ありません」
隻眼で片眼に眼帯をしたフィデールは、そう言いながら、アリエルの繰り出すレイピアの切っ先を払い続け、自らは一度も攻撃を仕掛けなかった。
「いけ!フィー!!殺っちまえ!!」
「早くアリーの血を見せろ!」
野次馬である海賊達は、一様にフィデールの肩を持つ。それもその筈、アリエルがこの一年間海賊長を務める事が出来たのは、単にフィデールの人望が厚かったからだ。フィデールが支持した為、他の荒くれ達も不満がありながらそれに従ってきた。
もし不満をぶつけようものなら、今のアリエルの様にフィデールと決闘をしなくてはならないから。
「二人とも、お止め下さい!」
一人だけ、アリエルとフィデールの決闘を止めようとする者がいた。荒くれ者の中でも、一回り小さい身体。頭脳戦に長けていた為、アリーの左腕として採用されていた男で、名前はイジドール・ブームソン。通称イジー。
「何故こんな事を!!」
フィデールはイジドールをチラリと見るが、そこには何の感情も写っていない。
「たとえお前が兄をこの海に落としても、私は兄がお前だけを信じろと言うから信じてきた。それが、結局この様か……!!」
アリエルは泣きそうな顔で、フィデールの肩を刺すつもりで剣を突く。が、あっさりかわされた。
二人の眼下に広がる海は、港の近くだというのに地元の人ですら寄り付かない、鮫が多く住まう海域だ。一年に一度だけ鮫がいなくなるらしいが、海賊船の様な大きな船以外は近寄らないのが吉とされている。
「貴女の判断は正しい。……さぁ、もうそろそろ余興は良いでしょう。どうぞ海に落ちて下さい」
にっこり笑う隻眼の部下を前に、アリエルはぐらりと視界が傾いだ気がした。決闘は、リタイアなどない。どちらか一人が海に落ちるまで、終わらないのだ。
「……どうしても、か」
「ええ。一緒に」
「え?」
今度こそ、視界が揺れた。
「きゃ……っ」
アリエルが繰り出したレイピアをフィデールが脇に挟んだ瞬間、そのレイピアに体重を掛けてフィデールがアリエルもろとも海に落ちたからだ。
一瞬の出来事ではあったが、海賊達からはフィデールがアリエルに刺されて落ち、アリエルもその反動で一緒に落ちてしまった様に見えたかもしれない。
アリエルの伸ばした手の先に、イジドールの焦った様な、悔しそうな顔が見えて……脳裏に、昔の楽しかった思い出が蘇った。
***
アリエルは、海賊長の娘として船の上で産まれた。その時母を亡くしたが、3歳年上の兄も海賊長だった父親も、アリエルを可愛がって育てた。
アリエルの兄が25歳、アリエルが22歳の時に海軍と抗戦する事があり、父親はその戦いで死んだ。そして跡を継いだのがアリエルの兄だった。
アリエルの兄が海賊長になる頃には、海賊は全盛期を過ぎて過渡期に入っていた。何でも奪う時代から、交渉をする時代に移り変わったのだ。
兄は、海賊でありながら義賊の様な働きをし、女子供に手を出すことを徹底的に禁止した。港や海軍に金を流し、無用な流血を避けた。
アリエルは兄が誇らしかった。
誰よりも強く、賢い兄が大好きだった。
しかし……兄のやり方に反発する者も現れ、兄は何度も仲間から命を狙われた。そんな兄の一番の弱点はアリエルであり、アリエルは兄と同等の力を持つフィデールに常に警護されていた。
アリエルの、フィデールに対する気持ちが恋心へと切り替わっていったのは、狭い人間関係の中では当たり前だったのかもしれない。とりわけ、アリエルを助ける為にフィデールが片目を失った時、それは確信に至った。
しかしアリエルの想いも虚しく、フィデールはアリエルの兄に対して最終的には反乱を起こし、兄と決闘をするに至る。結果、兄は海へと落とされ、フィデールは勝利した。
決闘のある前日、アリエルは兄に呼び出され、
「何があっても、俺がどうなっても、お前はフィーを信じろ。……いや、フィー以外信じるな」
と言われていた。だから、兄の遺言に従ったのだ。
兄に勝利したフィデールは、驚く事にアリエルを次の海賊長に指名した。これは異例の事で、海賊の誰もが納得せずに吠えたが、結局その決定を覆す為にフィデールとの決闘を申し込む者はいなかった。
こうして名前ばかりの海賊長となったアリエルは、海賊に認めて貰う為に、フィデールに相反する気持ちを抱えたまま、必死で兄の跡を懸命に働いた。
女子供に手を出す海賊は、容赦なく斬った。
金銭はイジドールに任せ、上手く不満が出ないように回して貰った。
溜まった性欲や鬱憤は、定期的に港で発散して貰う様にした。
アリエルが海賊長でいる為にフィデールが望んだのは、金でも権力でもなくアリエルの身体だけだった。兄の仇に告白も出来ないまま、アリエルは恨み事も呑み込んでフィデール相手に処女を散らした。
アリエルが海賊長になった時、起用したのはイジドールだった。イジドールはアリエルに好意を抱いていた為、フィデールとの対立は日に日に強くなっていた。
***
その日も、フィデールとアリエルが交わっているところに扉がノックされた。
「ま、待って……」
アリエルが止めるにも関わらず、フィデールは飄々とした顔で
「誰だ?何か用か」
と答えてしまう。
「……アリーに……港への還付金の報告を……」
扉の向こうで、イジドールの掠れた様な声がした。
「後で、見る、からっ」
「入って机の上に置いていけ」
「……失礼します……」
ガチャリ、と扉が開いてアリエルが止める間もなくイジドールが姿を現した。
「嫌ッッ!フィーの!バカっ!!」
恥ずかしくて、涙目でフィデールを睨む。服を着ている事と、イジドールの顔が見えないのが幸いだった。フィデールはニヤリと笑うと、
「イジー、何をボケッと立ってる?置いたら出てって良いぞ」
「……」
アリエルは背中を向けて、フィデールにしがみつくのが精一杯の様だ。
イジドールはギリッと歯を食いしばりながら、報告書を机の上に置くと、
「後三時間で港に到着の予定です」
とだけ言って部屋を後にする。
フィデールとイジドールは、アリエルやその兄に命を救われた元民間人である。
フィデールは元々良いところの貴族だったらしいが、義母に謀られて船に逃げ込んだ。船員として泥水を啜っていたが、その船がアリエルの父親に襲われたのである。
フィデールは働いていた船から人質がわりに売られた。その頃には既にアリエルの父親も人身売買からは手を引いていたので、どうしようかその存在を持て余していたところ、この国の言葉でなく他国の言葉を話すフィデールに気付いたアリエルが、「私、この子に言葉を習いたい」と言ったところからフィデールはこの海賊の立派な一員と認められ、行き場のなかった少年に存在価値を与えたのである。
一方イジドールは、つい3年ほど前に襲った船の奴隷船員として働かされていた。骨と皮だけみたいな奴隷達を兄が解放したところ、「どうか仲間に入れてくれ」と兄に対してイジドールが言った。それを聞いたアリエルが、「貴方は何が出来る?」と聞いたところ、「計算が出来る」と言われたので試しに採用してみたところ、なかなか使えそうだった為に仲間として迎え入れられた。イジドールは貧しい村の出だったが、独学で計算が出来る様だった。アリエルは、計算が出来る事よりも、独学でそこまで勉強した努力家であるところが純粋に凄いと思って、イジドールを褒め称えた。実際、フィデールが帳簿の付け方を教えたらあっという間に覚えてしまった飲み込みの良さがイジドールにはあった。
アリエルは、自分の警護と海賊の帳簿付けで時間のないフィデールがこれで少しは楽になればと思ったが、残念ながらフィデールとイジドールは相性があまり良くなかった。
その仲が決定的に悪くなったのが、アリエルの兄をフィデールが決闘で勝利して海へと落とし、アリエルの処女を奪った時だった。イジドールは憎悪の目でフィデールを見る様になったが、アリエルはどうして良いのかわからないまま、自分が女海賊長に祭り上げられて一年が経とうとしていた。
兄を失ってから、アリエルは海賊に認めて貰う為に、がむしゃらに働いた。しかし、海賊時代は終わりを告げようとしているのか、海賊よりも海軍が海を我が物顔で進み、それを武力で押さえ付ける事がかなわないという人員的、武器的な戦力差が見受けられる様になってきたのだ。
アリエルは生まれながらの海賊だ。だから、海賊を終わらせる、という幕引きが想像も出来ず、また選択も出来ない。だが、仲間だけはどうにかしてあげたい……と思っていたある日、襲った船に積んであった酒を浴びる様に仲間達と飲んだアリエルは、そんな胸の内をフィデールに打ち明けた。
「後少しだけ、辛抱下さい」
フィデールは、そう言ってその日も泥酔したアリエルを朝まで抱いた。
フィデールに言われるまま後少しだけ辛抱したアリエルは、まさかフィデールから決闘を受ける事になるとは思ってもいなかった。
***
「……んで……フィー……んじてたのに……」
「アリー?気付きましたか?」
「お?どれどれ……ってお前!何アリーを泣かせてんだよ!!」
「ちょっと、どう考えてもフィデールさんのせいじゃないでしょ!?」
天国にしては、やけに騒がしい。
アリエルはぱっちりと目を開けた。
そこには、耳を引っ張られる兄と、兄の耳を引っ張る美女と、それをスルーしたままこちらを覗き込むフィデールの顔が見えた。
……やはり、天国か。
亡き兄がいたので、間違いない。安堵したアリエルは、もう一度深い眠りに就こうとした──が。
「おい!アリー!!起きろお前!!」
肩をガシッと掴まれ、前後に揺さぶられる。懐かしいガサツさ。
「何すんのよ兄貴っ!!」
怒りに任せて腕を振り上げれば、ヒットした感触。
「ふ……久々の再会だってのに、なかなかやるなお前……!!」
流石に違和感を感じたアリエルは、再び目を開ける。
肩を震わせ笑っているフィデールと、同じくお腹抱えて笑っている美女と、ほっぺたを押さえて半眼の兄。
……兄?
「……何で天国に兄貴がいんのよ?まさか地獄?」
「いい度胸じゃねーか、アリー」
「え?もしかして……生きてる?」
「死んでたらパンチされても痛くねーよ」
「……兄貴って、鮫の大軍にすら勝てんの?知らなかったわ」
「んな訳あるか。あの日はな、あの辺の漁師しか知らない、一年に一度の日だ」
……つまり、鮫があの海から消える日という事だ。
アリエルがフィデールを見ると、優しく微笑んだ。不覚にも、胸がときめく。
「……あぁん?何だお前、フィーに惚れてんのか?おいフィー、まさかアリーに手を出してねーだろーな!」
「あ、貴方を海に落とした次の日には美味しく頂いてます」
アリエルの兄の額に青筋が浮かぶ。
「テメェ……!!信っじらんねー!!アリーに手を出すのは、結婚してからだって言ったよな!?」
「すみません、私の物だと連中にわからせないと、輪姦されてもおかしくない状況だったので」
「兄貴、それは本当だと思う」
それを理解していたから、アリエルは大人しく兄の仇であるフィデールに抱かれていた。そうする事で自分の身が少しでも安全になる筈だと享受していたのだ。
「……でも、」
「じゃあ貴方は、結婚前に奥様に手を出さなかったのですか?」
フィデールに聞かれ、無になる兄。
「……ねぇ、少しは二人きりにしてあげましょうよ」
「だ、だが俺だって久しぶりに会ったのに……っ」
粘る兄に、にっこり笑う美女。恐らく、兄のお嫁さんなのだろうとアリエルは思った。そして同時に、尻に敷かれているであろう事も。
嫁の後をすごすごと追い、「……夕飯の準備が出来たら呼ぶ。おいフィー、そこは俺達の寝室だからな?わかってるな?」
「あなた!」
「……」
バタン、と扉が閉められ、アリエルは心の準備もないままフィデールと二人きりにされた。
***
「……で、どういう事?」
アリエルが事情の説明を求めると、フィデールは苦笑しながら事の顛末を話した。
そもそもの発端が、港町に寄った際にアリエルの兄が港に住む女性に一目惚れしたところから始まったらしい。
女性も兄に好意を抱いたが、海賊の、しかも海賊長であると知ってからは距離を置いた。海賊は、肩書きを持つまでは自由に抜ける事が出来るが、肩書きがある場合は50歳以上になるか、命を落とすか、破門にされるかしか海賊を辞める事が出来ないからである。
兄は悩み、結局海賊ではなくただ一人の女性を選んだ。
自分が気兼ねなく海賊を辞める手段として選んだのが、仲間に決闘を申し込まれて死ぬ事だった。決闘の末に相手が勝てば、その人物は次の海賊長として名乗りやすいのもある。
だから、兄はフィデールに頼み込んだ。フィデールは「アリーに嫌われるかもしれない、そんな損な役まわりは嫌です」と断り続けたが、兄がせがみ続ける事10回目で折れた。そして結局二人は共謀して、鮫で有名な海域でわざわざ決闘し、兄は落ちて死んだ事にしたのだった。
兄は港町で、海には近付かずに畑を耕し、狩人に弟子入りして狩りをして生計を立て、めでたくつい最近、やっと相手の女性の両親の許可が下りて結婚したとの事。
「言ってくれれば良かったのに……!!」
アリエルがフィデールの肩に拳を叩き付け、恨みがましい目で思わず見る。
「アリーは演技が出来ません。だから、最低一年は生きている事を話してはいけないと言われたんです」
酷い話ですよね?とフィデールは肩をすくめる。アリエルの一撃は全く効いてない様だった。
「でも、それが出来たら、アリーを私に下さると約束して下さったのです。だから、頑張りました」
にこり、と綺麗な一つの目に絡め取られて、アリエルはぎこちなく笑った。
この一年間の苦悩を返せ……!!
そうは思っても、アリエルの心はとっくにフィデールに落とされている。
「アリーをこちらに連れて来たのは、アリーが海賊である事に悩みはじめてきたからです」
「……」
「私としては、アリーの傍にいられさえすれば良いので……もう、海賊の時代も終わりですしね」
「……仲間は……どうする?」
血気盛んで、粗野でもあるが、気のいい奴等もいた。アリエルが仲間の心配をしていると、「めぼしい奴には声を掛けました。しかし、海賊の方が生きやすそうな輩には声を掛けていません。……足を引っ張られても嫌ですしね」とフィデールが答える。
「あ、イジーは……」
アリエルがそう聞けば、
「奴は駄目だ」
いきなり扉が開いて、「飯だぞ」と兄が声を掛けた。
兄の奥さんが作ってくれた美味しいご飯を口にしながら、アリエルは「イジーは駄目って?」と気になっていた続きを促す。
「イジーは、俺らの資金の横領に海軍への横流し、人身売買と手広くやり過ぎていて、普通の生活には戻れないだろう」
「えっ……!!」
アリエルは初耳の事に、衝撃を隠せずスプーンを手から落とした。
「そ、そんな……」
イジドールを信用し過ぎていて、全く気付かなかった自分に情けなくなる。イジドールは、自分が奴隷という身分であったにも関わらず、奴隷を生み出す仕事に加担したなんて到底信じたくなかった。
「その、売られた人達は……」
アリエルが呟くと、
「人身売買に関しては、フィーから情報を貰った俺達が買い主を叩いて治安部隊と一緒に潰してるから、ひとまず心配するな」
と兄が豪快に笑って答える。
「後は、お前次第だ。フィーが嫌なら、しばらく俺が面倒見てやるしな!」
ニヤニヤ笑って兄が聞いたが、アリエルの答えはもう決まっていた。
「私は、フィーと一緒が良い」
「まぁ、そうだよな」
兄が姿を消す前に、冗談めかした「俺の傍かフィーの傍、一ヵ所しか選べないならどっち?」との問いにアリエルは元気に「フィー!」と答え、「海か陸なら?」という問いには「勿論海!!」と答えたのだ。
だから、兄はアリエルをフィデールに託して一緒には連れて行かなかった。
「仕方ねーなぁ。じゃあ、今日位泊まってくか?」
と兄が聞けば、今度はフィデールから「結構です」と返事がくる。
「奥様にも悪いですし、今日は私とアリーは、宿屋に泊まります」
アリエルも頷いて、その日は兄の家を後にした。
「やっと……私だけの、アリーですね」
宿に着くと、フィデールがベッドに座ってそれだけポツリと言った。
兄の仇、というストッパーが外れたアリエルは、そんなフィデールにぎゅう、と抱き付くのであった。
***
フィデールはそれからアリエルと入籍し、外国語が読み書き出来る為に翻訳や通訳の仕事を生業にして港町に住んでいる。
たまにフィデールの仲介で足を洗った昔の海賊と会ったが、皆なんとか仕事にありつき、楽しく暮らしている様でホッとした。
五年後、自分が率いていた海賊団が壊滅した事を新聞で知った。
海で生まれたアリエルは、たまに自分が陸にいる事を不思議に思う。
しかし、陸の上での毎日は、間違いなく幸福であった。
お読み頂き、ありがとうございました。