03
陽の当たる林床に、積もるような鮮やかな苔を、深々と踏み込んだ。
方角は正確にはわからなかったが、進路から判断すれば、南は、前方である。
おれは光りの下に出て、正面の空をうち仰いだ。
「ない」
森の死で、すっぽりと抜けた南の空に、ホズ・レインジはなかった。
そのまま視線をぐるりとめぐらし、周囲の空に山を探す。
ならば、どこだ。
どこにある。
見あげながら、厚い絨毯のような層状の苔を、ずぼり、ずぼりと。
その時だった。
「そうだ。それでいい」
突然、片足が落ち込んだ。
均衡をたちどころに失い、瞬間、足元にひろがる苔の層が崩れ落ちていく様を見た。
空洞を踏み抜いた。
気づいたが時、すでに遅し。
苔もろとも、おれの身体は足場のない空間に放り出された。
墜落する。
右肩にがつんと衝撃と激痛が走り、絶叫と同時に落下の浮遊感が消えた。
両足は、宙に浮いたまま。
一瞬、なにが起こったのかわからなかったが、どうやら背中の背嚢が、なにかに引っかかったようだった。
助かった。
と、言えるのだろうか。
手の届かない対面に、切り立った黒い壁が見えた。
射し込む光りの陰影で、浮かびあがっている。
顔をあげると、頭上に空いた眩い穴の傍らに、黄緑色をまとう枯木の枝。
目測の落差は、二メートル程度。
恐る恐る、足下に目をやる。
闇だった。
ひざから下が、薄い墨汁に浸かったかのように滲み、消えていた。
靴裏に触れるものはなく、底が知れない。
わだかまる闇に向かって、一声を発した。
唸るような反響音が、尾を引くようにして遠ざかり、やがて闇に吸い込まれた。
息をのんだ。
その谺は、直下に巨大な空洞がひろがっていることを、告げていた。
なんてことだ。
おれが踏み抜いたのは、引割だ。
地殻変動によって生じた、狭く深い大地の裂け目。
深淵の奈落。
それを認識し、唐突な窮地に身が竦んで、右肩にまた激痛が走った。
右腕が、動かせない。
耐え難い、尋常でないこの痛みは。
骨をやっている。
全身から嫌な汗が吹きだした。
肉体が警告を発している汗だ。
危険な汗だった。
これは、もうだめだ。
助からない。
おれの身体は今、背嚢の肩紐のみで支えられている。
右肩は、おそらく骨折しており、左腕の感覚も薄れはじめている。
血流が滞って、じきに動かなくなるだろう。
落下は時間の問題だ。
両手に杖がない。
どうやら落としてしまったようだ。
ホズ・レインジは、どこへ行ってしまったのだ。
南にも、東にも、西にも、そして北にも。
冷や汗がとまらない。
目にしみて、見えない。
どこにも見えない。
意識が、朦朧としはじめた。
ああ、死ぬのか。
おれはここで、死ぬんだな。
自分の命が、いつ、どこで、どうなるか。
まさに、一寸先は闇だ。
不注意に出した足が、悔やまれる。
苔の繁殖力というものが、かくも旺盛で、引割の口をふさぐほどであったとは。
まったく油断だった。
思いがけず、はやまったが。
「ルイメレク。あなたは遠かった」
しかし。
これでよかったのだと、思う。
まるで誂えたような森の墓穴で、終える。
このまま、奈落の底に落ちていく。
結果としては、悪くない。
むしろ、最適解と、言えるのではないか。
「おい、じっとしてろよ。動くんじゃないぞ」
人間には、寿命が二つ、あるらしい。
一つは、肉体がもたらす寿命。
いま一つは、肉体の過客である魂がもたらす寿命。
肉体がもたらす寿命は、本人の心懸け次第で、伸び縮みする。
それを運命という。
魂がもたらす寿命は、その運命を体現する限界点で、不動であり、本人の意思は関係しない。
それを宿命という。
おれのこの死様は、どちらの寿命の仕業なのだろう。
運命か、宿命か。
非常に興味深い命題だが。
どちらにしても、待っているのは、死だ。
その死と、わずかにでも向き合う時間が残されたこと。
有り難い。
おのれの死に気づかぬまま、この世をあてどなく彷徨い続けるのは、悲劇だ。
「右腕がいかれたか。左手は、大丈夫だな」
揺蕩する意識下で、おれは苦笑した。
また幻聴だ。
こんなところに、人がいるわけ、ないだろう。
右がどうした。
左がなんだと言うのだ。
ああ、そうか。
確かに、左だ。
まだ、いくらか左腕を動かせる。
このままじゃあ、いけない。
君を、置いていくわけには、いかない。
一緒に、落ちなくては。
左腕の力が、残っているうちに。
今、行くから。
愛してる。
「お、おい、動くな。引っ張るぞ」
身体が、ぐいっと持ちあがった。
手放しかけた意識が戻り、右肩に絶叫する。
「生きてる証拠だ。我慢しろ」
そうしてまた、ぐぐっと少し、引きあがった。
すると涙目の向こうに、人間の手のひらが。
「つかまれ」
おれは反射的にその手をつかんだ。
左手で、無心ですがりついた。
「よし、離すなよ」
野太い気勢が頭上に響いた直後、身体がふわりと浮きあがり、次の瞬間、なにかに叩きつけられたような衝撃が全身に走った。
猛烈な痛みに悶絶しながらも、顔面に触れる水気と苔の匂いで、自分が林床にうつ伏せているのがわかった。
信じられなかった。
なんてことだ。
「危なっかしいなあ」
「助かった、のか……」
息も絶え絶えにそう言って、まぶたをこじあけた。
眼前に、片膝を突いた大男のたくましい下半身があった。
起きあがろうと力んだところで右肩の鋭い痛みにおれは叫び、身悶え、仰向けに倒れ込んだ。
すると右腕が、わずかに持ちあがった。
「なんだ。てっきり折れてるものと思ったが。大丈夫。骨違いだ」
折れて、ない。
「入れるぞ。歯をくいしばれ」
あまりの激痛に声も出ず、すうっと意識が遠のく。
「しばらく痛むだろうが、大事ない」
痛みの度合いが、鈍痛に変わった。
呻きながら、薄目をひらく。
天地のひっくり返った青空の一隅だった。
巨大な逆三角形が、目にとび込んだ。
山だ。
ああ、ホズ・レインジ。
見つけた。
見つけたぞ。
「これで、貸し借り無しだぜ」
不意に、安らかな口調で男が言う。
声の出どころが、定かでなかった。
貸し、借り、無し?
うつろに視線をめぐらせるが、姿をとらえられない。
「ありがとうよ、フロリダスさん。しかしあんた、ずいぶんと重い荷物、背負ってるねえ」
脳が麻痺していくような感覚があった。
フロリダス。
そして男が口にした、その言葉。
耳にとてもなじんでいた。
確か、それは確か、おれの名ではなかったか。
薄れゆく意識の片隅で、ちらりと思った。