02
眠ってしまった。
間断なく続いていた雨音は、雨垂れのような調子はずれに変わっていた。
雨雲は去ったようだ。
天幕から顔を出し、おれは、したたか驚いた。
ほんのりと明らむ雨あがりの森は、雲が降りたかのように、真っ白だった。
一層に濃く立ちこめる靄で、森の底が、すっかり隠れ、目星をつけた木々のたもと――目標の石がわからない。
手応えのない帳をかきわけ、記憶を頼りに探しまわるが、見つからなかった。
「つくづく、浅はかな」
このひどい煙霧がひくまで、またしばらく待つしかない。
本職の探検家は、こんな間抜けはやらんだろうな。
ため息を吐きながら、重くなった足を川に向けると、山のない北の空は抜けるような青空で、日時計は正午を示した。
天幕の場所に戻り、森の天井を観察する。
濡れそぼる梢から一滴の雨水が、額にぽちゃんと落ちた。
それを外套の袖でぬぐった時だった。
南東の方角の靄が、うっすらと、あかるくなっていることに気づいた。
もしや、土砂降りの勢いに圧され、枝葉が折れたか。
おれは期待して、明るみに近づいた。
少し、歩いたところで、足をとめた。
白い視界に、散光が広がらない。
遠いのだ。
となると、かなり強い光源である。
昨夕も、今朝も、気づかなかったが。
この先に、森のひらけた空間が。
直射日光を浴びている、大きな空間が、ある。
天幕をたたんだ。
木登りをしないで済むかもしれない。
結果次第ではさらなる無駄足となってしまうが、やむを得まい。
とにかく、行ってみよう。
「そ…だ。…れで…い」
とっさにしゃがみ込み、周囲に視線を投げた。
人の声が、聞こえた。
ような気がし、そんなばかなと思いつつ、靄の様子を窺った。
まるで生き物のようにゆったりと漂うその白は、空気の流れを視覚化している。
動く者があれば、ひと目でわかる。
不自然な流れ。
やはり、どこにもみられなかった。
今、耳に感じたのは、言葉だったように思う。
しかし、おれのほかにも人間が、この森に。
いるとすれば、それは。
固唾をのんだ。
いや、聞き違いであろう。
この場所は、樹海ではないはずだ。
しかし、万が一。
おれは思いきり、森に叫んだ。
「ルイメレク。ルイメレク」
前方の靄が、大きく揺れ、乱れたのは。
自分が吐き出した息によるもので、それ以外の変化は、なにも起こらず。
やはり、幻聴だったか。
「ルイメレク」
三度目の呼びかけも、虚しく森に吸い込まれた。
光りに向かって、おれは進んだ。
なだらかな起伏のあちらこちらの低地に、大きな水溜まりができているようだった。
それらを避け、ねじるように踏み込み方角の痕跡を残しながら、おれは進んだ。
視界は良好ならずも、靄の厚くかかった森に滲んでひろがる光りと、その光りがつくりだす樹木の陰影は、なんとも神々しく、幻想的であった。
魔法使いが視るという生と死の狭間――幽邃たる隧道とは、こんな光景なのではなかろうか。
なにもかもが、不確かな世界の中で、彼方に見える光りだけが、絶対的な存在感を持っているように感じた。
神様がさしのべる手のような、光りを目指して、進んでいく。
周囲の靄が徐々に薄れ、雨水を含んだ深緑の地面が、うっすらと見えてきた。
葉をもった植物が混ざっていた。
川岸に見られたような光合成植物が多様に育っており、とくに目についたのは地べたを這うように茎をのばしている複葉の羊歯植物だった。
苔類も異様に成長していた。
踏み出す足が、ずぼりと食い込むほどに層を厚くしたそれらが、木々の根方から幹にも繁殖している様子が、だんだんと明瞭になってくる。
辺りの植物たちが溌剌としているのは、日照に接しているからだ。
靄が、湯気のように立ち昇りはじめた。
近い。
思った時、豁然と、視界がひらけた。
眼前にひろがった光景に、おれは、呼吸を忘れた。
予想どおり、そこは陽光の燦々とふりそそぐ森の空隙だった。
だが、林床の暴露した、その理由は。
死だった。
森が、死んでいる。
瑞々しい、目も鮮やかな黄緑色に覆われている、木々。
どれもこれも、立ち腐れていた。
枝に繁った葉のように見える緑は、幹を伝って這いのぼり、朽ちた樹体に漏れなく繁殖している苔だった。
枯れ枝から、不気味にだらりと垂れている。
まるで、虚空に走った亀裂が、こんもりと苔生しているかのようだった。
そんな有り様に成り果てた枯木の合間に、細々とそそり立つ木があった。
あきらかに樹種の異なるそれらは、細身ながらもひときわ高く伸びあがり、枯れ木の上空を覆うように、生き生きと、枝葉を拡げていた。
生存競争。
してやられたのだ。
太陽を、奪われた。
それは過去の森だった。
現在の森の、未来の姿であるとも言えた。
百年後か、五百年後か、はたまた千年後か。
やはりこの森は。
内に、滅びをかかえていた。
しばし、その場に立ち尽くした。