04
視界にひろがった横長の原稿。
そのあちらこちらの頁に、傍線と訂正文があった。
筆写時の書き損じにしては、思考の痕跡が多すぎる。
かぶりつくように、傍線の引かれた文脈のみを集中的に読んでみた。
どれも単なる誤字脱字ではなく、文法上の誤りだった。
おれは両目をしばたたいた。
眼下の様相に、既視感があった。
原語で書かれた原文を、われわれの公用語に翻訳した文章を、元の原語に翻訳する。
翻訳した原語の文章と原文とを比較することで、自分の翻訳の正確性を見極める。
その作業を行った原稿と、状態が、似ているのだ。
モンデス卿の歴史書。
原文の一言一句を、正確に憶えてはいない。
ただの類推に過ぎないが、しかし。
悪筆の綴る、この原語写本の状態は。
原本の筆写ではなく、われわれの公用語の訳文の――逆翻訳?
しばらくのあいだ、呆然として固まった。
「まさか、ここまでとは……」
サオリなる言葉とその語源。
偶々その単語だけを知っていたのでは、やはりないようだ。
推察が事実なら、この言語に関しルイメレクの読解力は、先祖学者に比肩する。
読めたどころの話しではなく、通暁していたと言ってよい。
どん、と、床に尻を落とした。
ご存じだったのでは。
お父上様から聞いた、昔話に登場する一人の魔法使いが、優れた古語解読者であることを。
だから先生は、その名をおれに伝えた。
おれだけに伝えたのでは。
いや。
だとしても。
それだけでは、足りない。
先生は、ルイメレクのことを、賢者と評したのだ。
古語随一の難解言語とは言え、その解読者というだけでは、賢者と呼ぶには意味が足りない。
ほかにもなにか、あるはずだ。
ルイメレクには、古語にまつわる重大な、なにかが。
魔法使いがその頭脳に、深い原語知識を詰め込んだ欲求とは、なんだ?
本職顔負けの読解力を習得する労に代えて、なにを得ようとしていた?
古語解読者であるルイメレクが、見つめたもの。
それこそが、すべての疑問の核心のような気がした。
ゆっくりと、ひらかれたままの玄関扉に目を向ける。
日溜まりの彼方で、麦藁帽子が揺れていた。
弟子が、その師匠のなにもかもを、知っているわけではないだろう。
ルイメレクが遺したこの原語写本の中身について、惚けているような印象は受けなかった。
そこになにが書かれているのかは、知らなかった。
だが、サリアタ氏は、自分の師匠が、古語を独学した理由は、知っている。
知っていながら、それは言わなかった。
ただ原語写本の存在を明かし、翻訳を依頼した。
そうしてその本が諷示した、一つの事実だ。
それが確かなら、師匠の読解力が極めて高度であったことも、知っていたはずだ。
(昨日までのおまえさんは、死を道連れにしておった。その男が腰をあげる答えを、口にするつもりは毛頭なかった。だが、今日からのおまえさんになら、答えてもよいと思っとるよ)
なんとなく、だが。
試されているような、感じがする。
先祖学者としてのおれの程度を。
古語解読者としての力量を。
ルイメレクが古語を独学した理由。
語らなかったのは、語るため。
それが、おれの疑問の答えだから。
この翻訳は、その先触れ。
つまり、下拵えか?
ふっと笑みがこぼれた。
まったくの見当違い。
かもしれない。
おれはいささか、考え過ぎるきらいがあるからな。
だが、もし、この翻訳が。
おれの値踏みであるならば。
先生が、お父上様から聞いた昔話。
この樹海に、魔法使いの師弟が存在する理由には、まず間違いなく。
「先史人類が絡んでいる」
呟いた、おれの膝元だった。
窓際に置かれている大きな木箱の下に、黄ばんだ白紙が一枚、挟まっているのに気がついた。
その色味が写本と同じだったので、ぶわっと変な汗が出た。
折り本を一気にひろげた勢いで原稿が千切れてしまった。
「どうしておれはいつもこうなんだ」
あわてて拾って白紙を裏返す。
するとそこに、毛筆の細い字がびっしりと書かれてあり、見るとわれわれの公用語だった。
破れたような痕もない。
この紙片は原語写本の一部ではない。
「ああ、よかった」
吐息をついて、目を通した。
『地球人が叡知社会に辿り着いた事実と、彼らの文明の水準とは、直接的には無関係であったのではないでしょうか。高度に発達した文明は、きっかけに過ぎなかったということです。地球人が内観に没入したのは、精神にこびりついた欲望の剥離、浄化のためでした。そして霊魂の探究を始めたのは、文明の水準がどれほど高みへのぼろうとも、神的幸福感を得ることはできない、人の心に与える充足感の限界に気づいたからです。それは叡知が、高らかな栄華の声に共鳴するものではなく、ささやかながらも真の昇華によってのみ目覚めうるものであることを示すと同時に、文明そのものが叡知の目覚めの妨げになることを示しています。ゆえに今さら文明を求めることは、心的原始への退行にほかなりません。ご先祖が望んだ物的原始をあるがままに受け入れ、作為なく自然と向き合い、自然に寄り添って労働をしながら、人々を叡知社会へと導くことこそが、正しい選択であると、私は考えます』
ルイメレクの筆跡と比較した。
毛筆だが、別人に思えた。
文面から察するに、どうも手紙のようだ。
彼に、宛てたものだろうか。
記名はどこにも見当たらなかった。
文明を求めることは心的原始への退行。
ご先祖が望んだ物的原始をあるがままに受け入れる。
叡知社会とはおそらく、先史人類が、超自然的存在の科学的証明以降に獲得した新たな価値観のことだろう。
それを例に挙げ、われわれの文明が科学技術的に進歩することを否定している。
執筆者はどうやら、右側の人物らしい。
ただ、この手の議論は、古くより識者のあいだで繰り返されているもので、今なお結論の出ていない主題だった。
蒸気機関の実用化は、中央議会の保守派からその原理が文明にもたらす影響力は下等と判断されたことで成っていた。
しかし、どういう経緯で、このような手紙が書かれたのか。
写本と同様、かなり古いもののようだが。
「お待たせしました」
はっとして顔をあげると目の前に、マルセマルスカス氏が立っていた。
「一式、小屋のほうに」
「ありがとうございます」
写本をたたんで立ちあがった。
おれは紙片を差し出した。
状況からして遺失物かもしれない。
「写本のなかに挟まっていたようで。手紙のようです」
「手紙?」
彼は受け取り、見た。
表情を観察したが、なにかに気づいたような様子はなく、しきりに首をひねって、やがて頷いた。
「わかりました。お預かりします。サリアタ様にお渡ししておきます」
そこで彼の目線が、すっとおれの脇に移り。
「ポハンカ。暇なら、庇の張り出し手伝ってくれ」
え? と思って振り返ると。
窓の外に、魔女がいた。
寄りかかるように窓枠に突いた頬杖に、つまらなそうな顔をのせている。
高さが、ちょうどよいのだろう。
マルセマルスカス氏に向けられたその大きな瞳が。
ちらっと上目遣いでおれを見て、無言のまま去っていった。
いつからいたのか。




