03
ホーキ川の南岸に沿って、東に進む。
背後が気になり何度も振り返ったが、木間に人影を見ることはなかった。
木材供給のために造成されたに違いないこの森は、観光地図の上では広大であったが、街道からその東端までは案外にも近かった。
明るみだした木々の彼方に、縄張りが見えたのだ。
南北方向に点々と立てられた杭に、縄が渡されていた。
それがなんのために引かれた縄であるかも憶測でしかないが、造林地区の境界とみるのが妥当であろう。
そこから先は、灌木や丈の高い雑草の生い繁るひらけた藪になっていて、さらにその先に、鬱蒼とした森が見えた。
樹種は不明ながら、枝葉の厚く重なる木下は昼なお暗く、遠目にも木が多いのがわかった。
間伐の手が一切入っていない、あるがままにある自然の森が、はじまっていた。
縄張りの手前で足をとめ、おれは暫し考える。
この場所から山麓までの推定距離は、ウルグラドルールからホーキ川までの直線距離と大差ない。
町から橋まで、一日半で至ったが、整備された歩道を歩くのと、人跡の絶えた森を歩くのとでは、当然ながら違う。
何日かかるか、見当をつけるのは難しかったが、川の源流がホズ・レインジである見込みは得られた。
三日……三日もあれば、山麓に到達できるはずだ。
しかし、そこからは、予断をもって無考えに川筋に従うわけにはいかない。
水源が、彼の山のどこにあるのかまでは、わからない。
もし、それが西であったらば、山麓到達以後の遡上は、南にひろがる樹海から遠ざかることになる。
上流の方角は、常に把握しておかなければならない。
川の流れと、天体の流れ。
それとホズ・レインジの位置だ。
南北の磁極を示してくれる方位磁針があれば、そんな手間もかけずに済むのだが……。
ため息とともにふと、一月ほど前の道中、アリガン盆地へ立ち寄ったことが思い出された。
そこは、磁石鍛冶で広く知られた農村だった。
途上の宿場町を通過した際、たまたま道連れとなった男が同地からの野菜売りで、話しをするうち是非にと乞われ、渡りに舟かとその帰り道に同行した。
現在おもに羅針盤に使われる、実用的な永久磁石と言えばごく僅かの天然産を除き、アリガン製の鍛造磁石を指す。
熱した鉄を冷却すると、鉄が有する磁性が地磁気の磁極に沿って整い、磁力を帯びるが、同地で製造された磁石は、他地製のものよりも比較的に強い磁力を持つためだった。
理屈はよくわかっていないが、一帯の磁場が関係しているのは疑いのないところと思う。
その影響か、どうなのか、アリガン盆地では稲がよく育ち、連作障害もないらしく、主産業となっている広大な水田の片隅にて、工房が鎚音を響かせる風情であった。
彼らの叩く原料は第一等の貴金属であり、磁化工程のぶん割高ともなる磁石は、道々の宿場町にぶらさがる値札のいずれも、おれの懐では、おいそれと言えなかった。
しかし、向後の進路において方位磁針が大きな助けとなるのはあきらかだったので、あるいは原産地ならば手持ちで融通してくれるかと、淡い期待をもって訪れたのだった。
見渡すかぎりの田園を眺めながら、一服に出た職人たちとポツ茶を飲みながら、鍛造磁石よりも強力な希土類元素を含む鋳造磁石を作る未来の話しをして、おれは去った。
馳走になったアリガン製のポツ茶は、美味であった。
まあ、無いものを考えたところで、しかたない。
私物のこの目玉でも、捉える指標を見誤りさえしなければ、決断が必要になったとき踏み迷うことはないだろう。
耳を澄ませた。
左から、水の跳ねる音が確かに聞こえた。
深呼吸をし、おれは縄張りをまたいだ。
植生の端境をわたりながら、空を仰ぐ。
太陽は行く手にだいぶ傾いていたが、日没までは、まだ時間がありそうだった。
頷いて、前を見つめた視界の端で、なにかが動いた。
足をとめ、気配を窺う。
おおかた、獣であろうが。
しばらくその場で様子見するも、姿はあらわれない。
立ち去ったか。
そうしてふたたび、歩きはじめた時だった。
真正面の森の暗がりから、四つ脚の中型哺乳動物が一頭、陽の当たる藪に出た。
草地を踏み締めている四本の脚はすらりとし、頭には円錐形をした二本の角があった。
全身の体毛は黒褐色。
だが、首元から胸にかけては白く、そこだけ毛先が長く、まるで立派な白髯をたくわえているかのように見える。
鹿のように思えたが、山羊と言われれば、そう思う。
程度の知識しかおれにはない。
わかるのは、原生の固有種に鹿も山羊も存在しない。
あの哺乳動物は帰化した外来種の野生化であると知れるくらいで、それ以上は、判じようもなかった。
彼我の距離は、十メートルほどあろうか。
森の出外れにたたずみ、こちらをじっと見つめている。
彼の出現で、おれの進路は塞がれた。
森は彼らの庭である。
捕捉されている状態では迂回したところで意味はない。
立ち去ってくれるのをしばらく願って待ってみたが、彼は人間を凝視したまま、一向にうごかない。
おれが身じろぎするたび、耳をぴくんとふるわせる。
それだけで、逃げる素振りはまったく見せなかった。
生活圏においても緩衝地帯と言うべき場所にあらわれるのだから、人馴れしているのだろうか。
森に近づいてくる足音を聞き分け、興味をひかれたか。
警戒はしているようだが、攻撃的な気色は感じない。
そろそろ、お引き取り願いたいが、どうしたものか。
森に踏み入れば、当然、獣との遭遇は避けられない。
野生動物を遠ざけるのに、長杖を振って驚かせるのが有効なことは経験的に知っていたが、尖ったあの角は厄介だ。
竹笛を吹いてみようかとも考えたが、彼の背後は森であり、追い払うどころか、集めてしまっては。
刺激するのは得策ではない。
だが、おれは進まねばならない。
思わず、口がひらいた。
「樹海に用がある」
両耳が、くいっと傾いた。
「森を抜けたい。おまえの庭に、人間が立ち入るのは、気に食わないかもしれないが、頼む。見逃してくれないか」
言って、意思を探るように、一歩、踏み出した。
すると彼が動いた。
もたげていた首をおろしたのだ。
その動作はまるで、おれの言葉を承服したように見え、目を瞠ると、彼は――。
足元の草を食んでいた。
そうして草を追いながら、路をあけてくれたのだった。
苦笑し、吐息をつく。
人間の言葉を理解したわけではないだろうが、彼なりに、人里からの闖入者を見極めたようだ。
関心を失った。
視線をはずしたのみならず、食事をはじめた。
おれの存在を無害と見なした証だ。
腹を曝すように鳴いた人間を、取るに足りぬ小者とみてくれたのなら、幸いである。
間合いが離れるのを見計らい、両手の杖を前に運んだ。
歩きはじめても、もはや無関心だった。
咀嚼しながら遠目に眺めるだけだった。
その様子から、やはり彼は人の姿を――杣人たちの姿を幾度も目にしているに違いない。
さっきまで彼が立っていた草地に近づいて、気づいた。
草を食べているように見えたのだったが、彼が食べていたのはどうやら地面に落ちた木の実のようだった。
初めて目にするそれと、まったく同じ実が、藪に点在する灌木に生っているのにも気がついた。
一つ、もぎって、食べてみた。
吐き出した。
渋味がかなり強い。
残念ながら、人の口には合いそうにない。
間近に迫った森に、おれは向きなおった。
樹間が密で、錯綜する枝葉を抜ける陽射しは少ない。
奥まるにつれ、暗がりは一層に濃くなっていた。
雑草のはびこる林床はおおむね腐葉土化しているが、落ち葉の堆積は木々に比して多くない。
常緑樹の森のようである。
構成はおそらく単一種だが、樹種はわからなかった。
ひんやりとした湿った空気が、肌に触れた。
川が近いのでこの辺りは水気がこもるのだろう。
背嚢をおろし、かぶせていた外套をまとった。
水筒の水を少し含む。
そうして荷を背負って返り見た。
彼はまだ、食事中のようだった。
遠くで、こちらに尻を向けている。
わずかにゆるんだ口元を引き結ぶと、おれは森に踏み入った。