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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
ふたたび会う
57/205

02

 まぶたをひらくと、薄暗い空間のあちらこちらに、光りの筋が見えた。

 浮かぶ見慣れない板壁に、おのれの居場所を認識し、深いため息がこぼれる。

 いつのまにか、眠っていたようで。

 ようやく、長い夜が、明けたようだった。


 微睡(まどろ)みのなか、ほんのり匂いを嗅ぎとった。

 なんの匂いかはわからなかったが、ぐうと空腹(すきばら)が鳴った。

 (ぬく)もった布団から、のそのそと這い出す。

 そうして両開きの大きな窓を、おれは開けた。


 森の鮮やかな緑が目の前にひろがった。

 陽射しの照った常緑樹の葉の群れが、立ち並ぶ柵の向こうで、夏の風にそよいでいた。


 どこかで、姫様も、聞いていたのだろうか。

 聞いていたのだろうな。

 どうやら姫様は、おれが無意識にやらかしている愚行を、なんとかしようとして、案内を申し出てくれたようだ。


(歯がゆいが、われには、加減がわからぬのだ。もどかしい。実にもどかしい)


 おそらく、ご自身の女神(おんながみ)のちからでは、人間の心を壊してしまうと危惧されたのだろう。

 それで、同じ人間である樹海の魔法使いに、頼みに行った。

 だとすると、もしかすると姫様の行動は。

 ご気性が、せっかちだからではなく、焦っていたからでは。

 おれのことを心配し、一刻も早く、呪いから解き放ってやりたいと――。


(眠り込んでいるフロリダス様に、踏んだり蹴ったり悪態をつかれていたお方は。さて、どなたでしたか)


 考え過ぎかもしれないが。


 窓の片側は開けたままにし、陽の射し込んだ室内を返り見ると、坐卓の上に。

 湯気の立つ白米を盛った茶碗と、一個の卵が入った椀が、置かれていた。

 おれは急いで靴を履き外に出た。

 しかし、路地に人の姿は、なかった。

 ご飯の湯気の立ち具合からすると置かれて()もないはずであるが、炊事場の煙突から煙りは出ていず人気(ひとけ)もなく、晴天下の緑々(あおあお)とした畠の周囲にも、鶏たちのうろつく姿が散見されるだけだった。

 陽の当たるおもちゃ箱に目をやった。

 道端に、崩れたような煉瓦(れんが)積み。


 もう早、この阿呆面(あほづら)を曝すしか、しようがない。

 今後の身の振り方は、樹海の魔法使いに相談するほかあるまい。


 ちらりと見あげた太陽は、天心に近く架かっていた。

 朝と思い込んでいたのだが、すでに午刻(ひるどき)と知り、影の短い路地を歩いて、小屋に戻った。


 板壁も柱も床板も、どれも(まだら)に黒ずみ、()れたような(きず)が随所に目についた。

 天井板は貼られておらず、(はり)(けた)の上に組まれた屋根板を支える木材も、ひどく黒ずんでいるのが見て取れた。

 あるじの話しのとおり、あてがわれたこの小屋は、相当に年季の()った家屋のようだ。

 しかし、(ほこり)の積もりは見当たらず、抜かりのない掃除ぶりで、不潔感はまったくない。

 冷たい水を顔面に浴び、完全に目が醒めた。

 ここの食事の基本は栄養価の高い卵らしいと思いながら、坐卓に向かった脳裡にふと、よみがえる。


 夢か、(うつつ)か。

 判然としない出来事を、すっかり思い出し、おれは苦笑した。

 ずいぶんと無邪気なサリアタ様であらせられたな。

 まずもってあれは夢だろうと、不確かな珍事を片づけようとした時、手がとまった。


(迎え? ああ、それはわしではない)


 到着した隠れ家の門前に、不意に現れた異相の老夫。

 あるじとわかったその出迎えを、(しゃ)した際のサリアタ氏の返事である。


 わしではない。


 姫様が見せた夢の中と、言えど。

 同一人物としか思えない老人の出迎えが、わしではないとは、いかに。

 卵かけご飯を食べながら、おれは考え込んでしまった。


 あの言葉は、たとえば一卵性双生児。

 容貌の酷似した人間が、もう一人いる、という意味では、おそらくない。

 面相のみならず、作務衣(さむえ)姿も麦藁帽子も首から掛けた手ぬぐいも。

 身なりにおいても、まるきり同じであったのだ。

 やはり両者は、同一人物と見なすのが自然だろう。


 人の態度が、時によって変わるのは情緒の変動によるものだが、言葉遣いや性格までもが、がらりと豹変してしまう特殊な事例がある。

 一つは霊的なもの、一つは病的なもの。


 前者の原因は、超自然的存在の干渉。

 顧問魔術師から聞いた話しでは、脳を支配するのは産まれついての魂がつくり出す心であり、それが第三者の魂の憑依(ひょうい)によって抑え込まれ、脳の支配権を奪われることで、本来の人格が後退し、とりついた第三者の人格が表出するのだという。


 後者の原因は、解離性同一性障害。

 有史以前の議事録に、新たな惑星環境への適性が整っていない移住者についての精神心理学的な対応策に関する記述があり、そこで言及された症例の一つ。

 強烈な心的負荷のともなう体験により、それを経験した対象を仮想することで心的負荷を回避する防衛本能が、その進行によって仮想された対象を別人格として独立してしまう重度の精神障害であるという。


 身につまして思い返してみると、後者は、おれにも当てはまる気がする。

 自分を客観視する自分が、寄り添っていたような気がする。

 たぶん、人格が分裂するほど重症化しなかっただけだろう。

 呪いの作用からも、異常な二面性を覗かせたように感じるが、そちらは例外のように思う。

 まあ、いずれにしても。


 人間は、一人の身体に複数の人格を持つことが、起こり得る。

 そして昨晩の出来事だ。

 サリアタ氏は、霊的にか病的にかはわからないが、樹海の魔法使いである主人格とは異なる、もう一人の人格を、内に宿し、共存している可能性。

 おれを門前に出迎えたサリアタ氏は、真夜中に客の食器を下げに来た、あの無邪気な人格に入れ替わった『わしではない』サリアタ氏だった。


 土間に(かが)んで茶碗を洗いながら、おれは唸ってしまった。

 それはそれで、本人に訊ねてよい問題かどうか、うんうん悩んで水を切った食器をいったん、上がり(がまち)に置いたところで、無いことに気がついた。

 脱いだまま放っておいた自前のきったない服が、上も下も、なくなっていた。

 立ちあがって室内を見ると、外套(がいとう)もなかった。

 衣服の行方を、ぼさぼさの頭髪を掻きながら考えていた時だった。

 玄関扉が外からこんこんと叩かれた。

 続いて聞こえた声に、思わず背筋が伸びあがった。


「お目覚めですか。マルセマルスカスです」

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