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噤みの森(つぐみのもり)  作者: べにさし
ふたたび会う
56/205

01

 ことん、と、風が発てるわずかな音にでも、耳朶(じだ)に響くほど。

 静かのうちに流れる夜を、もてあました。


 疲れ切っているはずなのに、眠れなかった。

 ひんやりとしていた布団はすでに、温かく。

 同じ思考が寄せては返し。

 嘆息を引きずりながら、心悶(こころもだ)えていた。




 愚の骨頂。

 見捨てられても当然の所業を、やらかした。

 自覚前の自分と、自覚後の自分。

 いったいなにが変わったか。

 セナ魔法使いは、なにを変えようとしたか。


 あの日から心中(しんちゅう)で、絶えることなく(くすぶ)り続けていた、自殺念慮の――所在。

 (むな)しい欲求の根底が、揺らいでいる感じがする。

 それはおそらく、ためらいだ。

 だが、それだけだ。

 状況そのものは、なにも変わっていない。

 人形(かたち)は消えていないし、心ともつながったままと。

 自分が自分にかけた呪いは、わずかも解けていないのだ。


 それを解く道筋として、魔女は去り際に、なかなかの難路を指し示した。

 君ではない誰かを。

 確かに、そうなれれば、簡単なのかもしれない。

 生物学的にもそれが、正しい選択なのだろうと思う。

 だが、あいにくおれは人間で、それも要領の悪い、つまらぬ男に仕上がった。

 今さら、ものになるとは思えない。

 君ではない誰かを、愛する。

 いや、愛されるなど。

 そんな自分を、一抹(いちまつ)も想像できない。


 呪いの解除は、今後のおれの行動に、すべて()かっていると言われたが。

 今のところ、途方に暮れるほかすべがない。

 サリアタ氏に対し、マルセマルスカス氏に対し、セナ魔法使いに対し。

 おれはどんな顔をして、翌日を迎えたらよいのか。


 なによりスベラルタヤにこそ、合わせる顔がないのだった。

 おれは君の姿を、あろうことか忌物(いみもの)にしてしまった。

 それを(つぐな)う手段を見いだせない愚か者が、その責務を果たすには。


 すでにマテワト・フロリダスは、終わっているのだから。


 このフロリダスは終わり、フロリダスが生まれる。

 生まれたフロリダスは、おれではないフロリダスだ。

 スベラルタヤ・トカーチを知らないフロリダスだ。

 恋人の思い出のすべてを、忘れ去ったフロリダスだ。

 しかし、このフロリダスに、本当に、そんな覚悟が持てるのか。

 サリアタ氏に言えるのか。

 自我崩壊は考慮せず、このまま人形(かたち)を、消してくれと。


「おれに言えるのか」


 ごとり。


 思わず呟いた直後、音が鳴った。

 近くから聞こえたように感じ、半睡(はんすい)のまぶたをゆっくりともちあげた。

 布団にもぐった時と少しも変わらず、屋内は真っ暗だった。

 頭をもたげ、辺りに目を配るが、なにも見えない。

 人のいる様子もなかった。

 風が鳴らした音だったようだ。

 おれはふたたび、まぶたを閉じた。


 閉じたまぶたの裏側に、坐卓の傍らに立つ人影のうしろ姿が、見えた。

 その人影は、作務衣(さむえ)を着ていた。

 つる禿()げの小柄な老人。

 そんな印象のうしろ姿だった。

 だからおれは、ああサリアタ様ではないですかと、声をかけた。

 すると、人影が、振り返った。

 まなじりの厚い皺が怒気のごとき鋭い目許。

 面識のないままに、この状況であったなら、おれは震えあがったに違いない。

 そこにいたのは、サリアタ魔法使いだった。


 当地のあるじが、坐卓の前で、なにかを持って立っている。

 (から)の食器だ。

 卓上に目をやると、そこに置いたはずの洗った食器が、消えていた。

 樹海の魔法使いは、客に出した食器を片づけに来た。

 どうやら、そういうことのようである。

 当然ながらそれらは自分で、炊事場へ持っていくつもりでいた。

 まさかあるじみずから下げに参られるとは、思いも寄らず。

 非常に恐縮し、そんなお気遣いは無用ですと、おれは言った。

 言ったところ、サリアタ氏は。

 おれに向かって大きくぺこりと、頭を下げたのだった。


 違和感。

 元気よく軽やかに、首を縦にふったその素振り。

 まるで子供の振る舞いのように感じられた。

 サリアタ魔法使いとは、会ってまだ()もないが、その反応は、違うと思った。

 なんか変だと思っていると、またもやぺこりと、子供じみた辞儀をした。

 釣られて思わず、おれも首をこくんとして、礼を返した。

 すると氏は、ひょいと土間へ跳びおり、玄関扉をひらいて、出ていった。

 閉じた扉に、ぱたん、と、音が鳴った。


 坐卓の上には、火のない蝋缶(ろうかん)が一つ、残ってある。

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